吾輩は山椒である
吾輩は山椒である。
都々逸調で名乗るなら、
「木から摘まれて、干されて摺られ、そして小瓶に詰められた」
ってトコだ。
塩や砂糖に比べれば、吾輩の需要は多くない。
スーパーマーケットでも売れるのは、向こう三軒両隣ばかり。
右隣に鎮座する七味唐辛子なんぞ、あきらかに吾輩を見下しておった。客の手で空中につまみあげられるたび、彼奴らはすまし顔で、「お先に失礼」などと挨拶を寄こした。
左隣の胡椒も、不愉快なヤツだった。
「私も貴殿も、同じ『椒』の字を持つものなんですけどねえ。貴殿が一本売れるまで、私は百本売れている、と。やや、これは失敬」
などと嫌みを言いおる。
悔しさにギリギリと歯噛みをしたものだ。
だから、その指が吾輩を掴んだ時は、夢ではないかと思った。
空中に持ち上げられた時は、嬉しさに心まで宙に浮いた。
レジで浴びた青い光や、買い物カゴの網目から見た景色は、今も目に焼き付いている。
――まさか、それからずっと放置されるとは。
ガスレンジ横の戸棚の奥が吾輩の定位置となってから、幾年月が過ぎただろう。
周囲には、ガラムマサラやナツメグなど、異国のものが多く並んでいる。
彼らの需要が少ないのは、まあ仕方なかろう。日本人の口には合わないし、用途も限られる。
しかし、吾輩は違う。
日本を代表する香辛料のひとつで、海外では「ジャパニーズ・ペッパー」と呼ばれるほどの存在だ。
それが、この有様。
情けなくて涙も出ぬ。まあ、湿気るから出すわけにもいかないが。
そんな吾輩が、日の目を見たのはつい先日。
言葉通り、薄暗い戸棚の奥から、明るい陽光のもとへと引っ張り出されたのだ。
「あらやだ。すっかり忘れてたわ~」
大森家のヘッポコ主婦・郁代が、吾輩を手の中でくるくると回しながら悲鳴を上げる。
「賞味期限、2010年ですって」
忘れ過ぎだろう、ババア。
「でも、乾きものだから大丈夫よね」
食うんかい。
冷ややかにツッコミを入れていた吾輩だったが、ババアの次の言葉で一気にテンションが上がった。
「そうだ、山椒があるなら今夜は蒲焼きにしましょう! しばらく食べてないものね~」
蒲焼き! なんという甘やかな響き。
吾輩の守備範囲は広い。
マーボー豆腐などの中華はもちろん、天ぷら、焼き鳥、なんでもござれだ。
ちりめんじゃこと軽く炒り混ぜて、醤油をひとたらししたものは、ご飯の最高の共となる。
しかし鰻は別格だ。
山椒として生まれたからには、やはり鰻と絡みたい。「主と添寝がしてみたい」ってヤツだ。
あの白く柔らかな肉に埋もれ、ねっとりとしたタレで包みこまれる。
――ああ、考えただけで恍惚となる。
その日の夕方、パートから戻って来た郁代の手には、スーパーマーケットのビニール袋が握られていた。
芳醇な匂いが鼻をかすめる。
間違いない。これは鰻のタレの匂いだ。
スーパーの鰻というのは少々残念だが、大森家の経済状況を考えればやむを得まい。
大森家の主・飯太郎が帰宅したのは、午後八時。
この男をこれほどまでに待ちわびた日は、一度もない。
「お、なんかいい匂いするなあ」
嬉しそうな顔で鼻をひくつかせる五十歳。
どうでもいいから早く席に着け。
もういいトシなんだから、「お風呂にする? 食事にする? それともア・タ・シ?」的な確認は必要ないだろう。
メシだメシ。さっさと座れ。
飯太郎が着替えを済ませる間に、郁代は食卓を整えた。
と言っても、鰻の蒲焼きが入った丼をチンして、レトルトのお吸い物を並べただけだが。
食卓に置かれた吾輩は、うずうずと「その時」を待ち続けた。
やっと席に着いた飯太郎が丼の蓋を取ると、ふわりと湯気が立ち上った。一拍遅れて甘辛い匂いが、部屋いっぱいに広がる。
「蒲焼きか! 美味そうだなあ」
丼を覗き込んだ飯太郎が笑み崩れる。
判る。判るぞ、飯太郎。
相手は鰻だ。嬉しくないはずがない。
しかもお前は安月給。鰻を口にできる機会はそれほど多くなかろう。
小さく鼻歌を口ずさみつつ、飯太郎は吾輩を掴み上げた。
ふわっとした高揚感。そして、蓋が開いての開放感。
「ヒャッハー!」
吾輩は待ちきれず、空中に飛び出した。
つかの間の空中浮遊のあと、とろりとしたタレへと着床する。
よっしゃ鰻! 鰻、カモン!
しかし、初めて触れる鰻の肌は、思ったよりも固かった。
脂の乗った柔肌ではなく、しっかり締まった筋肉質という感じか。
どことなく色も黒い。
あれ? あれれ?
しばらく肌をまさぐったあと、吾輩は叫んだ。
「ちょっと、これ、サンマ! サンマあぁぁぁ!」
蒲焼きは蒲焼きでも、サンマかよ!
何この、ネットでめちゃくちゃ可愛いデリヘル嬢を見つけて、ドキドキしながら待ってたら別人レベルのブサイクが来て、「えー。あれ、どこから見ても私じゃないですかー。ひどぉい」などと頬を膨らませ、さらに首を傾げて「チェンジはナシでお願いしますねぇ」と言われたようなガッカリ感!
その時、声が聞こえた。
――ごめんね。
サンマだ。サンマが吾輩に語りかけている。
――私には判るわ。あなたの気持ちが。
その声は澄んでいて美しかったが、せつない色を帯びていた。
――私も、鰻のまがい物になんてなりたくなかった。私自身を見て、いえ、食べて欲しかった。グリルでぱりっと焼いて、大根おろしを添えて、すだちをキュッと垂らしたら、鰻にも負けないのにな。
ふふっと笑ったサンマは、小さくできた空白のあと、呟くように言った。
――なんて、私が鰻に勝てっこないわよね。私なんかで、本当にごめんなさい。
うわあ、胸が痛む!
詐欺レベルのデリヘル嬢に毅然とチェンジを言い渡したら、俯いた彼女の表情は思いがけなく寂しげで、よく見れば頬の辺りにも清純さを残していて、ちょっとドキッとしたところに、「判りました。期待に添えなくてごめんなさい。今、新しい子を呼びますね」と明るい笑顔を向けられたかのような罪悪感!
「違うんだ、キミは悪くない!」
吾輩は叫んだ。
しかし、時すでに遅し。
飯太郎の箸が、白米の大地ごと、吾輩とサンマを豪快にすくいあげる。
吾輩の叫びも、サンマの悲しみも、すべてが飯太郎のブラックホールのような口の中に吸い込まれていった。




