その三
コーヒーを飲んだ瞬間から、この部屋で目が覚めるまで何の記憶の連続性も無い。
瞬きしたら、ムニャムニャと横になっている自分に気付いたのだ。
「店長ぉ、マジで何を飲ましたの! てか、あそこは俺に神音シクを託す流れじゃないのかよぉ!」
ひとしきり叫んでから、坂本はゼハゼハと過呼吸に陥って死にかけて、やっとクルリと空間を見渡す。
真っ白の壁は、どうやらペンキらしい。
壁はコンクリートで、打ちっぱなしを塗りたくったのだろう。
ムラだらけで素人工事が丸出しだ。
白い壁の、ある一面。
防音吸音に優れたライブハウス用の分厚そうなドアがあった。
取っ手まで真っ白だ。
鍵が掛かっておりビクリとも動かない。
ドアに体当たりしてみたが、うんともすんとも言わない。
別の一面にも白いドアがあった。
鍵は掛かっていない。
開けてみるとウォッシュレット付きのトイレがあり、ごく普通に利用できそうだった。
天井は、大きめのダウンライトが照明をとっている。
おかげで暗闇は部屋の四隅にすら全く無い。
床もホワイトアッシュのフローリングで妙にオシャレだ。
推測するに、ここは防音のシネマルームだかAVルームなのだろう。
そこに坂本は閉じ込められているのだ。
他にめぼしい物といえば、部屋の隅に転がるダンボール。
中には一週間分くらいの非常食と水が入っていた。
「くそっ、マジで監禁かよ。まぁ店長の事だしネタだろうけど、俺にも俺の予定が……何もないけどさ」
独り言を呟き、坂本は部屋の中央に座った。
そこで寝ている神音シクの薄く儚い胸をなでなでと擦る。
思わず手を引き抜いて匂いを嗅いでしまう。
うーん、甘いミルクとネギの匂い。
「うっわぁあああああ!」
坂本は絶叫しつつ、仰向けで寝ている神音シクの姿を両眼で完全にマーキングした。
ボーカライドではお約束の学生服っぽい衣装、それの腹部をチラリと捲る。
ヘソ。
「おおおおおおおお! ああああおおおおおおおお!」
きりもみで飛び上がり回転し、そのままダウン。
格闘ゲームであれば追い打ち確定の非常に危険な状態である。
六畳の部屋をゴロゴロと転げまわって、僅かに服のはだけたシクにピタリと横付けする。
種付けではない。
眠っている表情のシクは、これから何をされるか全く予想していない顔だ。
「大丈夫、イージー、ビーケアフー」
もう語る言葉が廃人コースまっしぐらである。
感動と興奮の祈りを囁きつつ、スカートをゆっくり脱がした。
そこには、黒いゴムのような生地で覆われた下半身があった。
「ええええええっ?」
坂本は既に人ではない。叫び声を反響させるスピーカーだ。
シクの下半身を隠す黒い生地は、巧妙に背中側を回りこんで胸の方も覆っていた。
触るとツヤツアとした手触りで摘まむ事すら出来ず、肌と生地の隙間も指どころか爪一枚入らない。
無論、これを脱がさなければパンティやブラジャーを拝謁の誉に授かれず、口に入れて咀嚼する事さえも許されない。
絶対に神音シクの貞操を守らんとそれは、倫理最強の壁となって坂本に立ちはだかっていた。
「なぜだ! どうして、いつもいつも俺の前に立ち塞がるっ! 人生を抑圧する、この壁! この倫理の壁があるから、人はみんな家畜になってしまうんだろぉ!」
床に拳を叩き付けて、爪が肉に食い込み血を流す。
その滴り落ちる滴は魂の落涙である。
「見たいのか? ならば、くれてやる」
そんな渋い声が聞こえた気がした。
それは幻聴だ。
しかし、シクの背中を抱き締めた坂本の手に、一枚の紙切れが張り付いたのは現実だ。
それには「この部屋から出たいならば、神音シクが幸せになる曲を歌わせなさい」と書かれていた。
おそらく店長の直筆であり、妙に丸っこくポップな字体が中年男性の指先で書かれているかと思うと、本当に気持ち悪いやら情けないやら。
だが問題はそこではない。
部屋を出るのは重要事項であったが、それすら霞む極秘資料が付記されていた。
「部屋の外で拘束具を外す方法を販売中。精々お求め下さい」
十戒が一つ、汝姦淫為すべし。
十戒が二つ、挿せば成る射さねば生らぬ。
十戒が三つ、残りの七つはサービスよ。
コングラチュレーションズ。
坂本の脳裏には、それら唯一神のお告げがはっきりと聞こえた。
おそらく脳梗塞か脳溢血、脳挫傷、ともかく脳の何らかの疾患が裏返って、毒素をまき散らした末期症状であろう。
「うぉおお! 出せっ、俺をこの部屋から出せぇー!」
叫び、ドアを叩くも物音一つしない。
「いや、待てよ。ここに何か書いてあるな」
そう呟いて、坂本は改めて天井の資料を読んだ。
「部屋を出たければシクに歌わせろ、だと?」
ようやく本題の方に気付いた。
坂本は、あとがきから読むタイプだったのだ。
教科書では皆が石器時代を習っている時に誰より早く田中正造の写真に「いかりや長介」と落書きする。
そんなひねくれ者として、幼少時から頭角を表していたのだ。
今では立派な変態となって、サブカルの隙間ならぬ絶対領域に、食指ならぬ触手を伸ばしている。たまに液漏れする。
「そうか、これがシクを手に入れる最終テストって奴だな」
決して諦める事無く、一週間以上も無理難題に挑戦し続けた熱意。
どんな理不尽、不平等にもめげず、奇蹟を何度も呼び起こした運命。
求めるべき人間が、求めるべき存在と出会ったのだ、店長のロマンチックな心を動かすには充分な理由であろう。
「よし、分かった。その期待、答えずにはいられないな」
部屋から出られたら、この拘束具を脱がして、またこの部屋に戻って来よう。
必ず、生きて帰るんだ神音シクと共に。
この完全防音なされた部屋に。
色んな事を、それはもう、色んな事をする為に。
「さて実際、どうすれば良いんだ?」
ボーカライドの曲やライブ映像、あるいはアンドロイドによるダンスなどは幾らでも観てきた。
だが実際に歌わせたり曲を作った経験など、坂本には皆無だ。
デスクトップ・パソコンで作曲するアーティストが、声の必要なボーカルパートもコンピューターで歌わせてしまおう、という発想で作られたのがボーカライドの始まりであった。
ボーカルに乗るから、ボーカライドである。
音楽シーンに閉塞感の漂っていた時代もあって、巷の音楽愛好者たちが作り出した「流行りとは無縁の音楽」は、ボーカライド作品として多くの人間に受け入れられた。
というのが世間一般的な印象であろう。
実態は「著作権を侵害せず、無料で聴ける音楽」を「ネット上で共有する音楽コンテンツとして、誰に文句を言われる事な
く安全に盛り上がれる」のが大きかった、と坂本は考えていた。
商業ベースのボーカライドが現れて、草の根で活動していたボカラ作曲家を一括りに囲い込もおうとした際は、少なくない反発が広がったのも根拠の一つだ。
そんな周辺状況や背景ばかり知っている程度には、坂本にとってボーカライドの作曲などは「ボーカライド界隈ニュースの雑学」でしかないのだ。
彼は「自宅にアイドルを住まわせて、何でもするって言わせる」という、夢の様な環境を実現しする事が目的である。
作曲など出来るハズもなかった。
「なになに……作曲はシクと無線接続したパソコンやスマートフォンで操作できます、か」
シクの首の襟に挟まっていた取扱説明書を目ざとく発見し、そこに書かれているボーカライド作曲方法を頭に入れていく坂本。
その読解する速度と柔軟性は、常人の学習速度の実に十倍だ。
「ふっふっふ、一読み一揉……歌わせればエロス! 歌で幸せにしたらエロっする! ああ、歌はイイッねぇー!」
欲望を人参として目の前に吊るし、ケツを叩けばどこまでも走って行く動物。
それが悲しい男のサガである。
人参が萎びてしまうその時まで、男は走り続けるしかない。
若い坂本には、まだまだずっと未来の話である。
部屋を出て拘束具の鍵を解く。ただその願いの為だけに作曲マシーンとして変貌していた。
「スマートフォンは持ってるけど、充電器が無いなぁ。どこかにパソコンとか無いかねぇ」
キョロキョロと周りを見るも、特にそれらしい仕組みは無い。
コンセントの差込口は見つけたが、肝心のパソコンは無かった。
無論、スマートフォンの充電器も無い。
さてどうしたものかと悩みながらも、説明書を読み進める。
「人型アンドロイドのボーカライドである場合、簡易AI機能を使う事で対話型インターフェイスによる作曲が可能です」
なるほど。そう言えばこれ、作曲用アンドロイドだったわ。
私の朝は早い。
「もうマスター、どこ見てるんですかー?」
と某携帯ゲーム機の某ARホッケーのキャラに叱られて、甘美なる一日が始まるのだ。
嘘です。