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パンを作りましょう 彼視点

 ある休日の朝、午前七時頃。


 目が覚めると腕の中に温もりがあることに酷く安堵する。


 その温もりは、抱き込めば応えるように腕に擦り寄る。


 頬を撫でれば、寝言ともただの唸り声ともつかないむにゃむにゃした声を零す。


 いつだったか自分がそうされたように、彼女の腹を撫でる。


 赤子の肌のようにしっとりと柔らかく、自分の少し乾燥した手に吸い付くような感覚を肌で感じていると、彼女はここにいるのだと安心する。


 ぷにぷにと柔らかい腹をつつくのは楽しいが、そうすると彼女はやがて起きて、じとっとした目で睨んでくる。


 案の定、彼女は目を覚まして、「何を、しているんですか」と困ったような声を上げた。


 彼女のぷにぷにのお腹を堪能するべく、黙ってぷにぷにとお腹をつつき続ける。


 その間にも彼女は「何ですか、馬鹿にして」だの「大体私にたくさん食べるように仕向けてくるのがいけないんです」だの適当な文句を言って頬を膨らませた。


 元来静かな彼女が、最近よく声を聞かせてくれることが嬉しくて、表情を豊かに感情を表すのが可愛くて、やたらと構ってしまうのは仕方のないことだろう。


 ……彼女は、どちらかと言えば無口で、何を考えているか他人に悟らせまいとするような節があった。


 その代わりに自分の考えていることをよく理解し、先回りして自分の好きなように行動してくれるのを、どうして好ましく思わずにいられようか。


 もっと、自分のことを考えてほしくて、自分のことだけを考えてほしくて、彼女の卒業と同時に同棲を始め、仕事やバイト等もさせていない。


 それでも、ただ黙って自分の傍にいる彼女に対して、少なからず不安はあった。


 何も言わずに、どこかへ行ってしまうのではないか。


 彼女には、儚くて、弱そうで、消えてしまいそうな雰囲気があった。


 もしも、彼女が、自分から離れようとしてしまうならば、自分は、彼女を、どんな方法を以てしても、傍にいるように縛り付けるだろう。


 多少は物騒な想像をする日もあった。


 しかし、その想像を実行する日は来なかった。


 同棲を始めたその日から、彼女は自分に対して積極的に、言葉を掛け、近づいてくれるようになった。


 慣れないながらに一生懸命に言葉を紡いでくれる姿や、自分の手から食べ物を口に含むことが、どれほど自分の心を揺らしたか計り知れない。


 生きて、自分のことだけを考えて、話して、動いて、そんな彼女を、ずっと見ていたいと思う。


「うう、無言でぷにぷにし続けないでください……」


 物思いに耽っている内に、彼女からついに苦言が来た。


 手を離すと、ほっとした様子で「おはようございます」と声をかけてくる彼女に、「おはよう」と返す。


 へらりと綻ぶ口元の、どんなに可愛いことか彼女は分かっていないのだろう。


「今日は、パンを作るんですよね」


 彼女は、嬉しそうに笑みを浮かべて話す。


 彼女は、食べることが好きだ。というよりかは、基本的にずっと家にいて、多少の本を読むより他に娯楽のない彼女にとって食べることは生きていく上で重要な楽しみの内の一つなのだろう。


 自分は、同棲と同時に彼女の人間関係を狭め、可能性を減らし、自分だけを見るように仕向けたのだ。


 それでも、それに気づいているのかいないのか、控えめな笑顔でそれを受け入れ、自分を好きだと一挙一動で伝えてくれる彼女を、狭い世界の中で幸せでいさせようと思う。


 そんな仄暗い思惑を知ってか知らずか、彼女は「一階に下りましょう」と無邪気に手を伸ばすので、彼女を抱き上げて、パンを作るべく寝室から出た。


 階段を下りるとん、とんという足音と同時に、彼女が少しだけ揺れる。


 安心しきって自分に身を任せている様子は、飼い主に信頼を寄せる犬のようで、小動物的な可愛さがある。


 この幸せそうな、でも時々我に帰って恥ずかしそうな表情を見せてくれる、そんな時間が続くなら階段が永遠に終わらなくたっていいとすら思う。


「甘くて白いパンを作りましょう!チョコも混ぜて……でも、総菜パンもいいですね。明太子、入れますか?」


 彼女は、楽し気に、パンのことを、次のこと、未来のことを話す。


 自分は、うん、と頷きながら、彼女が未来でも自分の隣で笑っていてほしいと思った。


 大した返事をしなくても、彼女には、不思議と伝わるのだ。


 彼女は、ふふ、と恥ずかしそうに笑うと、隠すように顔を自分の胸に押し付けた。


 

「ふわふわのパン、もちもちのパン、いいですねぇ」


 これからパンになる粉やら何やらを捏ねている彼女の姿は、褒められるのを待っている子供のお手伝いのようで、微笑ましい。


 自分の分の生地を捏ねるのも忘れて彼女をじい、と見ていると、「ちゃんとしてください」と腹をぺし、と叩かれる。


 エプロンが白くなったのを見て、途端に慌てだした彼女に、仕返しで腹を撫でる。


 エプロンのお腹部分一面が白くなったのを見て、彼女はぷんぷんとしだした。


 本当によく、表情が変わるようになった。


 自分は、これからもずっと、彼女の変わる表情を見ていたい。


 ひとまず、パンが焼きあがれば、彼女にたくさん食べさせて幸せそうに笑う姿を、そしてダイエットがどうのと言い出す困った顔を堪能しようと思う。


 

 

彼視点のご希望ありがとうございます!

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