「はさみエンド」回避しました
ヤンデレスイッチを押してしまったのだろうか、固唾をのんで彼の動向を見守る。
彼は、死んだように静かに、ただ私の晒されている肩を見つめた。
私は、何も言わなかった。
何を言えば正解なのか、分からなかった。
何も、言えなかった。
ふと、彼から取り上げたはさみのことが頭をよぎる。
何故彼は、はさみを持ったまま離さなかったんだろう。
いや、むしろ、何故、はさみを持って私が出てくるのを待ち構えていたんだろう。
音もさせずに、私に気付かれないように、静かに、はさみを用意して、待っていた。
どうして。
彼は、どの時点で、何を以て、怒りの導火線に火をつけた?
私は、ぎこちなく、目玉だけを動かして、テーブルの上に置いたはさみを盗み見た。
はさみは、私の心情も知らずに、無機質な銀色の光を反射して一筋の輝きを見せている。
私は、再び、彼の顔に向けて目玉を戻した。
息を飲む。
彼は、彼の目玉は、私を真似たのかそうでないのか知らないが、先程の私と同じように、はさみを向いていた。
はさみをその目に捉えて、何を、思っているのだろう。
私は、恐怖した。
何も言わない?何も言えない?
そんなことを考えた私自身に恐怖した。
何も言わないで、行動しないで、そのせいで、死ぬつもりか!
追い詰められた頭は、ぶわりとある映像を脳内に巡らせた。
「はさみエンド」
ゲームには、お出かけコマンドというものがあった。
お出かけコマンドというのは、選択し続ければ最も早くデッドエンドに近づける代物だ。
出掛けた先のストーリーなんかは一切なく、画面には「お出かけ中。now loading タッチしてね!」という可愛らしい文字が浮かび、タッチすれば既に家に帰ってきていて、彼のヤンデレゲージがぐんと上がっているという、早くエンドが見たい人にはうってつけの選択肢だった。
私は、早く彼のヤンデレボイスが聞きたいためにそのコマンドばかり選択していたものだった。
エンド分岐は、何のコマンドを何回ずつ選択したかによって変わるのだが、出掛けることが何回以上とかでやってくるのが「はさみエンド」だ。
ある日お出かけから帰ると、はさみを持っている彼が家では待ち構えている。
彼のヤンデレボイスを聞いて、彼がはさみを振り上げたところで画面はブラックアウト。
私が一人で出掛けるのは彼と同棲を初めてまだ初めてのことなのだが、一度でもアウトなのか。
わからない。
ここは、ゲームではないから、何が起きるのか予想がつかないし、どうすれば回避できるのかも分からない。
いや、むしろ、ゲームでは問答無用でデッドエンドだが、現実では、現実だからこそ、何かしらの回避策があるはずだ。
彼を見ると、未だに無表情ではさみを見つめ続けている。
私は、そうっと、彼の右手に手を伸ばした。
指が彼の手の甲に触れると、彼の手がピクリと小さく跳ねた。
それから、彼の目玉は私の方へ向き直った。
彼の手を掴み、私の肩まで誘導する。彼の手を、私の肩に乗せる。
思いの外冷たかったが、しばらくそのままでいると私の体温にまで彼の手が温もった。
すると彼は、二三度、汚れを払うような仕草で私の肩をはたいた。
「シャワー浴びたから、もう、きれい、ですよ」
私の声は、ほんの少し震えていた。
彼は、暫くの間、私の肩をゆっくりと撫でた。
それから、おもむろに手を離すと、代わりに彼の顔が近づいてきて、肩に柔らかい感触が伝わる。
彼の髪が、首に当たってくすぐったい。
私は、彼の髪に手を差し込んでよしよしと頭を撫でた。
彼は、何度も私の肩に唇を押し当てた。
「……わたし、こうして触れられると、嬉しいです」
「でも、他の人だと何とも思いません」
「あなたが、あなただけが私に触れることが、私にとって特別なんです」
肩に、固いものがゆっくりと食い込んで、すぐに彼に噛みつかれているのだと分かった。
しかし、彼は甘噛み以上の力は込めずに、数回、がぶがぶと肩を噛むだけだ。
宥めるように彼の頭を撫でていると、彼はやがて埋めていた顔を上げた。
私は、彼の首に腕を巻いて抱き着いた。
彼は、お返しのように私の頭をぽんぽんと撫でてくれた。
「伝わってますか?」
私の問いに、彼が頷いた気色がした。
「分かった……解っている」
しかし、私が彼の首に顔を埋めているからだろう、ちゃんと言葉にしてくれた。
「……もう、一人で出掛けるな」
私が彼だけを好きなのだと、分かってはいても色々と許せる範囲は狭いらしい。
私は、自由を狭められているのだと分かっても、何だか笑ってしまった。
「でも、お仕事忙しいから一緒にお出かけする時間、ないじゃないですか」
そう答えた私に、彼はむっと黙り込んだ。
でも、撫でる手は止めないでいてくれる。
「今度、時間が出来たらまた出掛けましょう、二人で」
彼が、ほんの少し笑う気配を感じて、私は嬉しかった。
***
その後、機嫌を直した彼にハンドマッサージを施した。
コツも分からない、率直に言えば下手くそなものだったと思うが、彼は穏やかな顔でそれを眺めていた。
右手が終わって、さあ左手だ、という時に、彼の左手はまだきつく握りしめられていた。
私が不思議に思って左手を開かせようとすると、彼はそれを立ち上がって制して、どこかへ行って、すぐに帰って来た。
すっかり白くなって血の気がなく、固くなっていたその手を、私は丹念に揉み解した。
***
彼が、コツの書いてあるメモを左手に握りしめていたことも、そのメモの裏には連絡先が書いてあったことも、メモ紙がゴミ箱の底に散り散りになって捨て去られている今、彼女は気づきようがない。




