通り過ぎる風 三
椅子に座りながら頭を抱えていた。
無理にでも、引き止めるべきであった。しかしもう遅い。
言葉が出てこない。いくら言っても、奴が行くと言い張って、話を聞かなかった。部隊の編成も、奴が中心にやると言った。その時気付くべきであった。
あの日以来、数日前のことだが、まだ、寝むれていなかった。
腹の底から怒りが沸くというのは、このことを言うのだろう。あまりにも激怒したため、腹に穴が空いたようだ。腹が痛かった。その怒りの抜け道が無いため、その怒りは内で暴れ、痛みがますますひどくなっていた。
「大将。シドルが、戻って参りました」
真夜中、今日も眠れぬ夜を椅子の上で過ごそうかとしていた。
すぐさま部屋を出て、外壁に上がった。見下ろせば、いくつかの松明に照らされた、シドルがいた。
「アルヴァーノ、門を開けてくれ」
情けない、姿だった。
「貴方からその名を呼ばれる筋合いはもう無い。貴方は、国を裏切った」
「私は大将だぞ。アルヴァーノ」
「貴方は何を言っているのだ。部屋を調べさせてもらった。これは何だ。何の手紙だ」
口調が、強くなっていく。シドルは、狼狽えるだけである。
「統治省に書類を全て送った。それと今の大将は貴方ではない。私だ」
「だが」
「まだ言うか。去ね。それが嫌なら、死ね。それとも私が、殺してやろうか?」
そう言い、弓を取り出した。今奴を討てば、腹の内の怒りが流れ出るかもしれない。
「貴方に、皇国の地を踏む権利は無い」
矢を引き絞り、放とうとした。しかし、馬に乗った何者かが、逃げようとしたシドルの首を飛ばした。その何者かは馬から転げ落ち、突然、笑いだした。
男か女かの区別すら付かない、笑い声だった。
「大将殿、あの女が目を覚ましました」
結局、あの何者かは笑いながら気を失った。
女だった。具足を着けていたため、軍人だとすぐ解った。旧グリナッドの将だろう。グリナッドの女の将と言えば、リルとクセスが有名だが、実際見たことがないので確定は出来ないが、多分前者だろう。
今は病室にいる。
改めて見ると、それは少女と言って良かった。しかし、目はしっかりしている。
まいったな。そう思い、名を訊ねた。
「リル=リファードと申します」
その少女は床から起き、地に膝をつき、頭を下げた。
「無理はするなよ。あんたは、まだ病人なんだ」
横にいた、レブンが声を掛けた。この男は、誰とでも親しくすることが出来る。初対面でも、違和感がない。
「いえ。気を失ったところを助けていただきました。その助けていただいた方々に対し、礼を失することは、私には出来ません」
おやおや。レブンはそんな顔をした。
「好きなようにすればいい。唐突だが、聞きたいことがある」
「は」
「なぜ、一人だった?」
「はい。皇国が崩れた時、私は本隊と離れた場所にいました。こちら側の攻撃が終わったとは気付かずに、崩れていく皇国軍を追い続けました。いつしか私は、一人になっていました」
そこで一度、話が途切れた。レブンが水を差し出すと、礼を言い、リルは一口で飲み干した。
「しかし見つけたのです。シドルの姿を。初めは数騎に囲まれていましたが、次々と倒れていきました。そこから何日追ったか解りません。馬も私も、最後の一力が出ませんでした」
「そして斬った」
「はい。申し訳ございません。勝手に、斬ってしまい」
「何も謝ることはない。どの道、あの男は死んだのだから」
リルが、うつむき、頭を上げなくなった。泣いている。
これが、国を無くすということだ。あの男は。シドルは、つまらぬ人の欲で、この少女の国を奪った。そしてその少女が、シドルを葬った。しかし何も戻ってはこない。あるのは、虚しさと、悔しさだけ。
昔から帝国の驚異を説いてきた。しかし、中央は何の反応を示さぬまま、金と権力に溺れていた。
ついに領土が接するまで、帝国は大きくなった。皇国は何も変わってはいない。このままでは確実に、帝国に潰される。
皇王を守るために、様々なことを考えた。いくら腐ろうが、皇王は皇王だ。
「後一つ聞きたい。この裏切りがシドルだけ。つまり皇国が帝国に手を貸したわけではないことは、いつ知った?」
リルの頭の中で、皇国が裏切ったことになっていれば、この場で暴れかねない。
「勘。です」
「勘?」
「はい」
「勘とはな」
しばらくここにいてもかまわないことを伝えた。リルは頭を下げ、アルヴァーノは部屋へ戻った。
配下の三千を率いて調練に出ることは、珍しいことではなかった。
五百の騎馬と、二千五百の徒。それらを攻めと守りに分け、交互に何度もぶつかりあうことを繰り返した。
レブンは、緊張していた。これから始まる帝国との直接対決のことを考えると、血が騒ぐ。
しかし実戦の経験は乏しい。賊の討伐はよくあるが、対外戦争は、したことがない。ここ百年の間、皇国は皇帝戦争を、三国に任せきりだった。自分がグリナッドの前線の救援に出たいと、アルヴァーノには何度も言った。アルヴァーノは、援軍の指揮は私が執る。その時は、お前を連れていくと言った。だが、統治省が、救援には消極的だった。
グリナッドがカーインを陥とすと、統治省は少しは動く気になった。そしてアルヴァーノの必死の説得に、動いた。
しかし行けなかった。シドルが行くと言い出した。言い出すと何も聞かなくなるので、結局、アルヴァーノは諦めた。編成はシドルとその副官で決めた。そこには、アルヴァーノも、レブンの名も、載ってはいなかった。
そしてあの結果だった。皇国軍は無惨なまでに引き裂かれ、シドルの首は飛んだ。当然の結果だと、思った。
しかし六万という数は問題だった。ラージダルにいた兵の、三分の二だった。誰一人戻ってきていない。これからだろうか。下級の将校が大幅に入れ替わるらしい。
「どうした兄。気分でも悪いんかい?」
弟の、エルブだった。
「うん?何、ちょっとした考え事だ」
「そうか。兄は昔から考え事が好きだからな。俺には理解できねぇよ。ところで、日が落ちる前に帰ろうぜ」
「今日は、野営はなしだったな」
原則として明日は休みだったので、野営は無しだった。調練を切り上げ、関門に戻った。
休みの日、部下は休ませても、レブンとエルブは休まない。朝日と供に起き、広場でしばらく打ち合いをする。
関門は、五重になっていた。端を外壁。中を内壁。そして内壁の内側は、中央壁と呼ばれていた。一般人は住んでおらず、住民は全て、兵と軍人だった。
広場には、レブンが先に着いた。
馬がいた。人もいた。
「体は、もう平気なのか?」
「これは、おはようございます。レブン大佐。体は見ての通りです。大した怪我は負っていなかったようなので」
「ならばよかった」
少し、気まずい。ここ数年、女という生き物と話さなかったこともあるだろう。この関門にいる唯一の女であった。
「レブン殿」
言った、リルの方を向いた。
「私は、戦いたいのです」
言おうとしていることは、何となくだが、解る気がした。
「どうすれば、よいのでしょうか?」
そう言って下を向いたリルの顔が、妙に色っぽかったので、今度は、気恥ずかしくなった。
「大将に言ってみる。決定は統治省と言うところが下すのだが。あんたなら、承諾されるとは思う」
「おや?兄、誰だいその美人さんは?」
エルブが馬を曳きながら、からかうような目をしていた。
「さては。兄、なかなかやるな」
「馬鹿を言え。ここに民間人はいない」
「そう言われればそうだな。じゃあ誰だい?」
「リル殿だ。旧グリナッドの」
エルブはなるほどという顔をした。
「噂の。女で軍人だと聞いたからどれほどいかついのかって思ってたんだが、こんな美人とは思ってもいなかった」
「弟だ、リル殿」
リルが、エルブに頭を下げた。
「では、私はここで」
リルはそう言い、戻っていった。
「さて、始めようか」
今日も、快晴になりそうだ。