彼氏がヤンデレてることよりお腹が気になるのでダイエットします
「うぬう・・・」
深いため息とともに思わず唸ってしまった。
天気は曇り。窓からはぼんやりと弱弱しい光が差している。
私は隣に眠る彼の横顔を睨んだ。彼は何も知らずに眠っている。その平和な頬を抓ってみようかしらと思ったが、気持ちよさそうに眠っている彼を起こすのは忍びない。
彼のせいで、私はこんなにも辛い目に合っているというのに。
私は彼が目を覚まさないようにそっと上半身を起こした。
寝巻をお腹が見えるまで捲る。
私は自分のお腹に、人差し指を突き立てた。
ぷよりん。
効果音を付けるなら、確かに「ぷよりん」だろう。
人差し指が柔らかくお腹に刺さる。
彼と同棲を始める前までは、こんなお腹ではなかった。
どちらかといえば痩せ形で、食べても太らないのが自慢なほどだった。
このぷより具合は、間違いなく彼のせいである。
正確に言えば、彼が毎朝私に分け与える「パン」のせいだ。
私が以前彼に言った言葉、「永遠にもちもちしたいです」。
それをどうやら彼は覚えているらしい。
永遠とまではいかずとも、朝だけは一人分以上のもちもちを与えようという彼の優しさから、彼は毎朝私にパンを分けるようになった。
一口の時もあれば、丸々一つくれることもある。
パン、それは炭水化物。正常な量であればそれは私をもちもちの世界へ誘うファンシーな妖精だが、摂り過ぎれば恐ろしい妖怪である。
炭水化物ダイエットという言葉もあるくらいなのだから、パンの食べ過ぎはよくないのだ。
私は、ふう、とため息を付き、お腹をしまった。
ちらりと彼を横目で見る。
ほどよく筋肉のついている、引き締まった身体が毛布の下に隠れていることは分かっている。
私は、そろりと彼の毛布をお腹の下まで下げた。
彼のお腹を守っているのは薄い布一枚である。
人差し指を立て、つん、と彼のお腹を突く。硬い。
侵入を拒むように押し返す硬さのある弾力。
私は思い切って、彼の寝巻をお腹が見える様に捲った。
「・・・!」
目を見張る。
分かってはいた。以前に脱衣所で見たから分かってはいたが・・・割れている。
私はつい、自分のお腹を撫でた。柔らかい。
彼は、パンを私にあげるから、だからこんなお腹を保っているに違いない。
そう思うと悔しくて、手のひらで彼の腹筋を叩いた。
ぺち、と音がした。
私は目をぎょろりとさせて自分の手のひらと彼の腹筋を何度も見た。
私のお腹は、叩くとぺち、よりかは、ぽん、に近い音がするのだ。
実は昨日お風呂場でこっそり叩いてみたのだ。
何ということだ。やっぱり私は太っている。
私は悔し紛れに彼の腹筋をぺちぺちと叩いた。
ひとしきりぺちぺちで音楽を奏でた私は、彼が起きるといけないとふと思って、捲っていたのを元の通りに戻した。
毛布をとって、彼の首元まで上げていく。
当然彼の顔が目に入る。
「・・・」
「・・・」
彼の眼は、ぱちりと開いて私を凝視していた。
起きていた。一体、いつから。
私は何も言えずに彼を見つめ返した。
「おはよう」と彼は呆然としたままに言った。
私も「お、おはようございます」と形式的に口から出た。
それから彼は、ゆっくりと口を開いた。
「もういいのか」
いいです、すみませんでした。私の顔は見られていたことの羞恥と、さらに彼に気遣われてしまったことで真っ赤になった。
それから、気まずさを抱えながら一階に下りて朝ごはんを食べることになった。
何故と聞かない彼の優しさが痛い。
黙々とパンを食べる。ああ、もちもち。幸せ。だけど憎きもちもち。
普段なら私が何かしら彼に話しかけるのだが、今日は恥ずかしくて話せない。
それとも私からぺちぺちしていた理由を言わなければならないだろうか。
なんなら謝罪をした方がいいのかもしれない。
そうだ、謝ろう。
そう決心した私は思い切って顔を上げた。
すると私の視線に気づいた彼は、心得た、とでも言いたげにパンを千切り、私の前に差し出した。
「うっ、あの、今日は違うんです」
習慣は怖い。うっかり食べそうになってしまった。
彼は怪訝な顔をして、手を引っ込めた。
「最近太ったので、だ、ダイエットをしようと思ってます」
パンを受け取らなかったので彼が不愉快に思わないか不安だったが、彼は微かに首を傾げるだけだった。
「パンが私を太らせるんです、だから、あ、朝の奇行もそのせいです、ごめんなさい」
パンという名の恐ろしい妖怪を説明すると、彼は納得するように一度頷いた。
それから、彼はおもむろに視線を下げた。
何を見ているのか。私は彼につられて彼の手の辺りを見た。
彼は、その手をゆっくりと前に出して、すっとお腹を叩くように戻した。
今は服を着ているのでぺち、という音はしない。
何故、今それを再現するのか。
「ご、ごめんなさい。本当にすみません、もうしないので忘れてください」
いじめを受けている気分だ。
彼は心なしか愉快そうだ。
朝食を済ませ、皿を片付けようと席を立つ。
それよりも先に、彼は私の目の前に回り込んだ。
手には、さきほど千切ったまま手のつけられていないパンがある。
彼は無言で、そのパンを差し出した。
「え、いや、だから、パンはもう自分の分しかっ」
話している途中の口の中に押し込まれる。
どうしようもないので咀嚼して、飲み込んだ。
彼は満足げに頷いていた。
もしかして、私のダイエットを邪魔するつもりだろうか。
そんな疑惑が胸に広がり、私は彼を睨みつけた。
彼は私の視線に気づくと、ぽんぽんと頭を撫でた。
駄目だ、通じてない。
彼が仕事にでかけてから、私は上体起こしをしようと決めた。
腹筋を鍛えるためには上体起こしがいいに決まっている。
いざ、とベッドに寝転がる。ふわふわだ。思わず脱力する。
日中はだめだ。暑いし、汗をかく。
私は早々に上体起こしを諦め、枕元に置いていた小説を手に取った。
彼が買ってきてくれた古い本だ。
以前に彼が「おもしろくない」と評した作家の別の作品。
この本についてのコメントはまだ聞いていないが、わざわざ買ってきてくれたのだからきっとおすすめなのだろう。
私は期待に胸をふくらませながら本を開いた。
***
本を読み終わるころには夕方だった。
雲に隠れている夕日は、ちらちらと弱い光を覗かせた。
よし、腹筋を鍛えるぞ。
私は、ふん、とやる気に満ちた息を吐き、頭の下に手を組み、足を膝から曲げて上体起こしの体勢を取った。
「いぃーいちい、にっ・・・にぃ」
一回目から既にきつい。二回目では上体を起こせずにベッドに逆戻りしてしまった。
日ごろのインドアで運動不足な生活が祟った。
このままでは、肥満体型まっしぐらなのは。
ぷるぷると震える情けないお腹と格闘していると、ドアが開いた。
どうやら彼が帰ってきたらしい。
「あっ、お帰りなさ、い・・・さぁぁっ、ん」
なんとか三回を達成する。
今日のノルマは十回だ。頑張ろう。
目を瞑って力みながら四回目に挑戦する。
首しか前に動かせていない気がする。少し首が痛くなってきた。休憩するべきだろうか。
休憩を挟むことにして頭をベッドに下ろして脱力する。
それから目を開けると、彼がベッドの横に立って、私を見下ろしていた。
何をしているんだとでも言いたげな不審な目を向けられる。
「腹筋を、鍛えているんです・・・どうでしたか、私の上体起こし」
今朝は私のダイエットを邪魔してパンを食べさせてきたが、私の筋トレの姿を見て本気であるということが伝わったのではないだろうか。
私は得意げに彼に言った。
彼はうん、と一つ頷いて、人差し指を立てた。
まさかと思いながら彼の指の動くのを見つめる。
彼の手は私の腹筋の前まで移動した。
ぷよりん。
まさかだった。彼は私の柔らかいお腹に人差し指を刺したのだ。
「う˝っ・・・や、やめてください、馬鹿にするんですか」
抗議の声を上げるが、彼の表情は動かない。
いや、無表情な顔はむしろ、いつもより真剣な色をその眼に湛えているように見えた。
私の腹筋の鍛われ具合を確かめてくれているのかもしれない。
確かに今日は四回もの上体起こしに成功したので、多少は硬くなったように思う。
彼に私を馬鹿にする気がないなら何も言うまい。
そう決めて、私は彼の行動を見守った。
すると彼は、何を思ったのかシャツをお腹が見える様に捲り上げた。
これには流石に困惑する。
え、あの、と声を掛けたが、彼は動じない。やはり真剣な顔つきで私のお腹を見つめている。
これも、私の腹筋の具合を見ることの一環なのだろうか。確かに、服越しでは分からないこともあるだろう。
ひんやりとした空気をお腹に感じながら、私はじっと彼の次の行動を待った。
彼の手が動いた。手のひらを広げてパーの状態。
その手がゆっくりと私のお腹に近づいていく。
直接触って確かめるということか。
それは流石に恥ずかしいというか、まずい気がする。
そこまでしなくていい。さっきのぷよりんで十分伝わっただろう。
「あっ・・・あの、あの」
静止の声を掛けようとしたが、悲しいかな。私はシャイだった。お腹を触らないでと、言えなかった。
「あの」しか言えなくなってしまった私は、その言葉を情けなくも何度も繰り返した。
それだけでも否定の意は伝わりそうなものだが、彼には通じない。
彼はそうっと、しかし明確な意思を持って私のお腹を。
ぽん。
叩いた。
本当に軽く。痛みは感じない程度に。しかし、やはり。「ぽん」と鳴った。
私が気にしていた、ぺちではなくぽんという音が、私のお腹と彼の手が触れ合ったところから、鳴ったのだ。
その瞬間、私は理解した。彼は、私の腹筋の具合を見ていたのではなかった。
彼の行動は、私が朝彼にやったことをなぞっているのだ。全く同じことを仕返しされている。
ということは、彼は私の奇行を最初から最後まで見ていた。ずっと起きていたに違いない。
つまり、彼はこれから「ぺちぺち」ではなく「ぽんぽん」で楽しく演奏を始めるつもりか。
その事実に気付いてぞっとする。ぽんぽんなんて、まるで太鼓ではないか。嫌だ。太鼓にされたくない。
「朝のことは、本当に、ごめんなさい。もう無断でぺちぺちしないので、許してください」
私は震える声で許しを乞う。
ぽんぽこされるなんて絶対に耐えられない。
すると彼は分かってくれたようで、安心させるように私のお腹を撫でた。
ひんやりとした彼の手のひらがぴとりとお腹にくっついてくすぐったい。
「本は、どうだった」
彼が、私の頭の近くに置いてある本に視線を移して、そう尋ねた。
私は彼に手をどかすように言うタイミングを奪われてしまった、と思ったが、仕方がないので答える。
「ええと、気持ち悪いというか、後味が悪い、ふっ、話でした」
私が喋り出すと同時に彼がまたお腹をすりすりと撫でるので笑ってしまいそうになるのを堪えた。
今日読んだ本は、ストーカーの男が主人公の話だった。
ストーカーしている方が主人公というのは珍しいので、面白く読み進めることができた。
男はクローゼットに隠れて女と一緒に暮らしていた。時にはベッドの下や物置に身を移しながら、なんと一か月もの間同じ家で暮らすのだ。
男は、このままでは自分の存在に気付いてもらえないし、かといって気付かれても困る。そう考えて結局家を出て行った。
その後、女に告白と謝罪の手紙を送る。
しかし女は手紙を見ても悪戯としか思わず、その手紙をすぐに捨ててしまった。
という内容である。
怖いもの見たさで読み終わった話だった。
彼は、本の内容を思い出している私の、ほとんどないくびれのあたりを指でなぞった。
ふっと笑ってしまうのを堪える。
「好きだ」
彼が言った。
いつものような淡々とした口調だった。
私はぽかんとした。この流れで告白されているのか、私は。どんな流れだ。
「最後に手紙で自分のことを伝えてしまうあたりが、いい」
彼がそう続けたので、本の感想を述べているのだと分かった。
「そうですか」
私は、残念なような、ほっとしたような気持ちでそれだけ返した。
やはり彼はヤンデレの素質があるのだろう。
ストーカーの男に感情移入しているらしい。
喋りたいことがなくなったらしい彼は、その後無言で私のお腹を撫で続けた。
「気が済んだら言ってください。」
朝の引け目がある私は彼に強く出ることが出来ずにそう言った。
そのうちに彼の手は私のお腹と同じくらいの温度になって、くずぐったさも慣れてきたのか感じなくなった。
ゆるゆると撫でられるのが心地よくて、目を閉じた。
私がふと目を覚ますと、彼はまだ私の隣にいて、お腹を撫でていた。
時計を見ると、七時過ぎだった。
彼が帰ってきたのが六時頃だったから、つまり、一時間近く私のお腹を撫でていたのだろうか。
よく飽きないものだと感心しながら、上半身を起こした。
彼も流石に辞める頃合いだと思ったのだろう。手を引いた。
「・・・ダイエット、頑張りますね」
とりあえずそう宣言してみると、彼は無言で首を横に振った。
無理だと言いたいのだろうか。私は拗ねて、彼のお腹をぺちと叩いた。