1日目 私の彼氏はヤンデレか
彼氏と同棲することが決まった。
付き合ってから2年になる。妥当な時期だと思う。
彼を一言で言い表すとしたら、寡黙。滅多に喋ることはない。そのうえに無表情でいるので、大抵の人間には彼のことが分からないだろう。
しかし、私は違った。自分でもどういう理由か分からないが、彼の考えていること、言いたいことが不思議なほどに分かった。
私が分かったつもりでいるだけかしらと考えることもあったが、彼が飲みたそうにしている(ように思う)飲み物を持って行ったり、彼が苛立っている(ように思う)時に宥めるように声を掛けると、彼の機嫌はなんとなくよくなるように思われたし、事実、彼は私を側に置くようになったので間違ってはいなかったのだろう。
人は言った。「彼のこと何でも分かっているんだね」と。
私はそれが、誇らしかった。これは運命だとすら思った。
しかし、私は気付いた。いや、思い出した。これは運命でも何でもないと。
彼の家に荷物を持ってやってきた。
庭には、私が好きだと言った花が多く植えられていて、綺麗だった。
最近改装したのだという木の床からは木の匂いがして落ち着いた。
白で統一された家具はいつも通りの配置で、彼は無表情ながら機嫌よくソファに座り、おいで、と膝を2度叩いた。
ああ、前もこんなことがあった。
私は彼といるとよくこう思うことがあるのだが、この既視感が普段より強く感じた。
ひとまず荷物を置いて彼の隣に座ると、彼は私の頭を撫でた。
彼にこうされると私はすぐに眠くなってしまう。
彼の方に凭れ掛かって目を瞑る。
そして、ああ、と思った。
「私の彼氏、ヤンデレ彼氏っていうアプリのと同一人物だ」
私が、所謂前世でやっていたスマホアプリのゲームの世界にいること、彼氏がヤンデレであること、そんなこんなを思い出した。
私の彼氏は、「一緒にいるだけで幸せ」という無欲な恋愛観を持っている。
だから、2年付き合って更にはこれから同棲するというのにキスはおろか手を繋いだことも、抱きしめられたこともない。
私も記憶を思い出すことこそなかったものの彼はこういう人で、ちゃんと私を好いてくれているというのが分かっていたので何も疑問に思わなかった。
これから、ゲームのシナリオ通りに進むとすれば、「一緒にいるだけで幸せ」からどう歪むわけか「ただそこにいればいい」というものに変わり、私は殺されて、保存されて、私だった塊が大切にされる。
あれ、これやばいやつ。
ゲームは序盤はかなりほのぼのしたものだった。
私は料理をしたり本を読んだり彼に何かプレゼントしたり、という本当にただいるだけの生活を過ごすのだが、ある日突然彼に殺されてデッドエンドで終了するのだった。
殺す時だけ、彼は感情を露わにして素敵なヤンデレボイスをかましてくるので私は毎回早く死ぬことを目標にプレイしていた。
早く死ぬ方法、それは、彼とできるだけ関わらないことだった。
本を読む、裁縫をするなどして彼に関わることなく過ごすとかなりのスピードでヤンデレゲージが上がっていく。
会話コマンドももちろんあるのだが、会話0でプレイ終了することもできる。
それくらい、彼からは何のアクションもないということだ。
しかし、今回は死ぬわけにはいかない。私はいま本当に生きている。
ヤンデレのために死ぬことなんてできない。
寿命を延ばすためには、会話コマンド、プレゼントコマンドを使いまくることが必須だろう。
そして、全年齢対象のアプリのために彼と接触するコマンドはなかったが、ここは現実。
選択肢など関係なく、私は動くことができる。
彼は恐ろしいほどの草食系、否、無食系男子である。
はっきり言って、童貞こじらせて彼女を殺してしまうような人間だ。
(前世の分合わせたら)年上で、彼を理解している私が肉食系よろしくリードしなければなるまい。
私はここまでの考えに至って生きることへの希望を見出し、眠気に任せて意識を手放した。
***
いい匂いがする。
私の意識は引き上げられるように浮上した。
焼きたてのパンの、香ばしい匂いだ。
チーンと高い音が鳴って、トースターでパンが焼かれているものだと理解した。
私はソファで丸くなったまま、彼がいるであろうキッチンに意識を向けた。
じゅわじゅわ、音が聞こえる。
彼はベーコンをカリカリに焼いているに違いない。
きっと、卵も目玉焼きかスクランブルエッグにしてくれるのだろう。
鼻をひくつかせると、いつの間にか掛けられていた毛布から桜の香りがする。
先月私が彼に贈った桜の香水を使ってくれている。
私は毛布を退けて、ソファから降りた。
クリームスープの、優しくてほんのり甘い匂いがする。
ごろごろ野菜を入れるのが好きな私のために、彼は大きめにたくさん野菜を切って、何時間も煮込んでくれるのだ。
美味しそうな匂いに誘われてふらふらと歩きだすと、彼がキッチンカウンター越しに私を見た。
彼はスープを器に注ぎつつ、私に椅子に座るよう目線で促した。
彼は私に奉仕するのが好きなのだ。
私もそれが分かっていたのでいつも黙って、ある意味尊大で、傲慢な態度で彼が私のために動くのをじっと眺めていた。
しかし、記憶が戻った私は、とてもそんな真似はできない。
デッドエンドまっしぐらではないか。
「手伝います」
私は静かに言って、彼の隣まで歩いた。
彼も大概喋るほうではないが、私もあまり喋らない。
そのせいか私の声は小さく若干掠れていて、震えているように聞こえる。
あるいは、死ぬことを意識して恐怖で本当に震えているのかもしれない。
彼は珍しいこともあるものだ、とでも言いたげに私の様子をじっと見つめた。
「これからは一緒に住むから、私も何かされるばかりじゃ悪い、です、よね」
元来私も恥ずかしがり屋だった。
普通、好かれていると分かっていても2年付き合って何もなければ自分から行動を起こすか、別れるかするだろう。
そうしなかったのは、私自身の初心と内気な性格のためだ。
彼に見られていると意識するだけで私の言葉は歯切れが悪くなり、私の眼はどこを見ればいいか分からずに彷徨い、結局は床を眺めるに落ち着いてしまう。
あれ、肉食系でリードするとか、童貞こじらせた彼氏(笑)とか馬鹿にしていた私はどこ行った。
私は家だけで強い内弁慶ではなく、自分の心の中だけで好き放題言う弱虫なのだった。
自分で自分の駄目さ加減に落ち込んでついに顔を上げられなくなった私の頭に、暖かな感触を感じた。
顔を上げると、彼の手が私の頭に乗っているのが分かった。
彼はそのままぽんぽんと何度か私の頭を撫で、スープの入っている皿を私に差し出した。
初めての共同作業(?)・・・!
私は内心で両手を上げて歓声をあげつつ、皿をそっと受け取った。
今まで、食器を運んだことすらなかった私にとって、もの凄い進歩のように感じられた。
彼も、優しく目を細めている。
あれ、なんだか初めてお手伝いする子供みたいな気持ちだ。
偉いでしょ、褒めて褒めて!と言いたくなったが、これだけのことで得意になるのもおかしくて、何事もなかったようにスープをテーブルまで運んだ。
それから、トースターからパンを取り出すべくパンを掴んでみたが、熱い。
私はぱっと手を放して、自分の指にふうふうと息を吹きかけた。
少し待ってから、人差し指でつん、とパンを突いてみる。
熱いので息を掛けて冷ます。
これを繰り返すうちに他の料理は並べられていた。
彼はひょいとパンを掴んで皿に乗せた。
「あ、熱くないですか」
彼は平気な様子で首を横に振り、席に着いたので、私も見習って腰を下ろす。
私たちは手を合わせた。
この世界に「いただきます、」いう言葉はない。
無言で食べ始める彼を見て、なんとなく寂しく思った。
だからと言って突然私が「いただきます」などと言ってもおかしいだろうから、パンを齧り、スープで流した。
パンは外側はさくっとした食感で、中はもちもちしている。
私はとにかくもちもちした食感が好きで、叶うことなら永遠にもちもちしていたいものだと日ごろから考えていた。
私がもちもち食感が好きなことに気付いているらしい彼は、よくパンを買ってくるし、お雑煮も作ってくれる。
でも、永遠にもちもち噛んでいたいと思っていることは流石に分からないだろう。
私はコミュニケーションを兼ねて、今度もちもちについて語ってみよう、と思った。
思ってから、いや、今言うべきかしらと悩む。
気付いた時に言わなければ、気付いた時に死んでいるのではないか。
今、言わねばならない。
「永遠にもちもちしたいです」
「・・・・・・」
彼はどうやら困惑しているらしかった。
私とパンとを交互に見て、むっつりと黙っている。
それから、無言で彼の分のパンを差し出してきた。
別に彼の分まで奪おうと思って言ったわけではない。
しかし、彼の厚意は嬉しかったし、永遠とまではいかずとも通常の2倍はもちもちしていられるので、受け取った。
「今日の料理のなかだったら、どれが一番好きですか」
私は、彼の言葉を聞くこともデッドエンド回避に繋がるだろうと思い、そう声を掛けた。
「なんでも」
そう短く答えた彼は、会話終了と言わんばかりに食事を再開した。
私と一緒にいれば何でも美味しい、と言っているのが既プレイの私には分かるので嬉しさやら恥ずかしさやらで口元が緩んだ。
彼は、照れているらしくいつもより早く食事を終えて、風呂を沸かすために席を立った。
私も食べ終わってから彼の分もまとめて食器洗いに従事する。
風呂を沸かしてきた彼は私が台所に立っているのをちらりと横目で見て、ダイニングテーブルに再び座った。
彼が食器洗いを手伝うこともなければ、私から手伝ってほしいと言うこともない。
我関せず、な彼はこうして自分からヤンデレゲージを貯めていくと言っても過言ではあるまい。
しかし私も「手伝ってほしい」という今までに一度も言ったことのない言葉はなんだか気恥ずかしく、情けない気持ちすらして声に出せない。
言ってみたところで、流れる水の音に打ち消されてしまうだけだろう。
私は、そっと水を止めてタオルで手を拭き、彼のもとへ歩み寄った。
彼は近づいてきた私に目線を移した。
「一緒に、お皿洗ってください」
私はぼそぼそと呟くくらいの大きさで言った。
彼は立ち上がり、私の横を通り過ぎて台所まで歩いた。
私がそのあとをついていくと、彼が皿洗いを始めたので、私は洗った皿を受け取り、拭いて食器棚に直す役割となった。
2人分の食器はあっという間に片付いた。
また椅子に座りなおそうとする彼を止めるように服の袖を掴む。
「これからは、一緒にいろんなことがしたいです」
私の意思を伝えておく。
なんやかんや私は彼のことが好きだし、できれば末永く一緒にいたいと思う。生きている状態で。
ゲームは同棲生活一日目から始まる。
その時点ではヤンデレゲージは0。
つまり、今の彼はほぼ0に近い状態のはずだ。
そして今日は私から話しかけたし、彼からの言葉も聞けた。
きっと悪いスタートではないだろう。
彼は、何も言わずに頷いた。
それから、二階に行って服を持って下りてきた。・・・私の分もある。
彼は私を連れてお風呂場に続く脱衣所の扉を開けた。
そして、私が目の前にいることにも何の躊躇もなく、上着を脱いだ。
私が呆然としている間に、上半身に身に着けていたものが洗濯籠に入れられていく。
それから、私が固まって動かないでいるので、怪訝な視線を向けた。
「これからは、一緒にいろんなことがしたいです」
彼のこの行動の原因になったとしか思えない言葉を脳内で反復する。
確かに言った、言った、けれども。
普通、いきなり、一緒に風呂に入るだろうか。
まさか、いろんなことって、イロンナコトをするつもりだろうか。
いや、彼に限ってそんなことはなく、ただ一緒に風呂に入ろうとしているだけだろうが。
混乱する私を余所に、彼は私に向って一歩踏み出した。
彼の手が私の胸元に伸びてくる。首に触れる。
ぷち、と首元で留められているボタンを一つ外された。
ああ、そうだ。彼は私のために何かするのが好きなのだ。
そして私は今までそれを当然のように受け入れてきたので、彼は私の服を脱がせてあげようとしているらしい。
これは、ありか。ありなのか。ヤンデレ化を止めるためにスキンシップは効果覿面だとは思うけれど。
ぷち、ぷちと音がなる度に私の顔に熱が集まる。
「ま」
私は震える声を絞り出した。
彼は手を止めて、私の顔を覗き見た。
「まだ、一緒にお風呂は、は、早いと思います・・・」
この言葉を聞くと彼はすぐにボタンをすべて留めなおした。
ボタンを外す速度より遥かに速かった。彼も私を脱がすことに少しは躊躇していたのかもしれない。
私はすんなりとボタンを留められたことにも、さっきの自分の言葉がお風呂に一緒に入るという意味まで含められていると思われていたことにも羞恥の余りに蒸発して消えてしまいそうな感じがした。
沈黙に耐え切れずに脱衣所から逃げるように走った。
私は二階の寝室まで走り、ベッドにぽふんと飛び込んだ。
毛布を掴んで頭から被り、自分の存在を消す妄想をしてみたりした。
一階からはシャワーの音がする。
彼は私の行動をどう思っただろうか。
というよりは、私は彼を拒絶した形になったのではないだろうか。
彼のヤンデレゲージが上がったのではないだろうか。
何故、ゲージが目に見えないんだ!
私は悲しくなって、苛々して、どうしようもない気持ちになった。
彼がお風呂から上がったら、誤解をとこう。
彼を拒絶したわけではないこと、小さなスキンシップから始めたいこと、ちゃんと伝えなければ彼がどんな行動に出るか分からない。
彼がお風呂から上がるまで、私は毛布にくるまってひたすらに存在を消す練習、もとい妄想をして過ごした。
シャワーの音が止んだ。彼が着替えている、布擦れの音がする。
どうやら、着替え終わったらしい。
彼はいつも静かに歩いているが、今は私が耳を澄ましているので、階段を上がってきているのが分かる。
私は毛布から出て、ベッドの上に正座した。
この世界には正座という概念はないのだが、気持ち的に真面目な話をするのでこれでいい。
彼も私の行動にいちいち突っ込むことはないだろう。
ぎぃ、と微かに音を立てて、ゆっくりと寝室のドアが開いた。
彼は首にタオルを掛けて、濡れた髪を拭きながら入ってきた。
私はベッドをぼふぼふ叩き、隣に来るように合図した。
彼がベッドに乗り私の前に胡坐をかいた。
そのあと私が正座しているのを見て、正座を真似てきた。
初めて見る座り方だろうに真似してくるとは、空気を読んでくれるというか、優しいというか。
正座をして姿勢を正せば、当然彼のほうが背はずっと高い。そうでなくとも高いが。
私は彼の目を見上げて、真剣に見つめた。
真面目に聞いてください、のアピールだ。
「一緒にお風呂に入るのは、まだ、恥ずかしいです」
この言葉で始まり、私は、私なりの恋愛観を必死に説明した。
まずは手を繋ぎたいこと、それから、せっかく同棲するのだからベッドが一緒がいいこと(なんとベッドは二つ用意してあったのだ)、たくさん話したいこと、等ほとんど私の願望を伝える話だった。
話が一段落着いたところで、彼は一度頷いた。
私は息が上がるほどに話していたが、彼は全くの聞き役に徹していたので涼しい顔をしていた。
普段喋るほうではない私はかなりの体力を消費した。
喋っていただけだが汗もかいた。
お風呂入ってきます、と声をかけて寝室を出た。
とんとんと階段を下りていく。
脱衣所の扉を開けると、むわりとした熱気に襲われる。
彼のシャンプーの香りが充満している。
私は服を脱いで、風呂場のドアを開けた。
浴槽には青色のお湯が溜まっていて、微かに揺れて底が揺らめいて見えた。
ほのかに蜂蜜の香りがする。
青色で蜂蜜とはこれいかに、と思ったが、私が蜂蜜が好きなことを配慮して蜂蜜の入浴剤を彼が入れてくれたのだと思うと色など些細なことだった。
ぽかぽかに温まってからお風呂を上がった。
寝室に戻ると、彼はベッドにさっきまでと同じ状態で座っていた。
私は驚いて、思わずえっと声を出した。
彼はそのまま石になったかのように動かない。
私はそろそろとベッドに上り、彼の顔を伺い見た。
しかし、彼の表情に変化はない。私は一体どうすればいいのか。分からない。彼が動く気配もない。
「寝ましょう」
私は、考えることを放棄した。眠かった。
声を掛けても彼は動かないので、手で無理に押した。
彼は背中から倒れたので、ベッドが揺れた。体格がいいので当然だ。
ベッドが壊れるとよくないので、今度からは自分で寝てほしい。
私は彼の隣に横になった。
彼は私の閉じてしまいそうな目を見つめた。
「て」
それだけ言われて、私はきょとんとする。
て・・・手?
回らない頭で考えて、結局どういう意味か分からず、取り敢えず彼の手を握った。
彼の手が随分と冷たかったので、手が冷えていたので温めてほしかったのかしら、とそんなことを思った。
彼の手が私の体温で温まるころには、私は眠っていた。