未だ解らぬまま 二
徒・・・かち。歩兵のこと。
戦場の花と呼ばれることを、彼女はあまり好んでいないようだった。
自分でもそうだろうと思いつつ、クセスは身を屈めた。
春、雪解けと共に帝国は侵攻を開始した。およそ十六万の大軍で、対するグリナッドは、四万。両軍はカーイン城の北東にある、荒野で対峙した。
開戦から一刻―三十分―ほどたったが。戦が動く気配はなかった。主戦場の東に小高い丘がある。その丘を取られれば、勝敗は決すると、リークは言った。取っても、勝つとは限らない。何せ敵は四倍の大軍だ。ノークもいる。しかし圧倒的優位に立てる。
先に、丘の頂に立った帝国の騎馬隊が、クセスの騎馬隊に突撃を開始した。敵の数は二千ほどだろうか。対するこちらは、五百。
「リルさんは横から敵にあたってください。私は、正面から受け止めます」
リルの声が聞こえた。
右手に槍を持ち、手綱を口にくわえ、左手で剣を抜き放った。頭はあまり良くなかったが、力は強かった。
ぶつかる。槍で貫き、剣で切り裂く。
「舐めるな」
そう叫び、敵の中を駆け回る。戦場ではいつも、女も何も関係ない、と叫びたかった。
リルが横槍をいれると、敵の隊列は乱れた。後一押し。だが敵の数は多く、徐々に勢いが落ちてきた。押せない。一度、渦中を抜ける。
「厳しいですね。数が多い」
「でも、勝てないわけではない。三隊に分けます」 敵は再び頂に登り、横に広がった。一気に囲い込むつもりらしい。
「数以外ではこちらが上です。中央の第一隊は一端下がり、第二隊、第三隊で両翼を端から押します」
敵が逆落としを再開した。少しずつ、後退する。敵の勢いが最高潮に達したとき、両翼に第二隊、第三隊がぶつかった。
「反転」
勢いが余り、突出した中央にぶつかる。敵は横に広がりすぎていたため、壁は薄かった。すぐに敵中を抜け、今度はこちらが頂に登った。
「小さく纏まれ」
今度こそ。一撃で。
突撃を開始した。敵以上の早さで、駆け降りる。既に戦意は無かったようで、ぶつかる前に敵は逃げ始めた。
「旗を掲げよ」
鯨波―とき―を上げよ。とリルが続いた。
陵の頂からしたの戦場を見下ろすと、両軍は入り乱れ、大乱戦となっていた。
グリナッド四万の魚鱗に対し、帝国九万の鶴翼。さらにその後方に三万の方陣。帝国はグリナッドを包み込もうとしているが、軽騎馬にその動きを阻まれ、グリナッドは鶴翼の屈折点を崩そうとしているが、数に阻まれている。ただ、東翼―丘の方角―は、グリナッドが帝国の動きを完全に拘束していた。
丘を取ったことで、帝国が動揺しているのが、はっきりと感じられた。
クセスは高々と槍を掲げ、下の戦場を指した。
馬腹を蹴り、駆け降りる。初めはいかに威圧を掛けるかで横に広がっていた騎馬隊は、ぶつかる直前、一つの固まりとなった。
敵の徒を、叩き斬る。今まで全ての力を内に向かわせていたため、外に対する力は無に等しい。それが、鶴翼だった。
敵はまだ崩れない。もう一度。そう思ったとき、敵の騎馬隊が正面から向かってきた。槍を、投げれ。その槍は、敵の先頭の額を貫いた。そのまま、突撃。突き出された槍を奪い、首を斬る。槍の柄で敵の頭を叩くと、敵の頭は砕け、槍は折れた。
右頬に返り血を浴びた。口の中が鉄臭い。ふと、昔を思い出す。父に本気で殴られたときも、こんな感じだった。あの時の父は、怖かった。あの時は、私が悪いのだから仕方ない、と思った。
しかし今は、こうして国を守っている。死ぬことが当たり前の戦場で、仲間と、家族がいる国を。だから、意味のある戦で死ぬことを、間違いだとは思っていなかった。
死んだら、誰か悲しんでくれるのだろうか。誰が、涙を流すだろうか。軍人の死として悲しんでくれるかもしれない。それで、良かった。
両軍とも決定的な打撃を与えられないまま、自然と引き分けの形となった。後退時も、気は抜けない。
北東二十里―十キロメートル―離れた場所に、帝国は陣を張った。
夜半、群議が開かれた。
「まずは皆、善く戦った。しかし勝ってもない。負けてもない」
一同を見回すと、それほど重い空気ではなかった。
「クセスとリルが善くやってくれた。丘を取ってはくれたのだがな」
今日勝てなくても、次は勝つ。リークは続けた。皇国から援軍が出たそうだ。六万。これで数はほぼ拮抗。後は連携が巧くいくかだ。
「他、何かある者は」
何もなかった。
「では各個、次の戦いまで気を緩めるな」
翌朝、目か覚めると、背筋が凍った。何かが起きたわけではない。ただ単に背筋が凍った。こういう日は何かが起きる。吉兆ではなく、凶兆。こんな時に、何が。誰かが死ぬのか。それとも自分か。それとも。そこで考えるのをやめた。これ以上、考えたくなかった。
「どうしたクセス?顔色が悪いぞ」
トウエがクセスを一目見て、言った。
「ああ、別に何でもないんだけど。そう、見える?」
「まぁな」
「そう。別に、本当に何でもないんだ」
気を付けろよ。そう言って去ろうとしたトウエを、引き止めた。
「背筋が凍るとき?なんだそれは」
馬鹿なことを聞いた。自分で少し、恥ずかしくなった。これは、他人には理解できない感覚なのだから。
「そうだな。例えば、リークさんと対峙したときとか。あれは凄まじい。動けなくなる」
その後も、トウエは淡々と語った。
「やっぱり、そんなもんだよね」
早く、この場から立ち去りたくなっていた。
「あぁ、もう一つある」
「何?」
「お前を見たとき」
少し、心が跳ねた。
「血まみれの、お前を見たときだがな」
「なっ」
馬鹿だと思った。トウエに何かを期待した、自分が馬鹿だと思った。
「あれはかなり怖かった。昨日の話だがな。お前、少し笑ってたぞ」
次の言葉を言おうとしたが、伝令が飛んできた。緊急収集。悪い予感は、これかもしれない。
その予感は、見事にあたった。
皇国が、裏切った。全く、予測していない事態。あまりにも信じられない事態に、驚くより、呆れた。しばらく、何も考えられなかった。
「帝国に釣られたらしい。ラージダル関門のシドルだ」
そんな馬鹿な話があるか。帝国と皇国の対立は、絶対だったはず。なのに、なぜ。
「ノークが、一枚上を行っていたようだな。時代の秩序は、崩れたわけだ」
異様なまで重苦しく、そして、静かだった。クセスは、皆のこの落ち着きようが、気に喰わなかった。家族はどうなる。友人はどうなる。国は、どうなる。
「戦だ、何が起きてもおかしくない」
小さな声で、トウエがクセスに言った。今すぐにでも、一人だけでも、駆け戻りたかった。
「その情報は確かなんですね」
テトラだった。
「影部が竜に乗って伝えてきた。これはよほどの事だ。シドルは、五万と一万に分け、五万をルアール郊外に布陣させ、一万で閲兵を申し出た。早朝、門が開いた一瞬の隙を突いて城内に流れ込んだ」
左の、親指を噛んだ。血が滲み、口の中に広がる。
「カーインは放棄する。今から少しずつ、帝国にばれないように兵をレタールに走らせる」
そう言ってリークは、目を閉じた。そして、言った。すまない。俺が悪い。俺の、時代を見る目が無かった。変革の時に、気付くべきだったのかもしれんな。俺は、お前達が今まで何も言わずに付いてきてくれたことに、感謝している。だからこそ、お前達の悲しむ顔だけは見たくなかった。だが、泣き寝入りするつもりもない。
「国は無くなったと言っていい。お前達を縛り付ける物はなくなった。俺は引き止めない。去りたい者は、去れ」
意味も無く、涙が溢れた。リークは、同情を誘っているわけではない。リークが、同情が好きではないことは、誰もが知っている。涙が、止まらない。
誰も、動かない。
「ならば皆、心得よ。次が、最後の戦だと。クセス、最初に行け」
返事はしたつもりだが、声になったかどうかは、解らなかった。