髪を切りましょう
朝、網戸から涼しい風が入り込むようになった。
起きてすぐは少し肌寒いくらいで、私は彼に擦り寄った。
彼は起きているのか寝ているのか分からないが、彼の胸に納まっている私をぎゅうっと抱き寄せて、隙間なくくっついた。
流石に苦しくって、とんとんと彼の背を叩くと、腕の力が弱まる。
私は、無意識のうちにうん、とかううん、とか唸りながら、寝るか起きるかと考えた。
さらりと、首元に髪が落ちる。
少々癖のある私の髪が、広がって鬱陶しい。
せっかくの秋らしい空気も、私の髪によって妨げられているような気さえした。
結局、首の辺りでもさもさする髪の毛が気になって、私は2度寝を諦めることにした。
こんなに邪魔なら坊主の方がましだとすら思う。
今日は、髪を切りに行こうかしらと考えながら、目を開けた。
「おはようございます」と声を掛けると、彼は「おはよう」と返して、抱きしめていた腕を解いた。
「髪、切りに行ってきます」
そう言うと、彼は多少驚いたように目を見開いた。
「何故」と問われ、「邪魔なので」と返すと、彼は私の、肩より少し長いくらいの髪を一束持ち上げて、ふわりと落とした。
どうやら、残念がっているらしい。
彼は、髪が長い方が好みだっただろうか。
そういえば、彼の好みなどは聞いたことがなかった。
しかし、彼女という立場であるのに「好きなタイプは」などと聞くのは今更であるように思う。
ただ、髪の長さの好みを聞くくらいなら、何時でも構わないだろう。
「長い方が、好きですか」
その問いに、彼は眉間に皺を寄せた。
長い方がいいということなのだろう。
私は彼を安心させるように笑って見せた。
「大丈夫ですよ。量を減らすだけで、長さを変えようとは思いません……短い方が好きなら、そうします、けど」
言葉の後半は、自分で言っていて恥ずかしくなった。
彼好みの人間でありたいなあと、思う。
しかし彼は、眉間に皺を寄せたままだ。
髪の長さとか量の問題ではなかったのだろうか。
「何か、他のことですか?」
そう聞いた私に、帰って来たのは例のごとく沈黙だった。
私は、この沈黙は彼の考えをまとめている、あるいは彼の考えていることをどこまで、どう文章で構成するか考えている時間なのだろうと推測して、彼の言葉を待った。
彼は、私以外の人間であればむしろ、会話の間に沈黙することはほとんどない。用件を端的に述べて、すぐに会話を終了する性質だ。
だから、私に対してだけ、よく言葉を考えてくれたり、迷ってくれているのだと思うと、嬉しい。
「……俺が、切ろうか」
暫くの沈黙のあと、彼は、それだけ言ったぎりまたぴたりと口を閉じた。
対する私も、あまりに予想外の発言だったので何も言い返せずに、ぽかんと彼を見守った。
「お前の髪を、他人に触らせるのは不快だ」
そうしてまた少ししてから開いた彼の口から出たのも、また信じられない言葉で、私は口が間抜けに開くのを止めることは出来なかった。
最近の彼は、以前に比べればずっと喋るようになったが、それでも自分の感情をおおっぴらに口にするのは珍しい。
私は、少し神経質すぎるというか、嫉妬がすぎるというか、そんなことを思いながらも彼の独占欲のようなものを見れたことに感動した。
「……髪、切ったことあるんですか」
感動はしたが、それとこれとは別問題である。
素人がそう簡単にカット出来るものなのだろうか。
いや、出来ないから職業として成り立っているのではないか。
彼も案の定、むっつりと黙って首を横に振った。
「流石に、不安です……。変な風になったら、困りますし」
素直な心情を告げると、彼は一つ頷いた。頷いたが、がっかりと落ち込んでいるように見える。
彼の感情が分かりやすくって、私には彼が可愛く見えた。
そうなると、彼のことを少し気の毒にも思った。
「あの、どうしても私が誰かに切ってもらうのが嫌なら、別に、私は」
フォローを入れる私に、彼は首を振った。
「ちゃんと髪を切ってもらったらもっと可愛くなるんだろうな」
彼がそう言って、私はぎょっと目を剥いた。
かつて彼がこんなふうに私のことをあからさまに「可愛い」などと称賛したことがあっただろうか。
しかし、彼も言葉にするつもりはなかったのだろうか。
彼自身も驚いた顔をしていて、かと思いきや頬にうっすらと赤みが差して、隠すようにそっぽを向いた。
嬉しくって、可笑しくって、笑ってしまった私は悪くない。
彼はばつが悪そうにしながらも笑う私を一瞥して、苦笑した。
その後、ひとしきり笑った私に、「行ってくるといい」と許可を出した彼に、私は「ありがとうございます、行ってきます」と返事をした。
彼はそれでもまだ何か言いたそうな顔をしていて、大方、髪を切る私についていきたいだとか、そんなことを思っているのだろうなと思う。
「お仕事、頑張ってくださいね」
流石に、仕事を休んだりはしないだろうが、一応釘を刺させてもらう。
彼はまた苦く口元を緩めて、一つ、頷いた。




