第2話 「恐怖」
窓からの日差しが顔に差し掛かる。西窓なので沈みかける頃が一番日差しが強い。
俺は右手で目を覆い、ゆっくりと瞼を開いた。
「頭痛ぇ」
頭に激しい痛みを伴いながら、ゆっくりと体を起こす。何というか、風邪を引いた時の感じに近い。
起き上がる際も体が怠かった。
PCの方に目を遣ると、いつの間にか本体の電源が落ちている。
「何だったんだ、さっきの? ハハッ……もしかして夢とか?!」
引きつった笑みを浮かべながら、ゆっくり立ち上がり。手を伸ばしてモニターの電源を切った。
「ハァ……何か喉渇いた……」
冷蔵庫から飲みかけのファンタ・グレープ(500ml)を取り出して、一気に飲み干す。気が抜けて微炭酸になっているが、今はこれ位が丁度良い。
空になったペットボトルを、ダンボールにゴミ袋を被せて作った、巨大ごみ箱に投げ入れた。
いつの間にか、頭の痛みも体の怠さも殆ど感じなくなっていた。
「リフレぇぇぇぇぇシュぅぅぅぅぅ!」
仮面ライダーの変身ポーズを真似して軽く叫んだ。やっておいて何だが……恥ずかしい。
若干照れ笑いながら時計を見た。
18:05’
ここから自転車で十分くらい掛かる場所の、TSUTABAというDVDレンタルと本を販売している店で、午後六時からバイトをしている。そして、今日はバイトの日である。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ────────────!!!」
時計を両手で持ち、今までの人生で一番の大声を上げた。
義務教育の九年間。高校の三年間。大学の講義。バイトと、一度も遅刻をしたことが無いし、サボりや狡休みもしたことがない。こう見えても真面目なのだ。
「ま、まずい! 急いで行かないと! ……そ、その前に、電話した方が良いかな? ……でも、何て? ……えぇい、先ずは電話して謝ろう」
パソコンデスクの上に置いてある携帯に手を伸ばし、急ぎバイト先に掛ける。
トゥルゥゥゥ──
トゥルゥゥゥ──
頭の中で色々言い訳を考える。
何て謝ろう? ……正直に言った方がいいのか? ……でも、正直に言うと寝てましたって事になるよな。それとも下手に言い訳をしないでとにかく謝って、今すぐ行きますって言った方がいいかな?
トゥルゥゥゥ──
トゥルゥゥゥ──
あれこれ言い訳を考る。しかし、一向にバイト先に電話が繋がらない。
トゥルゥゥゥ──
トゥルゥゥゥ──
「おかしいな? ……繋がらないはずはないのだが?」
事務所はカウンターの直ぐ裏にあり、たとえ事務所に人がいなくても、カウンターの人間が電話に出るはずである。
トゥルゥゥゥ──
トゥルゥゥゥ──
「これだけ鳴らしても誰も出ないって、どういう事だ?」
トゥルゥゥゥ──
トゥルゥゥゥ──
「もういい、とにかく行こう!」
トゥルゥゥ ピッ!
携帯を切りポケットに仕舞い込み。上着を羽織り。急いで玄関に向かおうとした時、何かを蹴飛ばした?
ゴッ! ガツン! コロコロコロ……。
それは向かいの壁に当たり、こちらに戻ってきた。
「何だこれ?」
手に取る? それは胡桃のような固い殻で覆われた、木の実(?)だった。
「……いらん」
燃えるゴミ用のごみ箱に捨てた。
俺は基本的に、自分で購入したもの以外には興味がなく、判断が早いのだ。
靴を履き玄関から出る。
築二十五年位の1DKで、家賃は月々二万七千円。全部で八部屋あり入り口は四つ。屋内に階段があるアパートで、二階の右角部屋が俺の部屋だ。
ドアに鍵を掛け、階下の引き戸を開けて外に出た。
……ゴン ……ゴン ……ゴン ……ゴン
右の方から奇妙な音が聞こえ、そっちを向くと。男性らしき人がゆらゆらと体を揺らしながら、何度も額で隣の引き戸にぶつかっていた。
あまりにも異様で怪しい光景だ。
関わりたくなかったので、無視して戸を閉めようとした時、男がこちらを向いた。
見知った顔だった。男は隣の二階の住人で、言葉を一度も交わしたことはないが、階段を登り降りしているのを何度か見たことがある。
男は体を揺らし、こちらを見つめたまま立ち尽くしていた。
引き戸を閉め終わった後もこちらを見ている。
ハァ……。
深く溜息を付き、思い切って男に話しかけてみた。
「あ、あの~ 何でしょうか?」
声を掛けると、両腕をまえに突き出し呻き声を発しながら迫ってきた。
ウゥゥ……。
「お、おい! ……ち、ちょっと、あんたっ!?」
言葉を無視して近づいてくる。
「おい! 待てって!」
相手の行動に苛立ち、少し怒気を含んだ言葉を発する。
そして、一歩、二歩と、円を描くように後退った。
男は相変わらず呻きながら迫ってくる。
ウゥゥ……。
「いい加減にしろよ! 何なんだあんたはぁぁ!!」
表情の変化は殆どないが、声を荒げて怒鳴りつけた。
男の迫ってくる速度が増した。
それに呼応して、こちらの後退る速度も増す。
このままじゃ埒があかないし、バイトもある。 隙をみてダッシュで逃げよう!
そう思った瞬間! 相手が更に速度を上げてきた。
こちらも呼応し後退りの速度を上げた時。
「あっ!!」 ドサッ
足が縺れ、その場に仰向けに倒れてしまった。
男が俺に躓き、そのまま上に倒れて来る。
「痛ってぇぇ!」
右手で後頭部を摩り起き上がろうとした時だった。
男が顎を大きく開き、俺の顔に近づいて来た。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ──────!!!」
俺がはっきりと表情を出したのは、此が初めてかもしれない。
とっさに両手で男の顔を鷲掴む。
まじまじと見た顔は、一昔前に流行した韓国の俳優に似ていたが、死んだ魚のような目をしていた。
男は首を伸ばし、何度も俺の顔に噛みつこうとする。
俺は引き剥がそうと、両腕に渾身の力を込めた。
「うぅぅぅぅぅおぅぅぅぅぅぅぅ!!」
ベリィィッ!?
全身が総毛立った。
両腕に力を込めた瞬間、男の左の頬肉が削げ落ちたのだ。
「ギャァァァァァァァァァァァァ────!! ァァァ───!! ァァァ───!!!」
俺は今まで発したことのない音を、こだまさせた。
右手の支えを失った顔が一気に近づいてくる。
咄嗟に左腕で自分の顔を覆う。
ガリッ! 「うぐっ!」
左腕に噛みつかれた。
もの凄い力で歯を食い込ませてくる。
「痛ぃぃぃぃてぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!」
右拳を握りしめ、思いっ切り殴った。
だが、恐怖で全く力が入らない拳では、男を退かすことが出来ない。
左腕をいくら引っ張っても引き離せない。
「い、いい加減にしろぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」
俺は半狂乱になり、左腕を押しつけ男の体を浮かし、足を潜り込ませて思いっ切り蹴り上げた! ……ドサッ。
ようやく男が俺から離れた。男は倒れながら、獣が餌を喰うように顎を動かしている。
左腕に激痛が走り、止めどなく血が流れ、足下に血溜まりが出来ていた。
「く、喰ってるのか? お、俺を?!」
その光景に恐怖し全身が震える。
先ほどの俺の叫びを聞いてなのか? 周りに人が集まってきた。
俺は人の姿に少し安堵し、大声で叫んだ。
「へ、へいはふをよふんでくらはい!」 (け、警察を呼んでください!)
恐怖で呂律が回ってない。
しかも、俺の呼びかけに周りの人達は全く反応を示さない。
「警察を呼んでください!」
今度ははっきりとした言葉で、大声で叫んだ。
だが、やはり何の反応も無い。そして、ゆらゆらと体を揺らしながら近づいてくる。
背筋が凍り付いた。
「ま、まさか?」
そう思った瞬間だった! 集まって来た人達が一斉に両腕を前に突き出し、呻き声を上げて向かって来た。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
俺は大急ぎで入り口を開け、自分の部屋に向かった。
手が震えて……うまく鍵をドアに差し込めない。
その時! 階下から呻き声が聞こえてきた。入り口の引き戸を閉め忘れたことを思い出す。
……カツン ……カツン ……カツン ……カツン
何者かが、階段を登ってくる音が聞こえる?
カチン! ようやく鍵を開け、ドアの中に入り鍵を閉める。そして、今まで一度も使ったことのないチェーンロックを掛け──そのままドアに凭れ掛かる。
ドン! ……何者かがドアを叩いた! 慌てて部屋の奥に逃げ込む。
慌てていても、玄関で靴を脱いでいるのは、さすが日本人といったところだろう。
……ドン ……ガリ ……ガリ
……ドン ……ドン ……ガリ ……ガリ ……ガリ
扉を叩き引っ掻くような音が聞こえる? 部屋の奥で立ち竦み全身が震えているが、思考だけはようやく落ち着いてきた。
「あ、あれって、どう考えてもゾンビだよなぁ? ……洒落になってないし、う、腕を食い千切られたし……」
真っ赤に染まっている左腕を見る。そして、先程の光景を思い出し恐怖が全身を支配する。
「と、取り敢えず……け、警察に電話しよう」
携帯を取り出し110番に掛ける。
トゥルゥゥゥ── トゥルゥゥゥ── トゥルゥゥゥ── トゥルゥゥゥ──
トゥルゥゥゥ── トゥルゥゥゥ── トゥルゥゥゥ── トゥルゥゥゥ──
トゥルゥゥゥ── トゥルゥゥゥ── トゥルゥゥゥ── トゥルゥゥゥ──
トゥルゥゥゥ── トゥルゥゥゥ── トゥルゥゥゥ── トゥルゥゥゥ──
トゥルゥゥゥ── トゥルゥゥゥ── トゥルゥゥゥ── トゥルゥゥゥ──
トゥルゥゥゥ── トゥルゥゥゥ── トゥルゥゥゥ── トゥルゥゥゥ──
トゥルゥゥゥ── トゥルゥゥゥ── トゥルゥゥゥ── トゥルゥゥゥ──
トゥルゥゥゥ── トゥルゥゥゥ── トゥルゥゥゥ── トゥルゥゥゥ──
しつこく呼び出してみるが、誰も電話に出ない。
「警察と連絡が取れないって、本当に非常事態なんだ?」
ここで初めて、世間全体に惨事が起きてるで在ろう事を理解した。
「ネットのニュースサイトを見れば、情勢が分かるかもしれない?」
PCの電源を入れようと手を伸ばした──ズキン! 左腕に痛みが走る。
「あぁ。左腕の治療。……119番に電話したところで、無駄なんだろうな……ハハハ」
そう思い、家の薬箱を探すことにする。
不思議なことに、薬箱を取り出した時には左腕の痛みが消えていた?
初めは激痛が走っていたのに、徐々に痛みが引いていき……今、全く痛みを感じないのだ。
薬を塗り込んだガーゼを当てようと、患部を探したが見あたらない。
「あれ? おかしいな?!」
血を洗い流せば分かるかと? しみるのを我慢して水道で洗い流す。
だがどこを探しても、食い千切られた痕が無いのだ?
「……そう言えば、ゾンビに噛まれた者はゾンビになるとか? ……ひょっとして、こ、これが前兆なのか?」
顔に手をあてて考え込む。
(いや、それだと色々とおかしいような気がする。ゾンビが肉体を再生するなんて話、聞いたことが無いし。集まってきた者の中には片腕が無かったり、あちこち肉が削げ落ちていた者もいたような気がする? ……はっきり、見てないので断言は出来ないが……)
左腕を見て、そして更に考え込む。
「う─────んうぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ…………保留!」
答えを先送りにした。
とにかく落ち着きたかったので、冷蔵庫からファンタ・グレープ(500ml)を取り出して飲んだ。
「あぁ~ この強い炭酸が、頭をスッキリさせる」
完全に落ち着きを取り戻した。
パソコンデスクの椅子に腰を掛け、PCを立ち上げる。入れてなかったマザーのドライバーを大急ぎで入れて、ニュースサイトに繋いだ──状況は思った以上に酷い有様だった。
二週間前からゾンビが現れ、世界中に猛威を振るってる。更に、魔物や伝説上の怪物まで現れ混沌としていた。
「な、何だよこれ? 全然洒落になってないし……。大体二週間前からゾンビが現れたって……二週間前?!」
疑問が過ぎる。
二週間前って。俺、普通に生活してたし……大学行って、バイト行って。いつもと変わらない日常を過ごしてた。……え? 何だこれ!? おかしい? おかしすぎるぞ!
よく考えたら、ゾンビなんてものが俺の世界に出てきたのは、今日が初めてだろ!? ……夢?!
そう思いながら、俺は昼間のPCを思い出していた。
今まで3500人以上招待したが、貴方のようにOSまで入れ替えて拒否した者は初めてだ。
その人を信用しない性格大いに気に入った。貴方には特別な待遇とスキルを与える。
ゲームのような感覚に囚われるかも知れないがすべて現実だ。
ルールや状況は付属の端末を使って理解したまえ。
ワールド・マスター
そして、今まで無視していた玄関の音を聞き入れる。
……ドン ……ガリ ……ガリ
……ドン ……ドン ……ガリ ……ガリ ……ガリ
「や、やっぱり外のあれ、本物だよなぁ……冗談ではなく、本当に招待されたって事なんだろうな……状況から考えて」
俺は椅子にもたれ掛かり、天井を仰いで呟いた。
「悪夢だ……」