第三話 談判
【ドイツ人】「一般的なイメージ・傾向として」は、几帳面・愛想が良い・社交的・話題が公的なこと(歴史・産業)が多い、昼間はとても謹厳で実直、交通ルールも比較的よく守る、など。個人の意思が尊重され自分の意見や気持ちを正直に言うことが正しいとみなされる(自我が強い)。だがその一方で、知らない人でも困っていれば助ける精神が強かったり、旅行や住宅にはお金をかけたりする。感受性よりも理屈が優先する。生真面目な日本人と似ると言われたり、大雑把なフランス人と比較されることもよくある。ドイツの北と南によってでも大きく異なり、南のババリア系の人々は気さくで大らかそうだったりするが、几帳面で固くクールなイメージがあるのはゲルマン系の多い北であり、人それぞれである。
・ ・ ・
私は、何者だったのであろうか……。
誰かと一緒に居た気がする、でもよく覚えていない、何故……ここに居るのか。動きたいのに、体が、だるくて、動かせない……。
聞こえる音がある。私に向かって何かを発していたようだ?
悪いが……さっぱりと通じていない。
・ ・ ・
「おはよう、犬君。朝だよー」
陽光を窓から浴びていた彼は、眩しくゆっくりと目を開けた。上半身を起こした彼は、可憐を見た後、視線を窓の外へと向ける。格子の窓から見えた景色には、青白い空しか見えてはいない。
ベッドにお座りの格好で彼は、何も考えてはおらず、空を見つめた。
「下でお父様が待っているわ。犬君はここに居て? お食事が終わったら、お父様をここへ連れてくるわ――ああそうね、君にもお食事がいるね。後で持って来させるわ」
呼びかけているのは入り口付近、扉を半分は閉めたまま首だけを覗かせて、彼の様子を窺いに来ていた。言うことは伝えたらしい可憐が扉を閉めて去ってしまった後でも、彼の反応は変わらなかった。直ぐに可憐が言っていた通り手伝いの者が来て、飯と水のそれぞれ入った銀の器を置いていったが、彼は見向きもせず場から動かず食べなかった。
ただぼんやりと、必要としない時間を過ごす。
可憐はテーブルに運ばれてきた、炒り卵が盛られた皿とサラダ、小さな籠に入ったパンに手をつけながら、父親である白髪交じりの男――ワイスを横目に機嫌を見ていた。ワイスの前には自家製の野菜である人参、大根、レタスの入ったサラダと玄米の御飯、若布と豆腐の味噌汁が並び、新聞を広げていた。まだ箸には手をつけていないようである。
「お父様。お話があるのですが」
可憐は意を決して、声をかけた。初めは無言で、新聞を閉じたが、向かい側離れにある等身大の振子時計を見て決めたように話しかけた。「いいだろう。何だね」厳粛にせよと言わんばかりであった。
可憐はパンを置き食べていた手を止めながら、紙で口を拭く。改めてワイスを見た。
「犬を。昨日ですが、犬を拾ってきて……」
聞いたワイスは目を見開き、それでも黙っていた。
「飼っても宜しいかと……相談なのですが……」
言葉を選び、慎重になっていた。
「どんな犬だね。大型か小型か、何処で。雑種かね?」
「中堅ですが、細くて格好いいです。きっとお父様も気に入ると思うわ。種類は、分からないけれど……」
「何処にいる?」
「客間に。今朝方に起きれたみたいだけど、あんまり元気がないの。施設の近くで会ったのだけれど、濡れていて、倒れてしまったの。放っておけなくて仕方なくミヤ達を呼んで連れて帰ってきてしまって……」
話している最中に、使用人のミヤは熱いお茶を運んできた。続いて同じく使用人であるササキ、可憐にミルクを持ってきた。事情を説明するとワイスは暫く考えていた。
「後で面会しよう、話はそれからだ。それより可憐。勉学の方はどうだ、あの若い女史とは上手くいっているのか。気に入らなければ言いなさい、また」
「また、辞めさせる気? 御免だわ。気に入らないのはお父様ではないの」
つい興奮してしまい、可憐はワイスの話を遮った。「若い女史、だなんて。杏樹沙里名先生です。もう2年にもなるのよ、いい加減に覚えて下さいな」一度興奮すると止まらなくなった。
「前の教師は私の意向にそぐわなかった。その前は人の紹介で預かってはみたものの、素養がまるでなっていない。大事な娘に余計な手垢をつけたくはない親の気持ちも解るだろう? 可憐」
呆れたようにワイスは両手を天に掲げていた。「だってお父様はいつも私の意見を聞いてはくれないでしょう? だから」拗ねて、可憐は口を尖らせる。ワイスは少し微笑んだ後、気を許したらしく食事に手をつけ始めていた。味噌汁を口にしたら、箸はサラダへ。口にするとシャリ、と新鮮な響きが聞こえた。
食事を終えると、可憐とワイスの2人は使用人のミヤに続いて順に階段を上って行った。
「先ほど、お嬢様に言われまして食事を運んだのですが、食べておりませんでしたから下げたのです。具合が悪いのか……お医者様でもお呼びした方が宜しいでしょうか」
年は壮年も過ぎ行く頃で、ミヤは心配になって溜息をつく。ふむ、と相槌を打ったワイスは「どれ、私が看てみよう」と宥めた。着いた客間の扉を開けると、光が目一杯に部屋中に注がれ、その光の中から出現したのが、話題の「犬」であった。
黒がかかった茶色の毛並みは、黄金に輝いているかにも見える。度肝を抜かれた顔を一同に、ワイスが静かに歩み寄った、そして後の者がつく。一声を吐いたのは、ワイスであった。
「狼ではないか。犬ではない」
途端に、厳しい顔になった。
「狼」
「狼ですって!」
周囲が騒ぎ、「黙れ」ときつく言い聞かせるとワイスは彼、狼を睨んだ。「下がれ、2人共」
警戒心をよそに、ワイスは「まさか狼とこんな所で出くわすとは」と頭を横に振った。
「あああ、どうしましょう! 旦那様、すぐに」
ミヤは部屋を出て行った。黙っていたままのワイスは娘、可憐に「お前も行きなさい」と促した。「でも」「いいから、行きなさい!」叫びは、可憐に緊張感を与えた。部屋から飛び出し、階段の傍で立ち止まると可憐は、自分は不味いことをしてしまったのだろうかと、自己嫌悪に陥ってしまっていた。
場は騒然と化した。それまでの緩い一時は何処へ行ってしまったのだろうか。知らせを受けてきたであろう救命士か技師なのか機動隊だとでも言うのか、白衣の者達が幾人か、盾になる物を添えて大勢を引き連れて来たのである。「何事か」「ワイスマン先生」「いかがなさいましたか」……
先生と呼ばれて、視線は狼に向けられる。
「あれだ。見覚えは?」
目で追った先には、孤に佇んだ狼。ベッドの上、変わりは全くのほどなかった。剥製かと間違える。
「ありませんが……これは狼ですか、先生」「酷似はしているが。犬ではないだろう」「ですが……」
「登録は? 調べるにどれくらいかかる」
「直ぐに。半日もあれば」
「まあいい。施設から逃げ出したのなら、射殺する」
物騒なことを言ってのけると、ワイスマン先生――ワイスは去った。「後を頼む」
問題となった狼は捕獲された。
オオカミの社会は基本的に群れ社会ではあるが、パックと呼ばれる「群れ」から離れて行動する「一匹狼」が居る。アルファと呼ばれるペアの夫婦と未成熟の子どもたちからパックは成るが、子が成熟し一匹狼となって独立し相手を求めて新たなパックをつくる、又は、他のパックを襲い乗っとる。但しこれは死亡する危険が高い。
パックは縄張りを守る為に一匹狼を攻撃するので、一匹狼の行動範囲は縄張りのそれ以外となる。
単独で行動する者を「一匹狼」と呼んだりするが、一匹狼の寿命は短い。理由としては、敵対するオオカミの餌食となったり、猟師の罠にかかったり、銃で撃たれたりする。
野性での寿命は10年、飼育下で16年とされているという。
暈麻績化学研究所は、上空から見ると、弓月形をした森に囲まれたように位置する。敷地は広く、高台にあり、表玄関は表千家の茶道館のように木造りで静かな門構えであった。
だが奥に進むと日本様式は希薄に、石造り、煉瓦が目立ち、渡り廊下が頻繁に見られ、入り組んでいき煙突のある施設もあり、辿り一辺通すると要塞のようにも思えた。山の裏側は海である。
鉄の檻に収容され運ばれて来た狼、彼は伏せたまま、成り行きを見守っていた。檻には黒い幕がかけられており、移動中は地に足がつかず宙に浮くかの如し心許なかった。
(私は何処かに……)
思考が何度も頭の内で反芻し、眠りに就こうとした。だがそれを邪魔して、檻の幕が開けられていく。眩しいが、それは電球の50分の1程度の明るさにしか過ぎない菜種油を燃やす行灯の光。目は直ぐに慣れ、光に照らされて浮き上がった顔を見て場に居た者達は喚声を上げた。
「まさか狼の方からここに来るとはな。貴重なサンプルになりそうだ、どうだ、今夜は一杯やりに行くか篠田」
「ハッ、まだ仕事が終わってねえよ。それに、コイツが使えるのかどうか判らない。ワイスマン先生が言ったろう、登録の有無を調べるのが先だと」
「ああ今、奔走してるよ八十島が。だが結果は予想通りだろう、『該当しない』」
「ってことは」
暗がりで白衣を着た男は口元を曲げた。
「射殺は免れるが……おい、狼」
突然に乱暴に呼ばれて、反応はしたが彼は萎縮した。「お前のことだ、なあ、おい」
「よせよ篠田」
檻に近づくと、楽しげに男は言った。
「生きたいか? え? 狼さんよ、狼さん」
彼は首を傾げた。「生かしてやるよ、もうずっと」男は含み笑いをしていた。
「長生きしようぜ、な?」
「もうよせ」
男の腕を引っ張って制止した後は、連れ立って部屋を出て行った。
(……)
去った後には静寂が訪れる。
(……聞こえる音がある。私に向かって何かを発していたようだ? 悪いが……さっぱりと通じていない。解らない……)
彼には言葉が通じなかった。理解できたのは、自分に浴びせた「悪意な」言動であったのだろう。ただでさえ動き辛い身の上で、罵声のような攻撃的な声が降りかかり、すっかり精神は萎えてしまった。
(私は、何者だったのであろうか……)
蜘蛛の巣が張った気持ちの悪さを感じながら彼は薄れゆく景色の中を彷徨った。彼が次に眠りから覚める時には、恐らく地獄でも天国でもないと信じて、目は閉じて行灯の光は消えていく。
香った女の匂いを思い出し欲しくもながら眠りを。
・ ・ ・
翌日、可憐のもとへ朗報が届いた。使用人のミヤは、慌てていた為に階段を上り切る前に躓き、前のめりになって、そして無様にも床に顔が着地した。痛そうに顔を押さえて起き上がると、可憐が立っていて知らせを待っていた。「お、お嬢様、すみません、こんな醜態で」冷や汗をかいたら今度は鼻血を出す。「ぎゃあぁあ」悲鳴が飛んだ。
「大声を出すから驚いたわ。何があったのミヤ。さあ鼻血を拭いて」
指で鼻の下を拭ってあげると、ミヤは「お止め下さいお嬢様、手がっ、手が汚れますから」と頑張り拒絶した。「いいから、部屋へ行きましょう」可憐はミヤの肩を持って促した。「あうぅ……」
肝心の朗報だったが、それは彼、狼の処遇についてである。
自分の部屋で、可憐はミヤから知らせを受けた。
「どうやら野性の狼だったようですが、施設で引き取ることが決まりましたよ! 処分されずに済んだのです!」
「施設で?」
「ええ。何たって野性ですからね。お嬢様の傍におく訳はありませんわ。危ないったらありはしない。いつ襲って喰われるか」
「まあ……」
椅子に座っていたミヤが鼻の上に絆創膏を貼り終えると、立ち上がって救急箱を閉めた。手を合わせて知らせを受けた衝撃に可憐は身を強張らせる。処分されずに済んだ、と聞いて身震いをしたが、しかしどうにも施設で過ごすことには納得がいかなかった。
「狼は怖いけど……」
首を振った。
「いいえ、怖くはないわ。あの子は、そんな子ではない……」
自分が見たものを思い出し、信じようとした。飛びかかってきた相手は可憐を襲う気ではなかった。あんなに安らかに眠っていた彼を、怖いとは思わなかったと考え直す。
「ねえミヤ。あの子は何処から来たのだと思う?」
聞かれたミヤは、キョトンとして可憐を見た。「ええと、山でしょうか」即座に答えたが、可憐は唸る。「そうかしら……。濡れていたわ、池にでも落ちたのかしら。可哀そうに」と、同情する。
「何処か遠くの深い山から、群れからはぐれて迷子になった一匹狼かもしれません。池に落ちて助かったのなら、怖い目に遭って臆病になっているのかもしれませんね。お優しいお嬢様、お引き取りなさりたいように見えますけど、でも狼は狼ですよ。犬ではありません。荻野伯爵公のご子息様が飼われているハチ様とは違うのです。どうかお解りになって」
ミヤはきつく可憐に言い聞かせた。渋々と可憐は引き下がったが、まだ完全に諦めた訳ではなかった。
(お父様にお願いしてみよう)
可憐は邸宅を飛び出した。足は施設の方面へと向かい、気は急いて早足になった。まだ昼の前、小鳥が空や森の近くで遊んでいる。鶏の鳴き声がする家もあった。
化学研究所施設の門を叩くと、暫くして門番の者が開けた。開いた引き戸から、西陣織の着物姿の中年男が「これはこれは先生の」と禿げかけた頭を掻いて挨拶をした。
「お父様に、あの子についてお話があります。お通し願いたいのですけど、今は何処に?」
用件をすらすらと言い終えると、背筋の伸び凜とした態度の可憐に圧倒されて門番の男は弱気に答えた。
「へぇ、それが……今は会議中でして、取り次ぎは、まあ」
すっきりとしない態度の男に可憐は鋭く口で切りかかった。
「まさか私とお父様を会わせないおつもりではないでしょうね? 会議が終わるまで待ちます」
疑わしく強気な可憐には勝てなかった。「へぇ、なら、離れに……」と男は下手に逆らわず、へコヘコと腰低くして言い成りになり、可憐を中に招き入れた。
門を通された可憐は施設の離れの間へと通され、そこで一時間程を待たされた。
ツルゲーネフの原書を読み終えて暇をしていた可憐の所へ、会議を終えたらしいワイスは速やかに訪れる。
「何の用だ、可憐」
ドアを開け早速と、内心迷惑そうにワイスは言った。
「ミヤから、あの子のことを聞きまして。施設で育てるおつもりですの」
胸一杯に息を吸い込んだワイスは、驚いた顔をしていた。「それが何か?」どうにも理解し難い表情をする。
「私が育てたいんですの」
それは普段頑ななワイスを一層、混乱させた。唇を噛む。
「許さん。絶対に」折れる訳がなかった。「いいえ。引きません」どちらも。
「何を考えているんだ可憐。頭が壊れそうだ、心臓も。一体、お前に何があったというんだ、『アレ』を育てたいなどと言い出すとは」
呆れ、段々と怒りで高潮し、頭を振った。
「あの子を飼いたいというのです。何度でも申し上げますわ、ええ。野性の狼ですわ、それは充分承知しています。でもあの子は独りよ、独りぼっちなのよ。可哀そうだわ。私と同じね」
それを聞いたワイスは咄嗟に声をあげた。
「可憐!」
叱咤が部屋に響く、だが、可憐が圧されることはない。
可憐は考えていた、父、ワイスに会うまでずっと、独りである狼、彼のことについてずっと、同情的な立場であった。
「考えてましたの」
可憐の両目から涙が流れた。ワイスは小さく驚きを見せながら、黙って可憐を見下ろしていた。可憐は続ける。
「私の体には、『血が、流 れ て い な い』――これが何を意味するのか。私は永遠の孤、この世で独りきりの存在よ、お父様。いえワイス、ワイスマン先生」濡れた頬からもうひとつの雫が垂れる。「何処から来たのかも分からず。行く先あの子もきっと独りだわ、きっと死ぬまで独り。この施設には誰が居るの。研究者? 代わりの動物達? 私のような思いをして欲しくはない」
可憐が言う「思い」とは、疎外感、寂寥感、どうしても越えられない壁への衝突からの痛みと傷み。そして可憐自身が持つ『与えられた肉体』――とは。
「私は人間ではない」
確かめるように言った。
「お父様、お願いよ……私を独りにしないで……」
こういった話を聞いたことがないだろうか。刀は、打たれて強くなると。
慣れれば痛くはなくなるだろうが、痛いものは痛く、鈍感に「させられている」。
独りも、慣れれば強い。だが一度砕かれると、脆い。刀も一瞬で折れよう。
「可憐」
ワイスは、可憐の肩を抱いた。手が僅かに震えていた。
「後で話をしよう。今夜、晩餐にでも」声も擦れていた。
「怒りで頭がおかしくなりそうだよ、可憐」ジットリと、手に汗をかいている。
話は、今日はここまでであった。
野性で生まれた者は、一生が野性である。
可憐が彼と再会するのは、ワイスと対面してから、一週間後のことであった。
《続く》