その一
「三十九万…さんじゅう、きゅう、まん、えん……」
値札に書かれた数字を見て、右手の指を折りながら桁を数える。
親指、人差し指、中指、薬指、小指。
更に左手の小指を折って、ようやく数字のインフレーションは止まった。
三十九万円である。
彼の買おうとしているボーカライドの販売価格だった。
ボーカライド、歌って踊れる人型アンドロイド。
それは現代に生きるオタクの一大サブカルチャーである。
「さ、三万九千円の見間違えじゃないのか……?」
項垂れる青年の姿は珍しい光景ではない。
ボーカライド売り場とは、落涙し、腰を砕け、床に這いつくばり、絶望と後悔の感情だけに追われ悪堕ちする者だらけの魔境である。
死神の列に加わる新たな子羊が、彼、坂本青年であったというだけの事だ。
しかし、と坂本は震える両足を踏ん張り、正面に顔を向けた。
小柄で細身な身体の全力、自らの薄い胸を張った。
もし少女であれば胸チラのシャッターチャンスだが、坂本は完全無欠の有閑大学生、十九歳男性である。
女性と見紛うスタイルとスマイル、見た目通りの華奢さであたかも男装した少女、と疑える余地など全くない。
ごく普通の属性を持つ、凡庸な痩せ型青年男性である。
ただ、ここ数ヶ月は肉体労働や治験といった体を酷使するバイトに身をやつしていた為、体格だけは少し自信がついていた。
怪しい治験の影響か、少し肌が青白くなったり吐き気を催す時がある気もするが……。
そもそも自らの変わりゆく身体を省みる、そんな時間や暇など彼には無かった。
薄給を掻き集めた、三十万円ッ!
彼にとっての大事は、そこに居るボーカライドを購入する。
それこそ至上命題であるからだ。
崩れ落ちるな坂本! 踏ん張った両足は何の為だ?
こんな所で野垂れ死に、家族に、
『オタクの息子さんが試乗用ボーカライドで腹上死しました。ええ、弁償代を請求します』
と報告されて一族の恥晒しとして死ぬ為か?
否、断じて否。
ここでは死にたくない。
せめて最後は、ボーカライドのスカートに頭を突っ込んで安らかに……故に、まだ死ねない。
そして、死ぬ理由も、無い!
「金なら有る……万馬券を当てた、この現金五十万が!」
諦める必要などない。
労働の端金、三十万円などクソ食らえ!
ギャンブルの金は現金主義、そうして得られた五十万円……
田舎のおっかさんに仕送りしたら喜ぶだろうなーとか、不健全な思考で自らを乱そうとする心の悪魔め、散れっ!
俺が神だ!
「お客様、何かお探しでしょうか?」
大型家電店のゲキドバシ・カメラのボーカライド売り場店員が、フロアに転がる客の死体の中で唯一立ち上がった坂本へと声を掛けた。
その言葉が聞こえると同時に、坂本は狂気の反射速度で一体のボーカライドを指す。
青い髪、ツインテール、細い顎、蒼い瞳と僅かな微笑み。
白を基調にして青と赤のイルミネーションで輝く学生服調のコスチューム。
清らかな太ももがギリギリまで見えるミニスカートの奥の…物流上にある内は決して暴かれないアバタールの領域。
購入した者だけが垣間見える悟りの境地。
曼荼羅の秘術すら凌駕するボーカライドは、マスターの要求を素直に、そして懸命に努力して叶えようと尽くす。
傍に居たい。
結婚したい。
崇めたい。
拝みたい。
悟りたい。
「店員さん、このボーカライド・双音ナルを下さいッ!」
言ってやった、言ってやったぞ!
俺は、言ってやった!
坂本の心が狂う。
それは彼の中の小宇宙の始まりを意味するのか?
いや、健全な人生の終焉である。
余生をボーカライドとイチャイチャする為に費やし、子孫繁栄という人類創始以来の原初的欲求を灰燼に帰す為の第一歩だ。
「お客様、そちらは『生えてます』が、よろしいですか?」
「あ、いや。あ、別の探します」
立ち去っていく店員。
坂本は天を仰いで声無き絶叫を轟かせた。
全ての恥と外聞を投げ捨てた勇気ある一撃は、ただただ虚空へと消えた。
彼の欲しかったボーカライドは、もはや買えない。
三十九万円という金の問題では無い。
希望を与えて、なぜ奪う?
なぜ生やす!
天よ、二物も与えるな!
僕のこの穴を汚せというのか!
慟哭が天を貫き、店員がパンフレットを手に戻ってきた。
「そちらのナルは、光音テルの姉妹モデルとなります。ノーマル・モデルをお探しでしたら、ご検討頂けるかと」
果たして、もたらされたパンフレットには、双音ナルとほぼ同一個体の姿をしたボーカライドがあった。
工場の生産過程で効率化しているだけ、という理由はともかくである。
「おおっ! これ、これください!」
ほくほく顔で札を受け取り、そこに書かれた数字が目に入る。
四十九万円。
「O・T・Nを外して値段上げてんじゃねぇぇぇぇぇ!」
「お客様? お客様!」
「おいコラ、男の価値はマイナス十万って事か! O・T・Nあるだけで人生ハードモードか!
ティンコ恐怖症か!
ティンコシンドロームか!
コンジロームって空目すんぞコラ!」
「お客様、社会には需要と供給の市場原理がございまして」
「断固ティンコ粉砕! 武装ティンコ解除反対!」
なおも騒ぐ坂本だが、同時に脳裏では払えなくもない事も理解していた。
予算は五十万円。
つまり買う余裕はあるのだ。
「くそっ……くそったれ! 買ってやるよ、ティン無しを!」
「ありがとうございます」
渋々に商品案内を読み直し、とある警告マークが坂本の目についた。
少年少女が不適切な商品を間違って買わないよう、その商品仕様を分かり易く図案化したのが警告マークだ。
そこには、
『歌声』
『舞踊』
『楽器』
『会話』
の四つのアイコンが表示されて、この製品の持つ仕様をアピールしている。
「……あの、セクシャルマークが無いんだけど」
坂本は恐る恐る、その疑問を口にした。
レジに商品手配を指示しながら、店員は即座に答える。
その張り付いた営業スマイルは、僅かの揺るぎも存在しない。
「先月の少子化対策の関連法案改正で、セクシャル機能搭載型のボーカライドを販売する事が禁止されました」
* * *
坂本は歩く。
肌色多めのポスターが、賑やかに街中の壁面を踊っている。
全てがアニメ・キャラクターを扱ったものだ。
大喜びの男性外国人が、街並みをスマートフォンで撮影しまくっている。
黒地Tシャツには、胸に白字で
『ホモ、絶対!』
と書かれており、なんかもう絶望的にディストピアだ。
かつてのとある電気街。
街頭に立っているのは人間のメイドでは無く『メイド姿をしたボーカライド』である。
高級品でもある彼女たちは、盗難防止の為かチョーカーを鎖で店先に繋がれており、その有り様は人道的見地からはとても見ていられない光景だ。
だが、あくまでもアンドロイド。
非実在少女であって、それ以上の問題は無い。
非実在少女だから、スカートにカメラを突っ込んでパシャパシャと音をさせても問題は無い。
ボーカライドは、そういう扱いを受けるのが常であった。
初めての人型アンドロイドが生まれて十年。
高度な反応を返すAI処理を持ち、歌唱機能を持つPCアプリのボーカライドが搭載された。
当時よりアニメ・キャラクターをグラフィカルに用いたボーカライドは、その瞬間から人型アンドロイドの代名詞となった。
今では単にボーカライドと言えば、人型アンドロイドを指すという逆転現象が起きている。
ボーカライドはオタク社会に溶け込んだ。
なんせ文句を言わない、トイレにも行かない、スキャンダルや浮気とは無縁の完璧なアイドルである。
だが大半のオタクにとってはボーカライドとは、とにもかくにもスカートを剥いでからのパンチラ撮影から始まる
性的欲求の偉大なる解放者(THE GREAT EMANCIPATOR)であった。
極まった形が、セクシャル機能を採用したボーカライドだ。
もはやダッチワイフである。
それ以上の言葉を尽くす必要は無いが要するに「世界で貴方だけの泡姫なの」である。
「最低だ、これって」
坂本の自己嫌悪は、もはや彼の望むカタチのボーカライドが存在しない事実により、賢者的な悟りすら得ていた。
「そもそもエロとアイドルは不可分。 無理に両者を引き剥がすならば、俺にとってアイドルなどリア充の偶像であり、異教徒の信じる邪神として憎むべき対象でしかない」
両目に渦巻く絶望の黒い影、親が見れば情けなさのあまりに生ゴミ回収日を待たずして土に埋める事だろう。
その腐った肉体は毒となり、辺り一面の草木は枯れて、川は干上がり、
幼なじみはダブルピースし、
大統領もダブルピースし、
隕石がダブルピースし、
イッチローもダブルピースして世界が終わる。
「ああ、この手にボカラがあれば僕は何にだってなれる。宇宙飛行士や小学校教師になれた。この世界だって救えたのに」
坂本の昏い歩みは、秋葉原の街並みにどこまでも溶け込んでいる。
観光化や一般層向け施設を寄せ集めても、所詮オタクの街である。
滲み出る負のオーラは健在だ。
笑顔で「メイド喫茶ピア・プロットへようこそ!」と甘く囀るメイド姿のボーカライド。
その黒い生地にグレーのフリルが絡みついたロングスカートには、変態のカメラ小僧がカメラごと頭部を突っ込んでいた。
そんな彼らを見て、坂本は「あのボーカライド、穴から声が出てねぇな」と呟いて顔を背ける。
セクシャル機能を排除されたボーカライドなど、もはや坂本の求める仕様を先っちょだけも満たせない。
サヨナラは言ったはずだ、別れたはずだ。だが歩みを止めないこの足は何だ。
どこに彷徨い、何を求めて二足歩行をしていくのか。
それはまだ見ぬ誰かと口づけをする為なのか。
思い通りにならない自らの足。
無意識下の自分が求めている何か。それを彼は理解した。
「中古ボーカライド、か」
坂本は中古ショップの店先を常に立ち寄っていた。
神の意思。
そうとしか思えないし、そう信じれば全てが納得できる。
なんと狭い全てであり、腐臭のする神であろうか。
それでも坂本にとっては唯一無二の神である。
啓示。
理解した坂本の行動は素早かった。
オタクが持つ眼力を最大遠望かつ最大広角にし、視野に入った風景から必要以外の無駄な情報を削ぎ落としていく。
浮かれる外人、
セクハラを受けるボーカライド、
スカートの中で賢者モードに入ったカメラ小僧、
なぜか立ち寄っていた都知事。
それらが灰色のグレースケールに処理を落とされ、更に輪郭がモザイク化していく。
際立つのは、中古ボーカライドショップの「店頭に掲げられた中古品の名称と価格」である。
半径五十メートル、まるで皮膚に張り付いたかの如く即座に理解出来る。
これぞ中国拳法奥義、聴勁である。
知覚では無い。無我の境地で打つ時に打ち、人は倒れる。
「中古八万セク無し ……中古十九万セク無し……中古八十万セク無し……」
だがオタクならば誰もが持つ技術では、この局面を打開するのは不可能に近い。
もう幾多のオタクたちが荒らした後である事を、彼は思い知らされる。
「それでも、それでも僕には、貫きたい穴があるから!」
脳で割れる常識の種、人類でいられる最後の砦。
崩壊した倫理感の頂に立ち、遠く流れる幼き思い出に似た形の紫雲を見つめる。
ああ、ここは良い。
静かで、穏やかで、俺だけが居る。
額に浮かんでいた血管が破れて、頭皮から血を流す。
沸騰した鼻血が噴出し、それでも坂本の血走った瞳はオタクの形を僅かも揺らいでいない。
オタク坂本、ここにあり。
かくして、それは見つかる。
そりゃそこまですれば見つかる。
普通はそこまでしない。
「新…セクシャルあり…価格……『実力次第』……だと?」
ぷしゃあ。
おもらしの効果音によく似た響きで、坂本の身体から霧となって吹き出していく血。
道路へと仰向けにゆっくりと倒れていく。
周囲の人達は何事かと振り向いて「ああ、病気なんだな」と納得して通り過ぎる。
都知事は……何も見えなかった事にしている。
ボーカライドは呼び込みを続けているし、カメラ小僧は少し離れた木陰でタバコを吸いつつ一服していた。
日常、全ては日常なのだ。
所属するゲームサークルで同人誌を作る事になり、
遅々として集まらない原稿の補填として、休暇中の私に白羽の矢が立った一作。
題材は見ての通り(?)、電子の歌姫こと俺たちの天使ですが、
私はKENZEN派なので坂本のようにはなりたくありませんっ! 縞パン。
拙作『武闘派オークによる、わがままエルフ少女の教育史』を連載中ですが、
ぜひこの話も陽の目を見させてあげたいと思い、無理を言って友人に校正して貰いました。
全五話、一時間おきに投稿予定の短期集中連載となってます。
よろしくお願いします。