吾輩は山椒である・ふたたび
吾輩は山椒である。
都々逸調で名乗るなら、
「木から摘まれて、干されて摺られ、そして小瓶に詰められた」
ってトコだ。
七年もの間、吾輩は封も切られぬまま、大森家の戸棚の奥で眠っていた。
それが先日、ヘッポコ主婦である郁代に発掘され、再び日の目を見ることができたのだ。
「山椒があるなら、今夜は蒲焼きね~」
郁代の言葉に浮かれきった吾輩は、鰻の白い柔肌のつもりでサンマの筋肉質な体にダイブするという失態を、その際に演じてしまった。
しかし普通、「山椒」に「蒲焼き」とくれば「鰻」だろ?
「山椒」+「蒲焼き」=「鰻」だろ?
それとも何か? 時代はもう「サンマ」なのか?
吾輩が戸棚の中で眠っていた間に、そこまで変わってしまったのか?
まあ確かに、日進月歩のこの世の中で、いつまでも鰻、鰻と騒いでいる吾輩は古いのかもしれない。
鰻とサンマ、どちらも受け入れるくらいの度量がなければ、男とは言えまい。
いや、この「男」を意識する考え方自体が古いのか。
最近ではジェンダーレスとかいって性差を無視する考えがあるようだし、同性愛者への理解もだいぶ進んだと聞く。
しかし、突然同性から告白されたら驚くと思うのだが、どうだろう。
昨日までは、気の置けない友人だった。同僚だった。同級生だった。
その関係が一変するのだ。
「俺、ずっと田中のことが好きだった」
そう言って、佐藤は唇を固く引き結んだ。
よほど緊張しているのだろう。精悍な顔からは血の色が失せている。
それは、突然の告白を受けた田中も同じだった。
言葉は聞こえたが、脳が理解を拒んでいた。
突然の風が、汗に濡れた二人のユニフォームを波打たせる。
体育館の横壁を通し、試合の片づけをしているらしい後輩たちの笑い声や、靴底の鳴るきゅっという音が響いてくる。
佐藤と田中は、同じ高校のバスケ部員だった。
高校のバスケ部は、中学とは比較にならないほどレベルが高く厳しい。新入部員の二人は、時に涙を飲み、時にくじけそうになりながらも、励まし合い頑張ってきた。
過ぎてみれば、三年はあっという間だった。
佐藤と田中は、今日の試合をもって引退した。
試合終了のホイッスルのあとに生まれた静寂の中、歩み寄った二人は、無言で握手を交わした。どちらの頬も、とめどなく溢れる涙に濡れていた。
それが、三十分前。
呆然とする田中に、佐藤は白い顔のまま微笑んだ。
「突然言われたら混乱するよな。でも、もう嘘はつけない」
佐藤の顔は、さっきまでと何も変わっていない。しかし、目の奥にほとばしる激情の色は、佐藤を別の人間に感じさせた。
強い視線から逃れるように、田中はうつむいた。
「――ごめん」
それだけ言うのが精一杯だった。
佐藤の体から、ふっと力が抜けた。同時に場の空気も緩む。
「いや、悪いのは俺だ。一方的に気持ちを押しつけて、マジ、悪い」
そう言った声は、いつもと変わらなかった。
遠ざかる佐藤の、その足音が完全に消えても、田中は顔を上げられなかった。
「――佐藤が、嫌いなわけじゃないんだ」
ぎゅっと拳を握る。テーピングした指が痛かった。
「だけど、俺は、俺は――!」
……えーと、なんの話をしていたっけ。
すっかり妄想癖がついてしまった。七年も放置プレイを受け続ければ、誰でもこうなる。
そうそう、蒲焼きだ。
今日は日曜。
へっぽこ夫婦は、遅い朝食を取ったあと、自家用車で食料品の買い出しへと出かけた。
戻って来るなり郁代は、小鍋で何かを煮はじめた。かなりゴキゲンで、調子っぱずれの鼻歌が漏れている。
それはどうでもいいのだが、漂ってくる匂いが鰻のタレのような気がしてならない。
鍋から顔を上げた郁代が、
「今夜は頼りにしてるわよ、山椒ちゃん」
と吾輩にニンマリ笑いかけたことも気になる。
鰻が出てくる確率は低いだろう。きっとまたサンマの蒲焼きだ。
下手すれば、家計の厳しい大森家のこと。白米に鰻のタレだけかけて食ってもおかしくない。
期待してはいけない。
いけないが、この甘辛い匂いは、吾輩の理性を狂わせる。
正直に言おう。
なんだかんだ言いながらも、吾輩は鰻を期待している。
カモン、鰻! 鰻、カモーン!
頭の中は、そのフレーズでいっぱいだ。
自分でも愚かだと思うが、それほどまでに鰻は吾輩の夢であり、捨てられぬ欲望でもある。
夕方までは、そわそわしっぱなしだった。
「もしかして鰻……」と期待しそうになる吾輩を、「同じ轍を踏むな!」と叱責する吾輩がいて、「時が来れば判る。落ち付け」と言う吾輩の足に、「でも、希望は大切だよね」と吾輩が縋りつく。
バレンタインデーにおける非モテ男子の胸中のようだ。
休日の大森家の夕食は早い。
それだけが救いだった。
平日ならあと二時間、家の主である飯太郎が帰宅する夜八時まで、気を揉み続けたことだろう。
食卓には、前回と同じ光景が広がっていた。
青い縦縞の丼。レトルトの吸い物。そして、吾輩。
飯太郎が丼の蓋を取ると、ふわりと湯気が立ち上り、一拍遅れて甘辛い匂いが部屋いっぱいに広がる。それすらも前回と一緒だ。
「おお、美味そうだなあ!」
嬉しさに鼻の穴をふくらませ、飯太郎は吾輩を掴み上げた。
ふわっとした高揚感。そして、蓋が開いての開放感。
「…………」
今回は無言で落下した。
相手を鰻と思い込み、「ヒャッハー!」と奇声をあげつつ飛び降りた過去は、ぜひとも消し去りたい。
下り立った先は白くなかった。
サンマの浅黒さとも違う。
黒い。しかも、もさもさと波打っている。
「……チ○毛?」
「失礼ねっ、海苔よ!」
湿り気を帯びた刻み海苔が、尖った声を出す。
おい、郁代!
吾輩という優秀な脇役がいるのに、余計なのを加えてどうする!
料理は算数とは違う。足せばプラスになるってもんじゃない。
憤りに震えながら、吾輩は必死で底を目指した。
海苔の下にあるものの正体を、早く見極めたかった。
体が、海苔とは違う感触を捉えると同時に、視界が明るく広がった。
柔らかい。それに、白い。
「おおお……!」
感動に全身が打ち震える。
その時、何か細いものが体に当たった。
まさぐると、その髪の毛のようなものは、等間隔に続いていた――って、
「コレ穴子おぉぉ! 穴子の小骨えぇぇ!」
折りしもテレビに映るは「サザエさん」。マスオに両手を合わせたアナゴさんが、
「(ん)フグタくぅ~ん。(ん)頼むよ~ぅ」
などと、無駄に美声を響かせている。
「美味いなあ」
飯太郎が舌鼓を打つ。
「穴子も鰻も同じようなものだな」
「でしょでしょ~」
郁代が、はしゃいだ声で応じる。
「ほとんど同じっていうか完全一致? それなら安い穴子で十分よね」
ふざけんな馬鹿夫婦!
確かに同じウナギ目。サンマよりは近いと言えよう。
しかし、鰻はウナギ科の淡水魚、穴子はアナゴ科の海水魚と、あとはハッキリ分かれている。
尻尾も違うし、顔も違う。鰻は下顎の出ている「アイ~ン」顔だが、穴子は逆で顎なしだ。
栄養価については、何をか言わんや、だ。
しかし吾輩は、罵声をぐっと飲み込んだ。
前回、心ならずもサンマを傷つけてしまったことを、今も深く悔いている。
この事態は、決して穴子のせいではない。
強いて笑みを作った吾輩は、気さくな調子で穴子に声をかけた。
「あの夫婦、馬鹿だな」
しかし、穴子からの返事はない。
「ば、馬鹿夫婦ダヨネー?」
聞こえなかったかと思い、もう少し大きな声で呼びかけた途端、
「はあッ?」
ものすごく不機嫌そうな声が返ってきた。
「ゴミカスのくせに何言ってんの? 話しかけないでくれますーぅ?」
続けて、大きな舌打ちと低い呟き声。
「ったく。山椒のクセに」
その瞬間、頭にカッと血がのぼった。
「クセにとはなんだ!」
怒鳴る吾輩を、穴子は鬱陶しそうに、上から下まで舐めるように見た。
「だってアンタ、香辛料じゃん。なくてもいい存在じゃん?」
「山椒がなければ、鰻も穴子も引き立たんっ。吾輩あってのオマエらだ!」
「へー。じゃあ聞きますけどぉー」
穴子は、蠱惑的な体をふくらませて言った。
「白いゴハンがあるとしてー、オカズが一品しか選べないとしますねぇ。穴子だけの皿とぉ、山椒だけの皿ぁ。これで山椒取る人いると思う?」
ああいるさ。いるに決まっている。
そう叫んだはずが、吾輩の喉から漏れたのは、「くっ!」という苦しげな声だった。
「ほらね」
穴子の声には、勝者の響きがあった。
「アタシは主役にはなれない。でも、オカズにはなれる。だけどアンタはどっちも無理。誰かと一緒でないと価値を示せないの。この差、判る? 判ったら消えろゴミカス。分をわきまえろ。な?」
「もう、アナちゃんったら止めなさいよ。言いすぎ!」
ハスキーな甘い声が降ってきた。
見上げると、刻み海苔が心配そうに吾輩たちを見ていた。
「だってノリちゃん、コイツうざいんだもん」
不満そうな穴子に、刻み海苔は、母親のような優しい笑みを向けた。
「確かに私や山椒さんは、アナちゃんみたいにはなれないわ。でも、私たちがいないと物足りなく感じる人もいる。その隙間を埋められるだけでも幸せ。十分よ」
「おお……」
天を仰ぐ吾輩の口から、感動の息が漏れた。
なんと美しい考え。なんと慈悲深い笑顔。
やはり女は、心根が清く正しく美しいのが一番である。
吾輩は、鰻に固執し過ぎていたのではなかろうか。
色白のモチモチ肌に拘って、大切なものを見失っていたのではないだろうか。
彼女は、チ○毛のような体を伸ばして、吾輩を優しく抱きしめてくれた。
いい匂いがする。潮とお日様の匂いだ。
うっとりと目を閉じる吾輩の耳に、穴子の下品な含み笑いが聞こえた。
「言っとくけど、ノリちゃん男だよ」
「は?」
吾輩は目を開いた。
ニヤニヤと笑う穴子から、すぐ目の前にある海苔へと視線を移す。
よく見れば、てらてら光る表面に、うっすら浮かぶ黒い点。
これ、髭? 髭なの?
「ちょっ、待っ……」
逃げようとしたが、身動きひとつ取れない。
湿気を吸った海苔のホールド力を甘く見ていた。
「あはは、仲良くねぇ」
穴子が高らかに笑う。
「離さないわ、ダーリン」
うむ。この腕力は確かに男。
「(ん)いいじゃないか、キミ~ん」
アナゴさんは黙っとけ。
「ま、待ってくれ!」
吾輩は叫んだ。
吾輩は頑固だが、偏狭ではない。
時間をかければ変われると自負している。
だが、すぐは無理だ。心はそんなに単純なものではない。
すまない、海苔。
ごめんよ、佐藤。
君を傷つけたいわけじゃないんだ。
優しい君は、俺の大切な友達だ。それは永遠に変わらない。
だけど、俺は、俺は――。
「最初は女がいいーーーーーー!!!!」
最初ってなんだよと思いながら、海苔にガップリ縦四方固めを決められた吾輩は、胃袋という名の奈落に向かって滑り落ちて行った。




