CANSINO
【禁断】 きんだん
意味 『名』ある行為をしていけないと厳重に禁止すること。
さしとめること。
引用 小学館
精選版日本国語大辞典
果てなき夜を、風が走る。
まだ秋だというのに、夜風は非情に冷たい。
まるで人間のようだ。
町のシンボルの時計塔。二〇〇年以上前に造られたこの塔は、歴史的な価値もあり、昨日から今日、そして明日も、時刻を正確に町民に告げる。デジタルな世界になったとしても、この時計塔は町の顔だ。高さは、集合住宅よりも高く、まるで雲に頭を出さんとばかり。
時計盤の脇には、時計盤を修理するための通路の出入り口があった。その通路は、町がよく見下ろせると、彼のお気に入りだった。
「ルイ」
「ん?」
ルイと、そう呼ばれたのは、少年。
一方、呼んだのは老人。
「今夜は、どこの御姫様を誘拐するのだ?」
「誘拐だなんて」ルイは軽く、そして困った風に笑った。「人聞きの悪いこと言わないでよ。実際そうだけど、俺は無籠屋だよ?」
背丈はちょっと高いが、すらりとしていて、どこか気品のある身体。ルイは今年で一八歳。大人にしてはまだ幼いが、子供にしては立派な年齢だ。
老人は、厚い上着を纏い、しわだらけの手を重ねて、杖を握っている。ニット帽を被っていて、老人は孫を見るような目で彼を見つめた。
不意に、轟音。時計の時刻を知らせる鐘だ。町民からすれば親しみのある鐘の音は、時計塔にいる二人にすれば嵐のようだ。時刻は九時。
それが合図だった。
「行くのかい?」
老人が聞くと、少年は歌うように口にする。
「さあ」少年は上着を脱ぎ捨てると、黒のズボンに、背中が開いた黒い服を露わにする。その背中には、翼があった。風除けのゴーグルを目に被せ、そしてあろうことか、通路の手すりを越えて、眼下の町に飛び降りた。「仕事の時間だ」
「号外! 号外! また誘拐犯が出たぞ!」
新聞配りの男が、大声で言葉と新聞をまき散らしていく。
「また誘拐犯?」
「今度は誰がさらわれた?」
「警察は何をしているの?」
町人たちが号外に釘づけになる中で、がつんと、ティーカップをテーブルに叩きつけた男がいた。
男はいらいらとしていて、店員はカップを割られないかとおろおろこちらを見ている。
男は、ゴーダンは警部だった。長年ずっと、無籠屋を追っている一人で、そして今回もまた、無籠屋逮捕に失敗したのだ。だから彼は、陽気に号外新聞を配る男に、カップを投げつけたい思いを堪えていた。
見てろよ。ゴーダンは苦々しく思った。そして手早く会計を済ませると、人混みに紛れる。今度こそ、お前を捕まえてやる。
「か――――っ。く――――っ」
盛大な寝息を立てる、ルイ・ダガハルトが突如目を覚ましたのは、ケータイの軽快な音とバイブ音だった。
始めは、目覚ましのアラームが鳴ったのかと思ったルイ。だが、そんなものをしていないことに気づくと、渋々、布団の中で身動きして、ケータイを取った。そのまま迷惑だといわんばかりに、不機嫌な声で出る。これで間違い電話ならば、ケータイをへし折ってくれる。
「……はい?」
『やあ、ルイ君。こんにちは』
「……ああ、モートンさん」
ルイは掛け布団を押し倒し、ベッドの上で起き上る。その声音は、落ち着いていた。
彼は、三三一通りのワルポットという酒場の主人だ。
『新聞見たよ。相変わらずの活躍だね』
「そりゃ、どうも」
ふわあと大欠伸のルイ。褒められるのは嬉しいが、仕事自体は褒められないものなのはお互い知っている。それでも、ルイは嬉しかった。
『それで無籠屋として、また依頼が入ったんだけと、どうかな?』
「依頼を断る理由なんて無いでしょ。行くよ」
ルイは二言三言、モートンと会話し、軽く打ち合わせをしてから、通話を切る。
……起きよう。彼はそう思ってワンルームの端にあるベッドから出て、冷蔵庫から飲み物を出す。お茶しかないが、水よりかは良い。二リットルのペットボトルに口づけすると、冷たいお茶が食道を通り、腑に落ちる。ああ、そうだ。買い出しにも行かないとだ。ルイは気だるく思い、それでもすぐに身支度を整えて、アパートの家を出た。
町は、もうすでに秋であり、ハロウィンも近い。通りに出れば、南瓜や魔女をイメージした店の飾りでいっぱいだ。食品屋、雑貨屋、服飾店、普通の民家でさえも、ハロウィン一色だった。
三三一通りのモートンの店、ワルポットは、ハロウィンというよりかは古風な店構えをしていた。夕方から朝まで営っているこのワルポットは、暗色を基調とし、懐古的な趣と落ち着いた雰囲気の酒場であり、仕事上がりの客が飲んで騒ぐ居酒屋というよりも、静かに酒を嗜む姿が似合う、上品な空気を醸し出されている。
中に入ると、からんからんと扉についた鈴が鳴る。
「やあ、ルイ」
「おはよう、モートンさん」
カウンターに座り、ルイは首を曲げて、カウンター台に頭を落とす。
「その調子じゃ、何も食べてないね」
「ご名答っすよ。今、何時ですか?」
「二時過ぎだよ。おはようとは言えないね」
「猫は?」
猫とは依頼、または依頼人の意である。ちなみに警察は犬だ。
「三時頃来るよ」
手際よく、いつの間にかモートンはフライパンで目玉焼きを作っている。
灰色の髪をうなじで束ね、薄くひげを整えているモートン。若くは見えないが、淑女に人気のある紳士として、巷では有名な男だ。妻がいたらしいが、他界していると聞く。
目玉焼きができると、空腹のルイは飲むように食べた。それでも依頼人が来るのは三十分後だから、余裕ができる。
店にはまだ誰もいない。いつもだったら、かしましい奥さま方が雑談に花を添える頃だと言うのに……。そうか、ルイは気づく。今日は、ワルポットの定休日だった。
「無籠屋、大暴れ」
ふと口にしたモートンの言葉に、ルイは首を傾げ、思い出す。
「昨日のことね」
「新聞じゃ、一面を飾っているよ。すごいじゃないか。私にはできないな」
「だって、無籠屋だもん」ルイは当然の如く言い返す。「犬にはできないことが、俺の仕事なんだもん」
げふー。行儀悪く、ルイはげっぷを吐き出す。
それを咎めず、モートンは皿を下げた。
「猫は?」
「男だね。老人で、孫娘を助けて欲しいという話だよ。孫娘の名は、マーリン。彼女を連れだしてほしいという猫でね、今日はそのお祖父さんが来るそうだ」
「ふーん」
ルイは、それだけ言って、やっぱり大欠伸。
ここ、ワルポットは、無籠屋と依頼人をつなぐ役目を担っている。なので、モートンは外部との接点だった。
からんからんと、扉についた鈴が鳴る。来客だ。
猫が来るにはまだ早い。
モートンはルイの背後にいる客に、優しく話しかけた。
「すみませんね、今日は定休日でして」
「ここに」
女の声だが、どこが窺うような声だった。
それを知ったルイは、身体を女に向ける。
「助けてくれる人がいるって、聞いたんです」
女の声だ。それに間違いはないが、身なりは男物のすり切れたスーツだった。大きいようで、だぼだぼなのは一目でわかる。深く帽子を被っていて、素顔はわからない。
ルイとモートンは、互いに顔を合わせた。
「あなたは?」
店主が問うと、女は脱帽して桜色の髪をさらしてから、言った。
「マーリンです」
……それを聞いて、ルイは驚嘆する。
「本人来たの? 誘拐されに?」
無籠屋――――
平たく言えば、彼らの役目は、鳥籠から鳥を逃がすこと。
人間は、そのほとんどが身勝手である。地位に、家柄に、金銭に。そういったものに縛りつけられ、居場所を無くし、孤独に生きる一部の人間。逃げられない。そう悟る人間もいるだろう。そして、そんなくだらない奴らに媚びなければ生きていけないことも、わかっている。その屈辱から解放するのが、無籠屋だ。
無籠屋は依頼人を通して、自由になりたいと願う人間を誘拐することで、今まで解決してきた。誘拐――――もちろん、聞こえは悪いし、それに完全に犯罪である。だとしても無籠屋には、親しい友を、娘を、親を助けるために、ずっと昔から犯罪という禁断行為を行ってきた。
そう、犯罪を名にした人助けなのだ。でも、犯罪は犯罪である。例えそこに、救われ、人生をやり直せるチャンスがあったとしても、無籠屋は汚名を被ってきた。
ルイ・ダガハルトは、五代目の無籠屋である。四代目は幼い頃のルイに才能を見出すと、技術を伝授し、二年前に勝手に引退。今頃はどこかの田舎で、嫁さんとラブラブ生活を送っていると、先日の手紙に書いてあった。
四代目がルイに希望を託したのは、理由があった。ルイの背中には、鳥類と同じく「翼」が生えていた。それは、普段は小さくたたまれていて、服を着れば誰だってその存在に気づかないだろう。そしてその翼は、自分の意志さえあれば、分厚くなり、空だって飛べるほど大きく広がることもでき、類まれな飛行能力を生み出す。
ルイが住んでいるこの町は、クエイド。
山の上から流れる二本の河が、町を三つに分断するように海へと流れている。町は二本の川に挟まれて沿うように、縦長に広く分布していた。東・中央・西の三列に分かれる町には、それぞれ、真ん中に石畳の大通りが通っていて、その坂道から、裏道や路地など入り組んだ道に通じている。
このクエイドには、入り混ざりながらも三つの地区が存在した。
大きな海から見て、手前側の第三地区は、三日月のように広がる湾を含めて「市場街」と名付けられ、単に商店街とも呼ばれている。この地区は、貿易船から運ばれてくる商品が取引される場所であり、同時に取引された商品が売られる、文字通り商店が集う街である。日々、多種多様な品が売り買いされていて、衣服も食料もほとんどがこの地区で手に入った。
その市場町の反対側の、第一地区は「紫紋街」。一番奥に構える名門貴族と軍閥家、身分上は平民である資産家などの富貴な家があり、格式の高い、由緒正しい家柄がそろっている上流家庭の町だ。
その二つの地区に挟まれているのが、第二地区の「裏町」だ。いわゆるここは、貧しくとも裕福とも庶民が仲良く軒を連ねている住居地区であり、市場町と紫紋街よりも大きな地区である。
「で、紫紋街のお嬢様が、なんでたって直接来たんですか?」
「お嬢様なんて、呼ばないでください」
むっとしたように、少女、マーリンは言葉を返す。
ワルポットのテーブル席。窓にはカーテンが引かれ、外からはただの定休日の酒場にしか見えないだろう。
桜色のロングヘアの少女は、十六歳。紫紋街の、貴族の出身だった。透き通るような白い肌に、髪の毛の色が優しく映える。
「貴族の生まれなら、使いでも出せばいいのに」
「私、実は養子でして……」マーリンは話し始めた。「母方の叔父夫婦に引き取られたんですが、狙いは私が受け継いだ遺産でした。その遺産を、最近になって使いきってしまったらしく、残っているものもないんです。唯一の理解者は祖父でしたが、その祖父も、一昨日亡くなりました」
「ほかに宛ては?」
ルイが質すと、無力にマーリンは首を振る。
「もう、どこにも、行き場がないんです……!」マーリンは涙ながらに訴えた。「生きていくのに、私はお金なんて要りません。洋服だって、宝飾品だって、欲しくない。私は自由が欲しいんです!」
マーリンは力いっぱいに叫び、涙する。
しかし、簡単に同情しては、無籠屋は務まらない。ここで必要なのは、「緊急性」だ。もしマーリンの命に危機が及べば、今夜にも「仕事」をせねばならない。しかし、こう言ってはいけないが、本人の思いこみだけでは無籠屋は禁断行為を行えない。問題はそこだ。
「マーリンさん。なんであなたはまた、そんな服を着て……」
「こうするしかなかったんです。今、屋敷の内装工事をしていて、職人に化けるために祖父の服の中で一番近い服を選びました」
「……マーリンさん。もし、無籠屋として仕事を行ったとしましょう。行き先はご存じですか?」
「祖父が私宛に手紙を書いてくれました。その中に、無籠屋さんのことや、行き先のことも書いてありました。孤児院だそうですね。私は、掃除だってできます。洗濯だって、料理は、まだわからないけど……それでもいいんです」
泣きじゃくるマーリン。
弱ったな。ルイは普段、依頼主から、依頼する人のことを聞く。つまりそれは、仕事に必要なことを客観的に見れるってことだ。でも、今のマーリンは感情的になりすぎて、どこからどこまでが問題点なのかが見わけがつかない。あー……弱ったなあ。
そこへ、やって来たのが、女性の扱いを心得ているモートンだ。
「マーリンさん。紅茶です」
店の主は、丁寧に少女に紅茶を差し出す。
感情的だった彼女は、ぐすんと涙を拭ってから、「ありがとうございます」と紅茶を一口飲む。
「マーリンさん。家ではどんな生活をしているんですか?」
目線を少女に合わせて屈み、モートンは訊ねる。
「暴力とか、受けていますか?」
「……はい」
「相手は、誰ですか」
「叔父です」
「マーリンさん、何か好きな物はありますか?」
「好きな物? ……子供が好きです。子供を相手にすると、家も、何もかもを忘れられて……」
俯くマーリン。彼女から、的確に情報を聞きとるモートン。さすが、世間のおばさまたちから人気があるだけある。
ルイは、彼のあまりの仕事ぶりに、心の中で拍手する。
暴力を受けている。しかも身内からだ。例え目撃者がいたとしても、もみ消されるだろう。それに子供好きだったら、孤児院側も受け入れてくれるかもしれない。
「マーリンさん」ルイは提案する。「三日だけ、時間を頂けないでしょうか。無籠屋の手が必要ならば、すぐに使いを送ります。こちらには、独自の情報網があります。あなたの話を信じないわけではありません。ですが、鵜呑みにもできません。……マーリンさん」
「……はい……」
泣き止んだ彼女は、もう俯かずに、まっすぐにルイを見る。
「もし、命の危険にさらされるようなことがあれば、窓のそばに寄ってください」
「窓の、そば?」
「どんな危険な場所でも、窓はあります。そこから、俺が助けに行きます。いいですね、窓のそばです」
「……わかりました」
マーリンは最後に、泣かなかった。真剣な面持ちで、しかと現状を受け止めたようだ。
「あと、これを」
ルイはポケットから、髪留めのピンを取り出した。
「ピン、ですか?」
「一種のお守りだと思ってください」
彼女は、飾り気のない、細くて黒いピンを握るとそのまま帰って行った。
「どうするんだい?」
紅茶を下げて、モートンは問う。
「どうせ、三日も待たないくせに」
「どうだろう。それは……運命の女神に聞かないと」
その女神とやらに、全てをひっくり返されるのは、翌日のことだとは誰が思ったであろう。
『ルイ!』
「ああ、こりゃまずいな」
朝になり、朝刊を手にして見出しを読んだその時、モートンから電話がかかってきた。
『あの娘が……誘拐された』
「無籠屋よりも先にだ。そっちに行くよ。電話切るね」
ルイはケータイの通話を切って、持つ物持たずにコートを羽織り、ワルポットへ走った。
朝なので、店はもちろん開いていない。裏口から入ると、カウンターに座るモートンと目が合う。
「昨夜」ルイは話し始めた。「マーリンが持って行ったピンには、盗聴器を仕掛けた。会話からみれば、売られたようなもんだ」
夜通し、寝ずにルイは盗聴器から、会話を聞いていた。
ルイの考える状況によると、こうだ。
昨日、家に帰ったマーリンは、叔母らしき女性から、どこへ行っていたのかをきつく問われていた。マーリンは答えなかった。するとその夜になり、強盗団がマーリンの家を運悪く襲撃。すると叔父夫婦はそろって、金品と一緒に、マーリンを強盗団に差し出したのだった。そして何かの拍子に、ピンは外れたのか壊れたのか、何も聞こえなくなった。
「モートンさん、奴らの居場所」
「ちょっと待ってね」
急かすルイの声に、モートンのケータイの着信音が被る。
電話に出るモートンは、受け答えしつつ、すぐに電話を切る。
「犯人たちの居場所がわかった」
「……さっすが!」
ルイは歓声を上げた。
「それで、どこです?」
「五四三通り、商店街だな、そこの古い倉庫だそうだ。マーリンもいる。ルイ、お前はどうする?」
「……翼のこと?」
残念ながら、ルイには戦闘能力はない。剣士でもなければ、魔法使いでもない。白昼に翼の姿をさらせば、ルイは無籠屋だとばれて町を追い出されるか、迫害や差別から殺されるかもしれない。そんな危険は犯せない。
「夜だ」ルイは言い切った。「決行は、今夜だ。モートンさん、それまで情報収集できますか?」
「任せて。ルイは?」
「孤児院に連絡します。まあ、多分、受け付けてくれるだろうけど、一応連絡します」
「わかった。こちらで集められるだけ、情報を集めておくよ」
二人は、そう言って、行動に出た。
果てなき夜を、風が走る。
モートンは、実に優秀な情報屋だ。夜を迎える前には、倉庫の屋内図、強盗犯の所有武器数、人数も割れた。
時計盤の通路に立つルイは、眼下を見下ろす。そこはもう、腰を抜かすほどの高さであり、飛び降りて助かる高さではない。
「行ってくるかね」
「ああ」
老人をそばに、ルイは夜風に当たっていた。
そして、コートを脱ぎ、薄着になると翼を広げる。真っ黒で、人の丈よりも長さがある、猛禽類のような翼。顔には風除けゴーグル。それと、顔を隠すための布が巻かれている。
「俺は、俺にできることをする」
ルイは、時計台から飛び降り、翼をはためかせる。
そして、彼は飛んだ!
ルイはまっすぐ、五四三通り、商店街の外れの倉庫街を飛びまわり、目的地を探す。
すぐにわかった。目的の倉庫だけ、真っ暗な中で明かりがついていたからだ。
隣の倉庫の三角屋根に飛び降りると、下を窺う。長銃らしき武器を持つ男が見えた。
さて、どうするか。ルイは屋根に飛び降りる前に、倉庫の窓を把握していた。しかし、どの窓にも、人影は見られなかった。マーリンはどこだ?
風に、異物が混ざる音がする。
反対側の屋根の端に移り、下を見下ろすと、警察部隊が動くのが見える。モートンのことだ。彼は、あの情報を警察にも流したようだ。さすがだ。
元の位置に戻るルイ。彼は耳を澄ませ、状況を眺める。
どのくらい経っただろう。
「突撃!」
聞き覚えのある男の声によって、戦況は大きく動いた。
ルイは空に舞った。夜空に紛れれば、誰にだって彼を見つけることはできない。
倉庫の周りを飛行する。と、薄汚れた窓ガラスの中の一枚に人影を見つけた。人影は、窓を上げて「助けて!」と叫ぶ。マーリンだ。だがすぐに、窓は閉められてしまう。
「行くぞおおおおおおおおおおおお‼」
ルイは一度空高く飛ぶと、一気に下降。狭い窓ガラスに突進し、派手な音をたてて破り、中に侵入。室内を飛ぶ。
「ルイさん!」
男に取り押さえられた、マーリン。そこには、彼女と男が一人だけだった。
男はルイを見て驚愕し、目を剥く。
「なんだ! あの化け物は!」
「化け物言うなあああああああああああああ‼」
ルイはまっすぐ、マーリンを抱える男の顔に、頭突き!
男は悶絶。鼻を折ったのか、盛大に鼻血をぶちまけると、そのまま膝から倒れる。
「ルイさん」
マーリンは気が動転していたが、無事だった。
「翼……?」
「どうだ。かっこいいだろう?」
自慢げに羽を広げるルイ。それから彼は、彼女の頭を撫でた。
「間に合ってよかった」
「……怖かったんですよ」
ここは倉庫の二階だった。一階は、警察と強盗団との戦闘で騒がしい。
「さあ、行こう」
ルイは羽を広げて、マーリンを背負う。
「待て‼」
はっと振り返ると、二人の真後ろに、男がいた。
ルイには、男に見覚えがあった。
「ゴーダンさん」
「ルイ・ダガハルト。無籠屋だな!」
息を切らし、警部は言う。彼の部下はまだ交戦中なのか、そこにいたのはゴーダンただ一人だけだった。
「ルイ!」彼は言う。「これが正義だと思うか‽」
「……?」
「連れ去ることが正義だと、誰が決めた。そのご令嬢は」
「これは私が望んだことです!」
不意に、マーリンが叫んだ。
彼女は訴えるかのように、ゴーダンに言い放つ。
「あなたに、何がわかるんですか? あんな家はもう嫌です」
「し、しかし」
「ゴーダンさん」ルイは間に入る。「あなたの言うことは理解できるし、言っていることは正しいかもしれない。でも、正しいだけで、涙が流れるもんなら、俺は御免です」
「誘拐という禁断を犯したとしてもか‽」
一歩踏み出す警部は、引き下がらない。
「俺は諦めないぞ。必ずお前を、捕える‼」
「……ご自由に」
ルイはマーリンを連れて、去り際に言った。
「禁断に挑戦してこそ、無籠屋だ!」
ルイはマーリンを背負い、空を駆けた。建物よりも高く、時計台よりも高く、雲よりも高く。
耳元でごうごう音が鳴る。それに混じって、少女が言う。
「ありがとう」
「……どういたしまして」
ルイは夜空を疾走する。風が、まるで二人を洗うように、優しく吹いていた。
しばらく飛んでから、ルイは降下を始めた。目的地は、クエイドから山を三つ越えた場所にある、とある町のとある孤児院。
山の麓にあるその孤児院は、まだ明かりがついている。
「あそこが、孤児院?」
「そうさ。あそこなら、誰だって匿ってくれるさ!」
マーチイン孤児院は、その町の名士たちが集まって作り上げた施設だ。その名士たちは、ありがたくも無籠屋の意見に賛同してくれているので、マーリンのことをきっと理解してくれるだろう。
孤児院前に飛び降りると、門が開いて修道女が二人出て来た。
「こんばんは」
黒服を着た、痩せた方と背の高い方の二人の女性。痩せた方はマーチイン孤児院の院長で、背の高い方は修道女の一人だ。
「院長。こんにちは」
ルイが翼をたたみながら言うと、マーリンも、それに倣った。
「こ、こんばんは」
「あなたがマーリンさんね」
聖母のような笑顔の院長は、そっと手を出した。
「ここの院長です。今日から、私たちは家族ですよ」
「はい」
マーリンは、友好の証として、出された手を握った。
「ダーチ、マーリンさんを連れて行って」
背の高いダーチは、マーリンの手を取って、門を潜って行く。
「お世話になります。院長」
ルイは頭を下げて、にこっと笑った。
「四代目はお元気?」
「おのろけ話ばかりだけどね」
「あなたも、そろそろ良い服を着なさい。もう秋だというのに、なあに、その薄着は」
「翼を広げると、薄着になるんだ。空飛ぶと、すぐ身体が熱るけどね」
二人は、ただ単に顔を知った仲ではなかった。
ルイは、この孤児院出身だった。翼が生えていたことが原因なのか、赤子の時からここで世話になり、六歳の時に四代目に拾われた。
「では、俺は帰ります」
ふわりと分厚い翼を広げると、院長が言った。
「聖母様のご慈悲がありますように」
「院長にもね。みんなによろしく」
ルイは、翼を忙しく動かし、みるみるうちに雲を越えた。
もうすぐ満月に近い、膨らんだ月が、今夜も彼を照らす。
昨日から、今日も、そして明日も、ルイは禁断を犯すだろう。
自由のために――――
終