師匠、現る
帳簿とのにらめっこが日常となりつつある。アイビーの小さな頭を悩ませるのは、もちろん貯蓄のことだった。
(やっぱり副業すべき? このままじゃ新しい使い魔なんて、夢のまた夢だわ。でも占いは苦手なのよね……)
ヴィーのおかげで頻繁に珍しい素材が入手できるようになった。希少で高価な薬を煎じる機会に恵まれたおかげで調合の腕だけはめきめきと上がっている。もともと薬の調合が好きな彼女にとって、それは喜ばしいことだった。しかし、増える客足増える収入、なぜか増える支出。そして全く増えない貯金。もっぱらの諸悪の根源である浪費家のヴィーは優雅に昼寝中。
(だいたい、もうちょっとヴィーが手伝ってくれてもいいはずなのよ。確かに薬の質が上がっているのはヴィーのおかげだけど。でももうちょっとさあ、出費を控えるとか店を手伝うとかしてくれてもいいと思うんだよね)
薬の調合から店の管理、今誰にどの薬が必要でそのためにどんな素材を収集しないといけないかを把握するのは、雇われとはいえども店主であるアイビーの当然の役割だが、それに加え店番となると負担はかなり大きい。それを減らすために使い魔を召喚したはずだったのに、減るどころか体力的にも精神的にも負担は増えている気がする。こちらの苦労も知らず惰眠を貪っているヴィーの姿を想像するとうらやましくもなる。出てくるのはため息ばかりだった。
「ああ、いっそ使い魔になってしまいたい……」
「アイビーみたいなオッチョコチョイを召喚する方なんて、そうはいないと思いますけど」
くすくす笑いとともに風の気配を感じたアイビーは顔を上げ、目を丸くした。
「ペピーナ!?」
「ごきげんよう」
いつの間に現れたのか、アイビーの目の前でふわふわと漂っているのは、彼女の師の使い魔の一体である風の精霊だった。
「ど、どうしてここに?」
ペピーナは大きさで言ったら成人男性の手のひらより少し大きいくらいで、その背には蜻蛉に似た透きとおる翅が生えている。主であるアイビーの師を姉と慕い、少しでも近づこうとその所作と言動を真似するところは、萌黄色の髪と目をした可憐な少女の姿と相まって微笑ましいのだが、これで彼女は結構上位の精霊なのだ。
「あら、つれないのねアイビー。アナタったら使い魔を召喚すると言ったきり、ちっとも顔を見せないのだもの。アタクシはもちろん、ほかでもないお姉さまはずいぶんと心配していらっしゃるのよ?」
呆れたように半目で睨んでくるペピーナに対し、アイビーは少しの罪悪感と同時に焦燥を感じた。ヴィーと暮らすようになって結構な時間が経つが、その間師には一切会っていない。店の賃貸料として決められた額――売り上げの約一割――を送金してはいるが、最近では手紙なども書いていなかった。魔女としての才能にそれほど恵まれているわけでもないアイビーをここまで育ててくれた師に対し、無作法であるとつねづね心苦しくは感じていたものの、どうしても真実を伝えることができなかったのだ。
「で、でも、便りのないのは良い便りってどっか昔の言葉で聞いたことがあるの! 一人前に向けてやっとひとりでお店に立つことができたわけだし、あんまりお師さまに依存しすぎるのも良くないって思って。ちゃんと売り上げは増えてるし、その分のお金も送ってるし、何も問題はないよね? ね!?」
使い魔召喚に失敗したなど絶対に知られたくはない。決して安くはない召喚のための道具を一式そろえてもらってのこの体たらく。破門だけにはなりたくないと、アイビーはごまかすように笑いを浮かべながら、ところどころどもりつつ言い訳を並べるのだが、
「まさに問題はそこなの」
「ええっ」
「最近のアナタが送ってくるお金、いくらなんでも多すぎるわ。今までのアナタを鑑みて、とっても分不相応なのよ。お姉さまの受け売りですけど」
ペピーナの言葉に顔を引きつらせてしまった。
(お、多すぎるって……)
アイビーの頭がもう少し賢しければ、送金する額はそのままに増えた売り上げの分をごまかして懐を暖めることができただろう。だが、彼女はあまりにも馬鹿正直すぎた。毎月増える売り上げの一割を、何も考えずにそのまま送金していたのだ。ペピーナの指摘によりそれに気づいたアイビーは、己の愚かさを痛感してうな垂れた。
「ねえ、アイビー。やっぱりアナタ物騒なことに巻き込まれているのではなくって? アナタはお馬……いえ、ほんの少ーしばかり素直すぎるから悪い人に騙されているんじゃないかって、お姉さまはそれはそれは心を痛めていて……。ああ、もちろんアタクシも同じ気持ちよ」
アイビーが落ち込む様子見て、何か勘違いしたらしいペピーナが遠慮がちに問いかけてくる。誰にも騙されてはいないが、本気で心配そうな彼女を見ると罪悪感がいっそう増す。けれども、ヴィーのことだけは知られたくない。ぼろが出ないうちにペピーナには帰ってもらいたいとアイビーは必死だった。
「えっと、ペピーナはお師さまの代わりにわたしの様子を見に来てくれたんだよね? だったら別に物騒なことは何もないから、全然まったく心配なんてないってお師さまに伝えてくれない? ぜ、全然! 本っ当になんにもないから心配しないでって」
ペピーナは心外だ、とでも言うように目を見開く。
「あら、お姉さまの代わりだなんてとんでもない。アタクシはただの先触れ。アイビーは在宅中って報せをさっき送ったから、すぐにお姉さまもいらっしゃるわ」
「ええっ!? そんな! ど、どうしよう」
アイビーはガタっと勢いよく立ち上がり、わき目もふらずばたばたとその場を後にした。
☆
「ヴィー、起きて! もう、こんな時にのんきに昼寝なんてしないでよ!!」
午後の陽光が優しく降りそそぐ中、穏やかに眠るヴィーの肩をつかみ、思い切り揺さぶった。
「チッ、うるさい。何なの、喧嘩売ってる?」
舌打ちと共に睨みつけてくるヴィーの凶悪な視線にひるんでいる暇もない。
「それどころじゃないのよ、大変なの! どうしよう! ねえ、どうしたらいいの!?」
「ちょ、ちょっと。アイビー本当にやめて……」
寝起きで無防備のヴィーが抵抗する間もゆるさず、がくがくと強く揺さぶり続けた結果、彼は目を回してしまった。弱弱しく目をつむるその様子にますます慌て、アイビーの声は自然と大きくなる。
「やだ、ちょっとヴィーったら寝ないでって言ってるでしょ! ねえ起きて、起きてよー! 本当に大変なのよ、緊急事態なの! お師さまが来るのよ! まずい、まずいわ。ど、どうしよう、もしこれがばれたら――」
「……誰に、何がばれたら、どうまずいと言うのですか?」
「ひぃっ」
背後から聞こえてきた声に、アイビーは目を回し朦朧としているヴィーの襟首をつかんだまま硬直した。ごくりとつばを飲み込んで深呼吸したあと、覚悟を決めてゆっくりと振り返る。
「ご、ごぶさたしてます……」
視線の先には、ゆるく波打つ亜麻色の髪を右肩に長く垂らした神秘的な美貌の持ち主、アイビーの師匠の姿があった。
「本当に久しぶりですわねアイビー。とても元気そうで、ひと安心しました」
細められた水色の目と、弧を描く薄紅色のくちびる。間違いなく師の顔は笑顔をかたどっているのだが、アイビーは背筋が凍る思いだ。知らず知らず両手にぐぐっと力を入れてしまう。声が震えそうになるのを何とか抑えながら、とりあえず挨拶だけはしようと必死なアイビーが「ぐえっ」というヴィーの苦しそうな声に気づくことは、当然ない。
「は、はい! お師さまも相変わらず素敵です! そして、おかげさまでわたしは元気です! だ、だから何も心配はいらないです。ありがとうございました!!」
「ところでアイビー?」
「は、はいぃっ!」
麗しい微笑を浮かべたまま師は言う。
「召喚するのなら垂れ耳のワーラビット、でしたかしら、あなたの使い魔。その可愛らしい姿をわたくしもぜひ見てみたいのだけれど、その方は今どちらにいらっしゃるの?」
「え、ええっと。そ、それは――」
物心つく前に魔女の資質ありと診断され、師の下へ預けられて十年と少し。両親をはじめとする周囲が期待するほどの才には恵まれなかったが、それでも何とか見習い期間を終了するまで育ててもらった。ここで全てを終わらせたくはないが、もう後がない。
切羽詰まったアイビーはいまだぐったりとしているヴィーの体をぐいっと前面に押しだす。「おぼえてろよ、アイビー……」という言葉にはあえて耳に蓋をした。
「黙っていてごめんなさい! じ、実は、垂れ耳のワーラビット……うぅ、た、垂れ耳……。じゃ、なくって! わ、ワーラビットなんて低級な魔族より、自分の限界を見たかったっていうか。とにかく! もっとわたしの力に見合う強い使い魔を召喚してみようかなって、どたんばでそう思っちゃって。で、その結果がこの彼なんです! ほ、本当なんですよ?」
失敗を知られたくないあまり、ほとんどやけくそになってしまった。よく考える前に口から出てしまった嘘を、直後に後悔した。このあり得ないでたらめを師が信じるはずがない。
(ぜったい怒られる! もう、わたしの馬鹿、なんで嘘なんてつくのよ! 本当のこと言えばよかった)
次に振ってくるだろう叱責を身をすくませて待っていたのだが、ヴィーの姿を目の前にした師は思案げに眉根を寄せるだけだった。
「それでこのお方が、あなたの使い魔?」
「そ、そうです、そうなんです! こう見えて、実は使い魔なんです」
こればかりは嘘ではないと、アイビーは真剣に何度もうんうんと頷く。
だが、それでも師の疑念は取り払われないようだった。師の視線はアイビーとヴィーの顔を行ったり来たりし、やがて物憂げな表情でため息をついた。
「このお方と、少しだけお話したいことがあります。あなたとペピーナは席を外して下さるかしら」
「モチロンですわ、お姉さま。ほら、早く行くわよアイビー」
穏やかな物腰だが有無を言わせない雰囲気の師に逆らえるわけもなく、半ば朦朧としたままのヴィーを残し、アイビーはペピーナにうながされるまま部屋を出るしかなかった。