ウォーキングしましょう
「ウォーキングしてみようかなって思ってます」
彼が仕事から帰ってきて、私は玄関まで迎えに行くと、ドアが開くなりそう言った。
彼は一瞬ぽかんと間の抜けたような顔をしたが、すぐに元の無表情に戻り、続きを促すように沈黙した。
「朝、ちょっとだけ早起きして、近所を散歩するんです。例えば、あの少し先の公園までとか……どうですか」
彼は少しの間、考えるように目を瞑った。
「どうですか、とは」
彼の目がゆっくりと開く。
私が答える様は見逃せないようだ。
「ええ?ご都合どうですか、の意です……明日とか。急すぎますか」
別に明日でなくても、いつでも、都合のいい時で構わないんですけど、思い立ったらできるだけ早くした方がいいかなあと思いまして。だって、明日から本気出すって言ってたら言ってるうちに一年経ってたりする時ってあるじゃないですか。
言い訳がましくごにょごにょと口の中で物を言う。
私も、流石に彼の意向も聞かずに明日からやるって言うのは悪いと思う。
思ったからこそ今聞いたのだ。前日の夜だけれど。
彼は特別朝が弱いわけではないようだし、(むしろ物音に敏感で、私が早朝にふと目が覚めてもぞもぞするとすぐに眼を開いて、「眠れないのか」とかなんとか聞いてくる)急に言っても一緒にやってくれるんじゃないかなあ、なんて思ったのだけれど。
急すぎただろうか。……迷惑、だろうか。
「ああ」
彼は、ああ、と言ったぎり、また目を閉じて口を噤んだ。
その「あ」という母音二文字は、ため息のようでもあったし、急すぎますか、の問いを肯定するものであったようにも聞こえる。
「一緒に」
彼は、また目を開けると私を見つめた。
「はい、一緒です」
そう答えると、彼はまた、ああ、と言った。
何となく嬉しそうな、安堵の混じった溜息だったように思う。
つまり彼は、私の「どうですか」について、「私が一人で行こうと思っていたらどうですか」とかそんな感じに捉えるものか図りあぐねていくたのかもしれない。
「一緒に歩いてくれますか?」
一緒に行くのだということを強調した、分かりやすい言葉を選ぶ。
彼はすぐに一つ、頷いた。
***
寝る前に、枕を次の日の朝起きたい時間の数だけ叩く、というおまじないが聞いたのだろうか。
私は目覚ましがなる前に目を覚ました。
ちゅんちゅんと小鳥の囀りが聞こえる。
かつてないほどに爽やかな朝だ。
私は、目覚ましのスイッチをオフにすると、彼の肩をぽんぽんと叩いて起こした。
私の顔は、誰の助けもなく早起きできたことで得意の笑み一色だっただろう。
彼は目元を和らげて、褒める様に私の頭を撫でた。
私たちは、簡単に身支度を整えると、すぐに家を出た。
朝の爽やかな空気を身体全身で感じるのは、どれくらいぶりだろう。
秋の、澄んだ、少し冷たい空気が肌に気持ちいい。
思わずぴょこぴょことジャンプをするように軽い足取りで庭を歩く。
彼は、そんな私の様子を見て、ぱっと私の手首を掴んだ。
私の動きは止まる。
彼もそれぎり動かない。
私はよほど危なっかしく彼の目に映っているのだろうか。
「手、繋ぎましょうよ」
それならば、とそう言うと、彼は手首を掴んでいたのを離して、手を繋いでくれた。
少し肌寒いくらいだったので、暖かくなって丁度いいだろう。
以前二人で出掛けたときは、手を繋ぐことに酷く緊張したが、今は、手を繋ぐことの方が自然な感じがして、嬉しい。
「少し前に咲いてた花、もうなくなっちゃんですね」
同棲当初、たくさん咲いていた花は、季節の変化とともに見えなくなっていた。
「何か、ここで育てませんか。花でもいいし……家でつくれる野菜とか、あったらいいですね」
手作りした野菜はさぞ美味しいことだろう。
花を前者に挙げながら、早速野菜の方に天秤が傾いた。
「トマトとか、小学校の頃夏休みに作りませんでしたか」
彼は、時折頷きながら、はしゃいで話す私を眺めていた。
私は、彼を促して、庭から出た。
門は、きいっと少し軋みながら、私たちを外に出した。
……トマトって、可愛いですよねえ。特に、プチトマトは小さくて、丸くて、赤いのが可愛いです。でも、オレンジ色も少し珍しい感じで好きです。だってパプリカみたいじゃないですか。パプリカといえば、ピーマンとの違いって何なんでしょうね。赤いパプリカもあるけど、赤ピーマンとかってあるじゃないですか。でも緑ピーマンって聞いたことがないですよね。ピーマンは緑が当たり前って感じしますけど、だとしたらパプリカって言ったらまず普通として何色のパプリカを思い浮かべたらいいと思いますか……
彼と手を繋いで、歩く。
それはダイエットのためのウォーキングというよりは、のんびりとした散歩だったけれど、久しぶりにゆっくり彼と外に出て話が出来るのが嬉しかった。
私のとりとめのない話を、彼は穏やかな表情で聞いていた。
道路のコンクリートの隙間から小さな花が咲いていたり、蓋も空いていないお弁当が道路の真ん中に置いてあったり、私たちはその度に顔を見合わせて笑った。
「お弁当が落ちてますよ。しかも新しいです」
「蓋が開いてないからといって拾ったら駄目だ」
「さ、流石に拾いません……」
「食べても駄目だ」
「食べません!」
彼は私をからかっては怒らせて、愉快気に目を細めた。私も可笑しくなって、笑った。
そのうちに、目当ての公園についた。
早朝の公園には、誰もいない。
ブランコが、風に吹かれて微かに揺れている。
銀色の滑り台は鈍く光っていて、何だか懐かしい。
私たちは、滑り台のすぐ近くのベンチに座った。
ペンキが剥げかけて、水色の下から茶色い板が覗いているそれは、何となく寂しい、秋らしい風情があった。
「滑らないのか」
そう彼に問われて、私は笑った。
「もう滑り台で遊ぶような年齢じゃないですよ」
彼も同意するように目を細めたが、でもいける、と謎の支持を示してくれた。
それは確かに滑ろうと思えば滑れないことはないのだけれども。
私は、褒められているのか馬鹿にされているのか分からず、そうですか、とだけ返した。
「お弁当とか、持ってくればよかったですね」
そう言った私のお腹を、彼はぽんぽんと撫でた。
私はその手を掴んでやめさせる。
「今度、お昼とか、暖かい時に、おにぎりか、サンドイッチ持ってきましょう」
ピクニックです、という提案を、彼は黙って聞いていた。
それから私たちは、ひとしきりピクニックの時にお弁当に入っていたら嬉しいおかずについてと、三百円までの予算で一体お菓子は何を買うべきかという談義を交わした。
ちなみに、私が嬉しいのはから揚げ、ハンバーグ、ウインナーの順にベストスリーだ。
お菓子は何でも美味しい。塩辛いものと甘いもの両方持っていければそれで十分である。
彼は、基本的に聞き役に徹していたが、ウインナーの話になると、「たこか」とそれだけ口を挟んだ。
つまり彼は「たこさんウインナーですか」と尋ねているのだと分かると、可愛らしくて私はこっそりと笑った。
「タコの方がより嬉しいです」と返した私に、彼も頷いていた。
仕事もあるからそろそろ帰りましょうか、と腰を上げる。
帰りも同じように手を繋いで帰った。
お弁当はまだ残っていて、彼はまた「拾ったら駄目だ」と私をからかった。
「拾いませんってば」という返事に、満足げに目を細める。
彼は仕事が忙しいのでなかなか二人で出掛ける時間は少ないに違いないのだけど、こうして頼めば時間を作ってくれる。
これからも、少しずつ、二人で共有できる時間を増やして、楽しいことを見つけていきたいと、そう思った。




