後輩さんについて、私のお腹について 前
朝、目が覚めると、シトラス系のいい香りがした。
と同時に、肌寒さを感じて、温もりのあるところへ身を寄せる。
すると、シトラスの香りが強くなった。
嗅いだことのある匂いだ。それも、割と最近。
自分の好みの香りのする温もりに頬を摺り寄せる。
ぬくぬくと暖かくて、この季節が好きだなあ、と実感する。
寒いからこそこの温もりが有難い、離れがたい。
良い匂いのする根源の暖かさに、顔を寄せてすん、と爽やかで、優しい香りを嗅ぐ。
そんなことをしている内に、寝ぼけていた頭が段々と覚醒していって、どうやら私は彼の胸に擦り寄って匂いを嗅いでいたらしい、ということに気が付いた。
わあー、なんだか私、犬のようです……。
恥ずかしくなって、彼が起きているかどうか確認しようと、ちらりと彼の顔を覗き見た。
彼の目はぱちりと開いていて、私の視線とかち合った。
み、見られていた……!
私は一抹の恥ずかしさを覚えつつ、「お、おはようございます」と若干つかえながら挨拶をした。
「おはよう」と返事をくれる彼の声は優しくて、そして寝起きで掠れていてなんだか色気がある。
私はうろりと視線を彷徨わせて、枕元に香水が置いてあるのを目に入れた。
私が先日、友人と遊んだ時に買って、彼にプレゼントした香水だ。
そして、私の好く香りの出所に納得する。
私の好みで選んだものを彼が身に着けていると思うと、単純に嬉しいのと、何となく、優越感がある。
「香水、つけてくれたんですね」
そう言った私に、彼は一つ頷いた。
それから、お礼のように、頭をぽんぽんと撫でられる。
撫でられるとまた、ふわりと香水の匂いがして、手首にもつけているらしいと見当をつける。
私は、彼の手首をはしっと捕まえると、顔に近づけた。
案の定、彼の手首からは私好みの香水の香りがする。
すん、と息を吸い込むと彼の手が、一瞬ビクリと動いたようだけれど、彼はその後特に抵抗せずに、私にされるがままにしていた。
彼から、私の選んだ香水の香りがすることに、酷く満足感を覚える。
私は、彼の手首を捕まえたまま、彼と視線を合わせた。
へにゃりと満足感のままに口元を緩めると、彼も優しく目元を細めた。
「今、何時です?」と尋ねると、彼はスマートフォンのカバーを開いて、確認した。
彼から告げられた時間は、普段起きる時間よりも一時間ほど早かった。
「早くに、起きちゃいましたね」
そう答えた私に、彼は頷くと、「歩くか?」と尋ねた。
そういえば、ウォーキング。
時々やってもいいかもしれない。むしろやろう、というふうに、以前彼と行ったときに決めたのだった。
……しかし、寒い。
今は、ベッドの上で彼と二人でぬくぬくだけれど、一歩、ベッドから足を下ろせば足の裏は寒いし、布団から出ればぶるりと一つ身震いしてしまう寒さだということを、私は知っているのだ(彼はそれを気遣って、最近は私を小さな毛布でくるんで抱っこして一階に運んでくれたりするのだけれど)。
ベッドから出るだけでもその寒さなのだから、外に出たらもっと寒いに決まっている。
しかし、私から言い出したことだという手前、「寒いから」という理由でやりたくないと言うのもなんだか気が引ける。
私は、「うう˝ん」と唸りながら、誤魔化すように彼にひっついた。
彼も、そんなに言及するつもりはないようで、甘やかすように背中をとんとんと撫でてくれた。
「そういえば、後輩さんの髪、どうなりました?」
話を変えるように、後輩さんのことを尋ねる。
彼は、ああ、と思い出したように呟いて、スマートフォンをまた取り出した。
それから、枕元に置いてあるスタンドに手を掛けて、私の方を見たのでこくんと頷くと、パチリと橙色の淡い光が着いた。
彼がうつぶせに態勢を変えたので、私も習ってうつぶせになる。
肘で身体を支えると、手を顎に添えて頬杖をついて、彼のスマートフォンを覗き込む。
そこには、真っ黒の髪で、なんだか全体的にもさもさしている青年の姿があった。
これはまた、随分とボリューミーだ。
初めて人の髪を切るのに、彼は少し……いや、かなり難易度の高い人の散髪を選んだものである。
私は感心した。
「この人が後輩さん」
と私が呟くように言うと、彼はこっくりと頷いた。
彼の指先が、スマートフォンの画面を左から右へ滑ると、次の写真へ。もっさりした後輩さんの横顔。やはりもっさりである。
彼の指がまた同様の動きを見せると、今度は後ろ髪。言うまでもなくもっさりだ。
次に、彼がスマートフォンを操作したとき、後輩さんの姿は変化していた。
どことなくあか抜けないもっさりヘアーは影を潜め、ボリュームダウン。
しかし持ち前の癖毛を活かしてふんわりとした今時の髪型で、どこぞのアイドルがやっていそうなものになっている。
後輩さんの毒のなさそうな、控えめで緊張気味の表情も相まって、頑張ってアイドルオーディションに応募する大人しめの青年のような、そんな印象だ。
え、何ですかこれはプロの犯行ですか?
と言いたくなるほどのビフォーアフターである。
「き……器用なんですね、ちょっとびっくりしました」
率直な感想を述べたが、彼はこの出来栄えに満足していないらしく、眉を寄せて写真を眺めていた。
彼は一体、どれだけのレベルとクオリティーを目指しているのだろうか。
私は「変になったら困る」とは言ったけれど、プロレベルにまで行かずとも、家庭レベルで一向にかまわないのですが……。
彼は、ふと私の方を向くと、肩を少し過ぎたところで揺れる私の髪の一房を掬い上げると、口付けを落とした。
彼は、散髪にプロレベルを求めているのかもしれない。
私は内心でほどほどで大丈夫です、と呟いた。
内心で、というのは、それでも彼が私のために何か一生懸命になってしてくれるのは嬉しいので、表向きに止めるポーズを彼に見せたくなかったからだ。
それから、彼は画像を長押ししすると、現れたゴミ箱のマークをつついて、「消去しますか?」の文字に迷わず「OK」を押していた。
あ、私に見せたらすぐ消しちゃう感じなんですね。
せっかくよくカットできてたし、写真もよく撮れていたのに、少し勿体ない気がしなくもないのだが、彼のすることだから何も言うまい。
後輩さんの写真が全て消されると、それより以前に撮っていたものが画面に映る。
画面に映ったのが、よく見知った顔……私自身の顔、しかも寝顔だった気がして、私はぐりっと彼の方へ勢いよく首を向けた。
「……今、私、写ってなかったですか」
彼は無言で、パタンとスマートフォンの画面を閉じた。
「ちょっと待ってください、何でスマホしまおうとしてるんです?」
私は、彼がスマートフォンを隠すようにしまうのを咎めた。
彼は、上体をさっと起こして、ベッドの上で私から距離を取った。
私も、体を起こすと、四つん這いになってじりじりと彼との距離を縮める。
彼が後ろ手にスマートフォンを隠したので、私はがばりと彼に正面から抱き着くようにして、彼の背中に手を回した。
こんなに見せないようにするなんて、怪しい。
寝顔の一枚や二枚くらい、恋人同士なら普通のような気がするが、ここまで頑なに隠そうとするということは、つまり。
撮っているのは寝顔だけではないのではないか?!
「まさか、とは思うんですけど……私のお腹の写真とか、撮ってないですよね?」
私は、一旦彼の身体から離れて、彼の顔を確認した。
彼は、いつにも増してすんっ……と表情を消して、まさに、無、という感じになっていた。
撮っていないなら撮っていない、と言えば済む話で、沈黙は肯定とはまさにこのことである。
彼は私のお腹を触るのが好きで、よく撫でているとは思っていたが、まさか写真まで撮っていただなんて!
しかもこの様子だと一枚ではない可能性も十分にあり得る……!!
寝顔ならまだしも、お腹はなんか恥ずかしい、恥ずかしすぎる。
私はまた彼に抱き着いて、背中に隠されているスマートフォンを手に入れるべく奮闘したが、私の頑張りも空しく、格闘している間にいつも起き出す時間が来て、一時休戦、ということになった。
彼を仕事に送り出して、帰ってきたらまた問い詰めなければならない、と闘志を燃やす朝だった。




