第七話 奪う
【セレンディピティ】思いがけない価値のあるものを、何か探している時に偶然に発見する能力のこと。マリー・キュリー夫妻やニュートン、田中耕一氏による高分子質量分析法(MALDI法)の発見などが各一例で、『幸福な偶然』とも言われる。
・ ・ ・
息を殺した。
戦慄の壁をぶち破る。
「ケン!」
獣を戒める声は、空しく回る。「ウガアァァア!」威嚇は、威嚇だけに。
「これはこれは……失敬」
可憐から身を離した年壮の紳士は、両手を自由に広げて空へと掲げた。途端にケンの動きは止まり、大人しくなる。可憐はホッと胸を撫で下ろした。「もう……」突然のことに恥ずかしかった、フリードに対しお詫びをする。
「気になさらないで下さい、それより、良き相棒をお持ちだ。名前は」
「ケンと申します」
「ケン。それでは、今夜はこれまでに」
そう言い目配せをすると、フリードは音もなく身を翻し、花壇の脇から去っていったである。「フリード……」
可憐の目はいつまでも釘付けであった。
「クゥ……」
気を逸らせるか。何度か試してみても、可憐の心はフリードに囚われたままであった。贈られて着衣したドレス、胸元で光る銀の飾り。初めて抱いたのかもしれない若き心臓の高鳴り。情熱は可憐の麗しい唇から、か細い音で再びに漏れる。
「フリード」
遠くからは陽気の旋律が漏れ聞こえ出て。静寂となった花壇に、そよぎ風ともに乗り、可憐たちを包み込んでいる……。
一夜が明けた。疲れたからと昨晩は早くに休んでいた可憐であったが、起きて朝食の間に着くと一番にミヤが2通の手紙を持ってやって来たのである。
「? 何かしら誰かしら」
白の手紙と黄色の手紙。それを受け取って椅子に座ると、鎖を首に巻いてケンも傍で不思議そうに見ていた。
(てがみ)
ケンはニオイを嗅いだ、途端に、顔を曇らせる。だが一瞬だけのことで、直ぐに立ち直った。
(あいつだ。あいつと――)
ケンには直ぐに判ったようであった。「あら、先生からだわ。『可憐へ』ですって」2通ともの手紙は直接可憐に宛てたもののようで、使用人若しくはミヤに通じて渡された。ケンが察知した通り片方は昨夜に姿を現さなかった杏樹女史からで、もう1通は出会った紳士、フリードの書記であった。ケンが固唾を呑んで可憐が手紙を読み終えるのを待っていると、その間に朝食が運ばれてくる。焼きたてのパン、牛乳、それからハムとベーコンを絡ませたスクランブルエッグ、添えつけただけの自家製である野菜を使った新鮮なサラダ。残念ながらワイスは昨夜から不在らしく姿を見せてはいない、可憐は早々に場から失礼してしまったが、ワイスが夜会の後でどうなったかについては知る由もなかった。
「2人とも、私に謝っているわ……」
哀しげに可憐は手に持ったままの手紙を見つめた。どうも、昨夜のことについて双方、可憐に対しお詫びの句が並べられていたようである。可憐は静かに手紙を折りたたみ口を閉ざした。
何も情報を与えてくれなくなった可憐にケンは首を傾げるばかりで、やがて諦めて器に盛られた御飯に口をつけた。
朝食を終えると、可憐は自分の部屋へと向かう。ケンも後に続き、部屋へと入って行った。持っていた2通の手紙は机の上に置かれ、目の高さにまでそれが届かないケンは肩を竦めて残念がった。ふと可憐がそれを見ながらクスリと笑い、ケンを手招きする。自分はベッドに座り、ケンもベッドの上へと呼んだ。お座りでケンが待つと、可憐が優しく話しかける。
「先生の弟さんが危篤ですって……暫くは日本を離れるみたい」
片膝を立て、顎を置いた。「寂しいな……」と可憐は遠くを見つめた。「私から離れて行ってしまう」泣いていたわけではない、呟いただけであった。「何も誰も悪くないのに」何処かで小鳥が啼いた。
「フリードは」
名前を呼んだ時、ケンはピクリと耳で反応する。顔を上げると、可憐の困惑した顔が目に飛び込んできた。可憐は膝を下ろし、大袈裟な溜息をつく。
「また会いたいって」
それが何を意味するのかが、ケンには直ぐに理解が出来なかったようであった。
フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニコラウス・カール・フォン・プロイセン。自由主義者で、国民には「我らがフリッツ」と親しまれるが父、ヴィルヘルム1世と、ドイツ統一の立役者として知られ「鉄血宰相」と呼ばれるビスマルクには疎まれる存在であった、フリードリヒ3世、かつてのプロイセン、又はドイツ皇帝の名である。
軍人らしい質実剛健な性格の父と、貴族的で洗練された性格を持った母の両方の気質を兼ね備えており、母の勧めで歴史学、文学、法学などを学び、父により軍事学を学んだ。ラテンの歴史学や地理学、物理学、宗教学、音楽にも詳しいとされる。
1851年にロンドンの万国博覧会に赴きヴィクトリア王女と出逢って1858年に結婚、1866年の普墺戦争におけるサドワの戦いや1871年の普仏戦争におけるセダンの戦いで功章や十字章を勲章しているが、平和主義者であり、対立していたビスマルクのドイツ統一政策を理解し帝位に就くことを渋るヴィルヘルム1世に載冠を勧めるなど、地味にたる功績はあるのだが長く皇太子の位のままであった。
王位には就くが僅か99日で死去、「百日皇帝」と言われたりもする。
フリードとの、文通が始まった。手紙によるフリードの報告によると、可憐と会った日の翌日にすぐさま彼は祖国へと帰国したそうであった。本当なら、長期に渡る来日を希望していたし準備も整えていたのだが、普墺戦争に次ぐプロイセンによる対オーストリア戦略のさなか、自由を愛する彼にとっては哀しいことだが自由ではなかった。多忙の隙をぬって埋めてくれる可憐からの手紙が非常に喜ばしいと、再会を渇望している。
彼からの便りは、可憐にとってもプラスになった。
ドレスや手紙だけでなく、指輪や時計、靴など、日本ではまず手に入らないであろう高級品が可憐のもとへ届けられる。彼は何者なのか――父ワイスや本人からは王の使いである、とだけは聞いていた。ドイツ地方、この時はまだドイツは北ドイツ連邦、国事や政治に疎い可憐にはサッパリと背景の詳細までが解らなかったが、彼の身分が相当のものであるということは贈られてきた数々の品を見れば一目瞭然であった。
それだけではない、「お変わりはないか」と可憐を想い気遣う優しさと、戦況と自らの意志を明確にできるその雄弁さと自信が可憐を高揚させていた、可憐の生活に栄養のある水を与えるようで、潤いが可憐に見られる。明るく、前向きに、可憐は時間を過ごしていった。
金木犀の花が見事に咲いていた。
その橙の花の香りが道行く人に纏わりつく。庭木として植えられ観賞用であったものの、花冠をお茶に混ぜて飲むこともあり、ケンはこの強い香りが僅かばかり苦手であった。可憐に連れられて散歩に出かけると、この木を避けて通ることもあったという。
「あら」
散歩道を本日は変えて海側へと道なりに歩いて行くと、南蛮菓子を持って対向から歩いてくる子どもが居た。年は10の頃合の学童であろうか、片手には食べかけているカステラ、草臥れた鞄を提げて、可憐とケンの脇を通りすぎようとした。
その時である。
「もし」
通りすぎたはずの少年に、声を掛けられる。「え、はい?」と可憐は気がつき振り向いた。少年にジロジロと足先から顔までを見られると、ただ言った。
「異人が捜してたよ」
それで少年は、食べかけのカステラを口に放り投げると、むしゃむしゃと食べ終えてしまった。
「異人?」
何のことだかと可憐は問いたかった、だが少年はそれだけを言うと嬉しそうに去っていく。聞けず要領を得ないままで気持ちの悪さを覚えつつ可憐は、ケンの鎖を引っ張って「行こ」と促した。潮のニオイは風に乗って濃さを増す。
船着き場が近くなってくると倉庫が見えて、そろそろ引き返そうかなと考え始めたその頃、夕暮れにも近く倉庫の影が濃くなってくる。重なった人影は動いて、可憐のもとへと急いだ。
「くおおおーん」
突然、ケンが騒いだ。「ケン」「おおーん……」警鐘のように、倉庫の街に響き渡っていく。人影が躊躇したらしく足を一旦は止めて待っていると、可憐が背後の気配に気がついた。
信じられないものを見た顔をする。
「フリード」
膝丈の黒外套を着た背筋のよい男、髭を処理せずに生やして埋まり、でも青光る瞳は純真な宝石のようで可憐には何故だか一目で彼だと気がついた。フリード――懐かしいとさえ肌に感じる存在でもあった、僅か数日、離れていただけだとしても。
「何故貴方がここに? 違うわ、きっと貴方じゃない。フリードがこんな所に居るはずがないわ。貴方は何者なの」
首を振りながら、目はフリードを追った。可憐にはまだ信じられなかった。手紙でしかやり取りがなかった相手ではあるが、身近であり、返事で可憐は想いを綴った、また、逢えればいい。その時は、と――。
ケンは見守る。やがて可憐は両の手で顔を覆った。小さな肩が震えていた。
「貴女に逢えたらという気持ちだけで来てしまったことをお許し下さい」
許しを。禁教の地で、暴言に充てられき言葉を吐く男の所在を、可憐は身を溶かすが如く受け入れていった、肩が緩む。夕暮れの灯りはそのままに。
「本当に貴方なの……?」
通りすぎて行った少年を思い返した。嬉しそうにカステラを頬張る子ども。
異人が捜してる。
「貴方は何者なの……教えて」
在るはずのない血液が高騰していく。可憐には、そう、血が流れているはずがないのである。
人間では、ない。
「教えて……不安で堪らない」
泣きそうに可憐は小さかった。「私は、王の使い、フリード・ヴィル。王の命でここへ来たのではありません」と言った。は、と可憐は顔を上げる、そして相手を見た。「貴女様をお連れに帰りたく思いますが……」残念がる表情が目に焼き付く。
惹かれ逢った2人に、邪魔をする者は無かった。2人、近づき、抱きしめあいながら、時間は経過した。夜の帳が下りる前、2人の姿は晒しも、周囲を見渡すも人は数えきれる程度に、再会を慶びがるは夢の如し。この現の真は、向かう所が分からずである。
可憐は至福であった、それが分かる。
「クゥ」
呟いても、何の関心も向けられず。侘しく、獣は大人しく引き下がった。
フリードは邸宅に招かれる。有頂天になって可憐は彼を自室へと呼んだ。食事の用意が出来るまで2人は語らい、笑いあう。ケンは傍を離れていて自分の部屋で休んでいた。鎖の先は何処にも繋がれてはおらずケンの身は自由ではあったのだが、彼に命令でも与えない限りは勝手動く気配は無い。
食事の時間が訪れ、ミヤに呼ばれると可憐達は連れで食事の間へと。その間、ケンが居る部屋へミヤが立ち寄ると、「どうしたお前、ケン様。可憐お嬢様は行ってしまわれましたよ。ついて行かないのかしら?」とケンに呼びかけた。
反応して身を起こしてはいるが、次がないケンに対してミヤは「オヤオヤ」と溜息をついた。
「そうかお前、ヤキモチを妬いているのでしょう。まああ」
意地悪そうにミヤが言った。ケンに反応が無く、恐らくは意味が理解できてはいなかった。意地悪ついでにミヤは、ケンにこっそりと「お願い」をした。
「お嬢様を守る務めがお前にはあるのだから、しっかりと見張っているのだよ。かと言ってお嬢様に迷惑をかけないように。悲しませないでね」
ミヤはケンの額を撫でて、食事の間へと戻って行った。残されたケンは行儀よくお座りをベッドの上でしてはいるのだが、動こうとはしていない。
食事を終えて2人が2階へと上がってきた時にようやくケンは動き出した。鎖を引きずり駆け出して可憐の傍へ寄ろうとするが、「起きていたの」と頭を撫でられて、それだけであった。
「来てフリード。私の部屋でお話して。インディオの文明について続きを聞きたいの。西欧の文化はよく聞くのだけれど、ラテンは全然分からないわ。知らなかったわ、そんなにたくさんの文明が過去に栄えていたなんて。もっともっと知りたいの。ねえ教えて?」
可憐に好奇の虫が湧き、ケンなど眼中にもないようであった。「ははは、旺盛なお嬢様だ。国家以上だな、家は栄えよう」とフリードは一笑した。「もう、揶揄わないで」可憐は膨れて口を噤む。
談笑しながら2人が可憐の部屋へ入っていくのを見届けた後、ケンはとぼとぼと廊下を歩き出した。そういえば今日はワイスを見かけてはいない、一度もである。仕事で多忙であるのか海外へと出向いているのかどうかはケンには不明ではあるが、食事の間に会うことも最近では減っている。
可憐は口には出さないが、このようなことなど疾うに慣れてしまっているのであろう。度重なるワイスの不在はきっと先日のパーティを境に、交流が増加してしまったせいでもあるかもしれないが。
(つまらない)
可憐にそっぽを向かれ、ケンは行き場が無くなった。唯一あるのが自分の寝室、ケンが行こうとすると、小さな光が暗がりのなかで点滅しているのを発見した。
(あれは何?)
廊下の空中をふらふらと泳ぐ淡い光、ケンはゆっくりと近づいた。ケンが光に飛びつき「それ」を捕まえてみれば、正体は虫、蛍であろうか。尻部分から、か弱く発光し今にも消えそうであった……。
中南米地方、若しくはラテンアメリカの歴史は気の遠くなる程に長い。先住民であるはずのインディアン、又はスペイン語でインディオという――が法で市民権を得たのが1924年、それまではまるで「外国人」扱いであった、「先住民の」インディアンではあるが、3~4万年前に、水位の低い時期のベーリング海峡を渡ってきたアジア系の民族であり、日本人と似ている部分もあったりするという。狩猟、採集や漁労生活を営んでおり、古く紀元前約5000年前からトウモロコシの栽培で農耕を行い主食となって、この文明が栄えたのだという。馬や牛など家畜業は無く、よってその発展は無く、だが金や銀、銅などの金属資源が豊富で、インカ文明では青銅器を作っていたらしい、最初のインディオ文明であるとされるのがオルメカ文明で、ピラミッドや神殿があり、王を神格化したとされる神権的な政治を行い、その特徴を見ればかなり個性的な文明であったと誰もが頷いてしまうのであろう、肉食獣ジャガーへの崇拝、活躍したサッカー選手の首を切り神に捧げたなどが例だが、挙げられる。
チャビン文明、テオティワカン文明、マヤ文明、アステカ文明、インカ文明。この頃になると14~16世紀、だいぶと現代に近づいてはいくが、宇宙観と宗教が結びついたマヤ哲学が賢いとよく印象に残される。ここで挙げた一連の彼らに根付いている、根底にあるのは王を神の化身として崇拝する精神で、アステカ文明で特に目立つのが人身御供、宇宙観にも大いに関係するが、人の心臓をえぐり出し太陽に捧げよ、生命の源である太陽が輝き続ける為には人の心臓が必要だという価値観や宗教観である。心臓のえぐりとられたアステカ人が後にメシカ人と改名されて、これが現在のメキシコの呼び名の起源であったと言われている。
こうした古くからある文明を破壊したのが西欧人、インディオの文明の破壊はポルトガルではなく、スペインのアメリカ征服であった。
「酷いお話ね……」
可憐はついに涙を零した。可憐にとってが相手は杏樹女史ではなく未知なる来訪者、王の使いだと名乗る――フリードから、ラテンの歴史についてを語られた。
「私は、何も悪くはないと考えている」
フリードの顔に行灯の光があたり、だが、顔に表情は無い。綺麗に片付けられている可憐の寝室で、2人はテーブルにつき夜も遅くまで、酒を傍らに語り合っていた。可憐のすすり泣く音が聞こえている以外は、静かであった。
「誰かが、権力を握るだけ」
そして音は低く、フリードは続けるのみ。
「悪いというのなら、それは神様なのかもしれない。体系を創った神。だけど、私を含め人間は自然の一部である以上、体系から外れることは不可能だ。解るかい」
フリードは酒の入ったコップを見つめ、憂いた目を映した。酒が揺れると目も揺れる。
「神様には逆らえないのさ。不可能というより、逆らえば……」
死が待つか。人の形を失うのか。彼はそこまで教えない。
「御免なさいフリード。今夜はここまでね……あまりに辛くて、怖くて、胸がはち切れそうなの。とても興味深かったのに、こんなことになってしまって。もう……」
手を何度も握り直して、可憐は落ち着こうとテーブルから離れた。あまりに内容が衝撃的であった為か、それとも可憐の心中で触れられたくないものに抵触でもしてしまったせいか――動揺は隠せなかった。
「私の方こそ大変に失礼をした。女性に聞かせる話ではなかった――すまない」
フリードは、可憐の肩に手をかけ、それを受け取ると可憐は彼に寄りかかった。背後にあるのはベッド、フリードは幾度にも同じことを繰り返した。「すまない」
窓に月明かりが、影をつくり出している。
部屋で休んでいたはずの獣は、ドア越しに様子を窺いに来た、だが直ぐに来た道を、廊下を戻り始め、ヒタヒタと冷たい音をさせながら、ミヤの言葉を思い出していた。ミヤが言っていた「お願い」を。可憐を守るのが自分の務め、服従、そして――
迷惑をかけないように。
悲しませないで……と。
《続く》