第7話 「マギア・アルボー」
俺の住んでいるアパートは、十字路の角に立っている。向かって右の二階の角部屋で、西側の道路に面している。
建物正面と俺の部屋がある右側面には、このアパートの駐車スペースがあって。この右側面の駐車スペースに、今回マギア・アルボーの実を植えた。
ゾンビ達はアパート正面の道路に四体。
向かって正面から右の十字路に向き直り、十字路を超えた向う側(西側)の道路に五体。
十字路の左側(南側)の道路……つまり、俺たちに一番近いところに一体いる。そして、この一体を武田君が押さえていた。
そして十字路の右側(北側)の道路には、巨大な鹿が立っている。
赤褐色で白い斑点がある毛色。頭から大きく伸びた二本の角。その二本とも前後に分かれていて、後ろの角は前側よりも大きく、更に複数の枝分かれがある。
どう見ても典型的なエゾジカだが、体躯が通常の2.5倍程有り。前側の角は尖角と呼べるほど鋭利で、前方に向いていた。
「ここの鹿って大きいんですねぇ?」
脳天気なセリフが隣から聞こえてくる。
「ば、バカ! あんな鹿いるかよ! 前鬼に戦闘準備させろぉぉ──!!」
俺の叫んだ声に反応したのか? 鹿は馬のような甲高い声で嘶いた! 鹿の声に身をすくめたのかゾンビ達は一斉に立ち尽くす。
舞名が、アパート正面でゾンビを退けていた前鬼を、呼び寄せた時だった。鹿の体が蜃気楼のように不可視化した。
「き、消えました?」
舞名の言葉通りに鹿の体は忽然と消えた。
だが、どこかに行ったのではない。視認出来ないだけだ。鹿の居た辺りに空気の揺らめきが見える。
得体の知れない恐怖が全身を襲う。
俺は、ネットのニュースサイトの記事を思い出した──ゾンビが現れ、世界中に猛威を振るっている。神話や伝説上の怪物まで現れた。
「神話や伝説上の怪物……これが?!」
刹那! 何かがぶつかり潰れたような音が聞こえた。
俺が言葉を発した瞬間。アパート正面に居たゾンビの背後に、突如鹿が現れた。だが、その先の展開が分からない? ……いや、見えなかったのだ!
近くの電柱が大きく揺れている。その柱には赤黒い鮮血とこびり付いた塊──辺りには、四散した肉片が見えた!
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ────────!!!」
全身から止めどない汗が噴き出す。足下からの震えで体が小刻みに揺れだした。
「前鬼くぅぅぅぅぅん! その鹿を止めるんやぁぁ──!!」
声が上擦って、旨く言葉が出ない俺と違い。舞名は凛とした表情とはっきりとした声で、前鬼に指示をした。……そして、俺を見て笑顔で言う。
「大丈夫ですよ。……澤井さんは私が護ります」
目頭が熱くなった。舞名の言葉に喜んだからではない……自分の余りにも情けなさにだ。
この言葉だけで、舞名がどれだけの修羅場を潜って来たのかが、容易に理解出来る。
前鬼が鹿に向きを変えた瞬間。またもや鹿の体が消えた!
キョロキョロと鹿を探し、俺たちの方を向いた瞬間だった──突如! 前鬼の背後に現れた鹿は、体を溜め、カタパルト発射の様な駿足で前鬼に突進した!
インパクトの瞬間! 凄まじい轟音が辺りに鳴り響いた。
俺のアパート側面の向かいの家──そこの二階に、轟音と共に巨大な穴が空き、損壊した欠片がバラバラと崩れ落ちている。
「前鬼くぅぅぅぅぅぅぅ─────んんんん!!!」
舞名が叫んだ直後! 俺たちの背後から青白い光りが輝きだした。……俺は一瞬何もかも忘れたように振り向く?!
薄らと幹が見え、アスファルトがどんどん外側に捲れ上がっていく。やがて、青白い光りを発する太い樹木が現れた。
その心を奪われるような外観からは、雅びな貴婦人の様なイメージを連想させられた。
(マギア・アルボー)
そう、心の中で思った時だった! 鹿が木と俺たちに向きを変えて再び嘶いた!
「前鬼くぅぅん! 前鬼くぅぅん! ……立つんやぁぁ! しっかりするんやぁぁ!」
先程から舞名が何度も前鬼を呼ぶが、全く反応が無い。鹿が前足で地面を蹴り始め、突進の体制を見せる。
「だ、大丈夫や、ぜ、前鬼くんがおらんでも、ご、後鬼くんの防御魔法なら、あんなん平気やぁ!」
肩に乗っていた後鬼を、胸に抱き寄せて言い放つが……後鬼を抱きしめる腕は微かに震えている。……俺の為に虚勢を張ってくれてるのだ。
俺は震える両腕の肉を、互いに爪を立てて強く握り込んだ。
(……情けない。……情けない。……情けない。情けない。情けない。情けない。情けなぁぁぁぁぁいぃ! 目の前の女の子が怖いのを我慢して、お前を護ろうとしてるんだぞぉぉぉぉ! 根性見せやがれこのくそ馬鹿野郎ぉぉぉぉぉぉ────────!!!)
「う、うおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ────────うぅぅ!!!」
腹の底からありったけの力を込めて叫んだ!
俺の突然の叫びに、舞名は小さな悲鳴を上げる。
「ご……ごめんなぁ……こ、ここからは、俺が……頑張るから……」
声が上擦り、きちんと喋れてないが、震える体を両腕で押さえ込むように強く握りしめ。今度は俺が精一杯の虚勢を張った。
「澤井さん……」
俺は舞名の前に体を出し、右手を鹿の方に伸ばし、震える右手を押さえる為に左手で支えた。そして、渾身の力を込めて叫んだ!
「ブレ────ンウォッシングゥゥ────!!!」
だが、武田君を使役した時みたいに、手に魔力の感触が伝わらない?
「な?」
反射的に後ろのマギア・アルボーを見上げた。葉の一つ一つからも淡い光りが輝いている。
「ど、どうして?……た、武田君の時は出来たのに……」
「澤井さぁぁぁ────ん!」
舞名の言葉に反射的に前を向く。
厚いガラスが粉々に砕け散ったような音が響いた。
俺は空を見上げ──地面に叩き付けられた! ……何が起きたのかは分からなかった? ……だが、状況が俺の疑問に答える。
俺たちは鹿の痛烈な突進で、後鬼の防御魔法を破壊されてその身を弾き飛ばされた。……防御魔法消滅の反動で、鹿も数メートル先に横たわっていた。
全身に痛みが走る。……苦痛を堪えて舞名を探すと、マギア・アルボーの根本に倒れていた。後鬼が側に居ることから、命に別状が無い事を理解する。
「おい! おおぉぉ────いぃぃ!!」
舞名に向かって叫ぶが! 全く反応が無い。……鹿が気付き、体を動かし始めた。
Point of No Return (ポイント・オブ・ノー・リターン)
選んだが最後、決して後戻りは出来ない運命の分かれ道。
魔法の使えなかった俺だが、目の前の痛さや苦しさや凄惨な現実を受け入れ、地獄と共に生きていくか?
それとも、彼女を見捨て自分だけが逃げだし。武田君に食料を運んで貰って、部屋から出ずに安全に生活をするか?
(考えるまでも無い。……こんなの、俺の日常じゃない! 俺の日常は、毎日ネットで下らない書き込みをして。退屈で恐怖なんてこれっぽっちもない。……平和な世界が俺の日常なんだ! こんな、化け物どもが居る世界なんか。……俺の現実じゃねぇぇ!!)
俺は痙攣してる身体を、ゆっくり起こして立ち上がった。……鹿も立ち上がり、頭を強く振って舞名の方を向く。
(でも……後悔する。……あいつを見捨てたら、俺は一生後悔して生きる。)
「そんな生き方をするぐらいならぁぁぁぁぁぁぁ死んだ方がマシなんだよぉぉぉぉぉぉぉ────!!!」
重い足に、ありったけの力を込め。一気に駆け出した! ……鹿も嘶き一呼吸の後、鋭利な角を向けて舞名に走り出す。
「まいなぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ────────!!!」
◇◇◇
あぁ、何やろ……とっても気持ちがえぇな。
うち、この気持ちがえぇ正体分かっとる。
マギア・アルボーや。マギア・アルボーの癒しの力が、この気持ちがえぇ正体や……。
そう言えば、前もこんな風に……気持ちがえぇ事があったなぁ。
あれは何時やったろか?
家の縁側に、お父ちゃんとお母ちゃんが居て、何やら二人で笑ろう合ってて。
うちも仲間に入れて欲しゅうて、近づこうとするんやけど。……どういう訳か、二人には近づけなくて。
何か? ……近付いてはいけないような気がして。
二人の笑顔をみてたら、何か温かい気持ちになって。
でも、同時に凄く寂しくて……。そんなうちに気づいたお父ちゃんが手招きしてくれて。
うちはそのままお父ちゃんの胸に飛び込んだんや!
お父ちゃんとお母ちゃんが交互にうちの頭を撫でてくれて。……その時の感じに似とる気がする。
うちは思ったんや!
時々は喧嘩もするけど。でも、こんないつまでも仲良くやっていける相方が、うちも欲しいなって。
それからうちは、少女マンガを読んで。どないしたら素敵な相方が出来るか、勉強した。
漫画に書いてある事を、偶に実践してみたけど……全然旨くいかへん。
中にはうちに、付き合うてくれって、言ってきた人もおったけど。その全ての人をうちは断った。
何でやろ? ……うちはそういう相方が欲しくて、今までやってきたのに。
お父ちゃんとお母ちゃんの関係のような、端から見てドキドキするような……。
そや! うちはドキドキする相方が欲しいんや!
一緒に居ると、こう──胸の中が熱うなって……キュン! ……て、心がときめく感じ!?
そう、トキメキや! うちは心がトキメク相方が欲しいんや! 理屈や無い。うちの直感で判断するんや!
うちの最初のトキメいた相手は。……四年前の、中学の担任教師やった。
受験を控えた時期。すっごいナーバスになってたうちを、励まし、元気づけてくれた。
男の人に、こんな優しくして貰うた事がなくて。うちの心はいつの間にか、すっごいドキドキしてた。
その時思った。……これが、トキメキなんやって。
うちは先生に告白した!
最初はずっと断られていたけど。うちが、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、告白したら。……先生はうちが志望校に受かったら付き合うてくれるって、約束してくれた。
うちは頑張って志望校に受かった!
嬉しくて、先生に報告に行ったら。……先生は別の学校に転任した後やった。
うちの成績では難しいと言われた女子校に──先生の為に男の居ない女子校を選んだのに……。
その後のうちの高校三年間は、灰色やった。
そら、仲のえぇ友達はぎょうさん出来たけど……全くトキメかなくなってしもうた。
漫画と同じ事を何度も実践したけどダメやった……。
でも、うちは今久しぶりにトキメキを感じとる。
初めて姿を見た時、胸の動悸がおかしくなった。
相手の顔を見ると何や恥ずかしくて、顔が熱うなった!
その時思うた。……これが、一目惚れと言うやつなんやって。
生まれて初めての一目惚れ。
どう相手に気持ちを伝えたらえぇか分からんかったから。……いきなり告白をしてみた。
でも、案の定ダメやった。
でも、うちの事可愛いって言ってくれた! ……そんなん言われたの、生まれて初めてや。すっごい嬉しい!
その後も何やかんや怒ったりするけど、基本的にはえぇ人や。
うちにご飯作ってくれたり──男の人にご飯作って貰うのって、何かえぇなぁ……。
それに、自分が悪かった事には素直に謝るし。……そういうとこ、可愛えぇ思うてしまうわ。
何や、うちの直感に間違いなかったって、改めて思うわぁ。
あぁ、この人にうちの下の名前で呼んで欲しいな。……凄く幸せな感じがするんやろなぁ……。
『………………まいな』
あれ? …気のせいかなぁ、誰かうちの事呼んどる気がするわ?!
『…………まいな』
ありゃ? ……やっぱり、誰か呼んどる気がする?
しかも、何や澤井さんの声に似とるような気いする。……でも、そんな事あらへん。
だって、澤井さんはうちの事、名前どころか名字ですら呼んでくれたことあらへん。
うち、やっぱり好かれてへんのやろか? ……何や、悲しゅうなってきたわ……。
「……舞名」
薄れている意識の中、私はゆっくりと目を開ける。……ぼんやりとした意識の中で、澤井さんの声が聞こえた。
「…………舞名……良かった……無事で……」
……信じられんかった。澤井さんが私の事を下の名前で呼んでくれてる事が。……何か嬉しくなって自然と笑顔になった。
…………ピチャ
私の笑った顔に、何やら生暖かい物が滴り落ちてきた。
……ピチャ
私は顔についたそれを拭って、目の前に持ってくる。
目のピントが旨く合わなくて、よく見えない?!
後ろ頭がズキズキするから、そのせいだと思う?……段々視界がはっきりしてきて、漸く掌のそれを直視した。
……赤くドロッとした液体。
「!?……え?」
私は顔を上げた。
澤井さんが、私を庇うように両腕で木の幹を押さえていた。
だが? ……彼の肘の付け根は、外からどれだけの力を加えられたのか……その状況を語るように、白い骨が突き出ている。
背中からは鋭利な角が突き刺さり──胸から突き出ていた。
その胸から滴り落ちてくるそれが……私の頬を濡らしている。
彼は、私に笑い掛けてくれて…………静かに目を閉じた……。
「笑った顔初めて見ました。……だって、ずっとクールでしたから……」
私の見開かれた目から涙が溢れ出てきた。
そして……。澤井さんが私から離れて行く。
鹿が体を動かしたからだ。
「ど、どこに連れて行くんですか?」
鹿は、一度こちらを見た後、その体を翻し明後日の方向を向く。
「か、返してください! ……そ、その人を……」
鹿は頭を上げ、空に向かって嘶いた。
「返して……お願いだから……」
腰を起こして俯き、長い三つ編みが地面で蜷局を巻く。大粒の涙をぼろぼろと零しながら、阿吽の声で叫んだ!
当たり一面にその悲愴な声が響き渡る。
鹿は頭を激しく揺すり、澤井さんは角から外れ地面に叩き付けられた。
鹿は体をよろめかせ、地面に横たわる澤井さんを踏みつける。
「……………………」
私は、指を強く握り込み、アスファルトで爪を引っ掻いた。……爪が割れ、血が流れる。
私の中で何かが弾けた!
「おのれはぁぁ何さらすんじゃごらぁぁぁぁ!! さっさと、その汚い足をどけんかぁぁぁボケぇぇぇぇぇぇ!!!」
激しい号泣怒号の声が響き渡る!
うちは痙攣する体を無理矢理立たせ、大粒の涙が流れる目でこの糞鹿を睨み付けた!
そして後ろに振り返り、青白く輝く木に向かって懇願した!
「お願いやマギア・アルボー!うちに……うちに力を貸してぇ……! うちの…… あんたの契約者を助けてぇぇ!!」 うわぁぁぁぁぁぁ────!!
木がうちの言葉に呼応するかのように、より一層激しく輝いた! そして、うちの全身が青白く光り出し、力が漲ってくる。
腕の服で、涙と鼻水を拭い去り──向かいの家の二階大穴に向かって叫んだ!
「何時まで眠っとんじゃアホぉぉぉ!! さっさと目ぇ覚まさんかぁ────!!」
静まりかえっていた大穴から、突如瓦礫と粉塵が飛び出した!
中からゆっくりと、青白い光りに包まれた、銀色の物体が姿を現した。
「目ぇ覚ますんが、遅いっっちゅうんじゃぁ! ……こっからが第二ラウンドや……絶対に許さへん! あの糞鹿がぁ!!」
爪が掌に食い込むように強く握りしめ、殺意の眼差しを鹿に向けた。