第二話 可憐(カレン)
【オオカミ】最大にして最強のイヌ科動物。大形のシカ類を捕食するのに適応し、進化。分布は広く生息していた。人間の圧力と生活地域の破壊が分布域の激減をもたらし、世界各地の保護区やツンドラといった不毛な地にのみに残るだけとなった。
肉食獣ではあるが時に腐肉や植物も食べ、ゴミを漁ることもある。
西洋や中国など牧畜が盛んだった地域では家畜を襲うとして害獣又は悪者として童話などに書かれたり忌み嫌われる存在ではあるが、アイヌやネイティブアメリカンなどのように狩猟採集が盛んだった地域では、「狩りをする神」「シカを守る神」として神格化されている。
農耕が主だった日本のような地域では、農作物への被害を与えるシカなどの害獣を駆除する者として、怖れを抱きながらも尊ばれている。
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開港したが、まだ居留地が完成してはおらず、外国人が居留地外で居住することを政府は特別に許可した。雑居地と呼ばれ、入国した外国人はここに住むこととなった。時は19世紀中頃、ネオ・バロック様式を基調とし、ドイツ風の重厚なデザインで、内装には至る所にアール・ヌーヴォー様式を取り入れた異人館とも言う西洋館が、あった。
煉瓦造りの外観と屋根上の風見鶏が特徴である。半地階付きの2階建てで地階は御影石積、1階は煉瓦造、2階は半木骨造である。風見鶏は風向きを表し、主に西洋の教会堂や住宅の屋根に取り付けられているが、魔除けとしても意味を成す。
敷地は広く数家族が近辺に住んではいるが、互いに顔を会わすことは少ない――いや、稀である。
17歳になった娘、可憐は足元にまで長い自慢の銀髪を櫛で整えながら、容姿に似つかない大きな欠伸で使用人を驚かせていた。「お嬢様。直ぐに」のんびりとしている不作法な可憐を窘めるように言った。
「分かっているわ。直ぐ」
落ち着いた少女の声である。可憐には老いが無い、生きて17年が経つ。しかし睡眠は人の慣習に添い、必ず採ることにしていた。砂色の肌は滑々に、目は黒く、頬紅は塗らないが口には真っ赤な口紅が塗られていた。
「お父様は何時?」
「明日ですよ」
「そう。ならいいわ」
父の帰りがそうと聞くと、ホッと胸を撫で下ろしていた。母はおらず、一人身の可憐は、随分と楽しげに使用人に向かって粗野な舞踊を晒した。「お止め下さいお嬢様、そんな西洋かぶれの、はしたない、嗚呼」
見ていられないと使用人は割烹着の袖で顔を拭いた。「御免遊ばせ、フフ、フ」可憐はさも面白そうに部屋を出て行った。
朝の光は好きよと可憐は鼻歌を、原曲で披露する。螺旋の階段を下りながら。「あら?」可憐の目に留まったのは、玄関の鍵だった。「何故開いているの」普段から気にしている訳ではないが、妙に気になっていた。「掛け忘れていたのかしら……」東に通じる扉の片側だけを開き、可憐は外へ出て行った。
(わあ、いい天気)
日光を全身で浴びながら、可憐は小さな足で玄関の先の小階段を下りて行く。「あ、と」急に黒猫が前を横切って行ったので、つい声を上げてしまった。「……」無言でチラリと可憐を見たが、関心ないと直ぐにそっぽを向き、気ままに駆け出して行った。チリーン……何処かの飼い猫らしい猫は、その証拠に首に鈴を着けていた。
(何よ知らん顔して。きっとまた『施設』で飼い始めた動物ね)
邸宅の前より道なりに、山への方向へ足を向けると、坂道をひたすらに上るとそこには、可憐の言う『施設』があった。
『暈麻績化学研究所』
表向きは、生物有機化学、溶液化学、有機金属化学、電気化学などといった舎密局であった。幕末期、幕府の洋学教育研究機関である開成所に理化学校を建設する構想があったのだが、それより前に建設され、化学研究所として成る。
庭や鉄柱に西洋の装飾が成されている部分も目に受けるが、日本様式の造りであった。一般人は無論、関係者以外は当然に踏み込める地帯ではないのだが、可憐は特別だった。可憐、は。
(森のほうへ行こう……)
可憐にとって、自然はとてもありがたかった。緑の濃く残る地域ではあるが、ここだけはまるで別世界のようにあらゆる開発は急速に進み、多くの森林伐採を人づてに噂にも聞いてきたし、可憐は、聞く度に居た堪れなくなった。可憐がこれから行こうとしているのは鎮守の森、かつては神社を囲むようにして必ず存在した森林のことで、自然崇拝・精霊崇拝でもある古神道や神社神道を今に伝えている社でもある。人の手が介入していないのが好きであった、ともする。
土埃が舞う道を歩いて行けば、森に入る……可憐は、そこで妙なものを見つけた。
「? 犬?」
黒にも近い茶質。細い体躯、しかし四本肢と毛並みは明らかに人ではなかった。樹の傍らから出てきたそれには、普段穏やかで抵抗力の無い可憐も、少し強張った。
「何処かで飼われては……?」
……いない、ということが推察された。何も身に着けてはいないし、何より、毛が濡れている。そして臭う、動物の臭い。これは野性だ、獣だと可憐は一瞬だが、思った。
「犬じゃないの?」
舌を出してこちらを眺めているようだが、近づこうとはしていないようであった。なので可憐は迷い、来た道を戻ろうかと諦めかけた、その時である。
野性の獣――彼は、駆け出して来た。「きゃあ!」可憐に飛びつく。
しかし可憐を傷つけたのではない、可憐は転んで尻餅をついてはしまったが、飛びかかられて数秒の隙があった。「……」彼は話さない。
倒された格好になって両者は、見つめ合った。可憐は驚いた顔のまま、身動きが不可能な状態で間を待った、喰われてしまうのかと覚悟もあった。だがそれも杞憂に終わる。彼は、可憐の胸の上で崩れたのである。「ええ?」襲いかかることはなく安全で、安らいだ顔をしていた。居場所を見つけた旅人のように、ゆったりと……。
心中、可憐は既に途方に暮れていた。
陽光の時は過ぎ、海に近い漁場は、人の気が寂しくなる。海陸風は陸から海へと風向を変えていき、森は眠りを始める。館など民家では、明かりが灯されて、町の色を変えていく。外灯は極少なく、景観を壊さない程度にしか存在はしていない。
館に戻った可憐は着替えて、寝室で本を読みながら寛いでいた。小脇にベッドがあるが、就寝までには充分に時間があった。読みかけの頁に花のついた栞を挟み本をテーブルに置いたあと、可憐は椅子から起立して部屋を出た。
冷んやりとした廊下を渡ると、階段に出るが、下りずに向かうと客用の寝室に出る。扉の前まで行って、可憐はノックをするのを躊躇した。だが勇気を出して一度、そしてもう一度と、扉を叩いてみた。「――」何も反応が無かった。よく思い出せば、可憐は彼が声を発する所を聞いてはおらず、何と返事をしてくれるのかも想像がつかない、また早々と途方に暮れる。「入ります……」可憐は扉を開けた。
そこに居たのは予想通りに、両開き式の閉じられた大きな白い窓の前に佇む、いや、眠っているのだが――白いシーツの上で丸まって寝ている彼、が居た。ベッドの上は快楽のように、耳は立つことはなく倒れていることでもなく、目も、口も、鼻も、足も手も――放っていた。
「君は何しに来たんだね?」
からかうように可愛い声で尋ねた。彼を連れて帰ってから数時間、起きることなく眠り続けたままの相手に、何もしようがないと呆れるだけである。呼吸も整ってはいるし、全身が濡れていたが何処かで水でも被ったんだろうと使用人に一笑された。潮のにおいではないので、そういうことになった。変わった雑種の犬だろうとも言った。そうだろうかと可憐は半信半疑ではあったが、使用人たちに説得されてしまい「そうね」と決着をつけた。
お嬢様が犬を拾ってきた――使用人の間で、噂が広がっていく。使用人の数とはいっても、たかが知れている数である。
「試しに、会話をしてみい、犬君」
続けて可憐は言った。反応のない相手に独り善がりである。
可憐が近づきベッドを椅子のように腰掛けてみても、彼はスヤスヤと寝息を立てている。起きないなんて無防備な奴だと微笑う可憐に、隙間が差した。おでこを撫でると、本当に犬だなと思えた。「君を飼ってもいいかなと、お父様に報告してみるけど、君はどう思う?」赤い唇から出る言葉には悪気はなく、淑女であれということを置き去りにした。
やっと、彼は反応した。「……」だが声にはなっていない、薄く目を開け、黙っていた。「あ、起きた」可憐は嬉しくて顔を寄せた。朝に味わった恐怖など、すっかり忘れていた。「どう? ここは私の館よ。ぐっすり眠れた? お馬鹿さん」調子に乗り、彼をお馬鹿さんと罵る。再びに、可憐に悪気はなかった。
(ここは何処なの?)
薄暗い部屋のなかに場所を知り得る手がかりが少ない。彼は不安になった。匂いだけには――妙に安心できた。花の匂い、いい匂いがして、気分がいい。
「私の館、ここは君の為に用意した部屋よ。聞いてる?」
鼻の頭に人指し指を置いてみる。ぺちゃんと伏せて、彼は眠たそうに可憐を見た。
「君は何処から来たのかな。残念だな。話せたらいいのに……」
床についていた足をベッドの上に上げて、可憐も同じベッドの上で横になった。窓の格子で月が割れている。大きな月が見えた、今夜は明るいのだろうねと可憐は口に出さず心に留める。
「君の名前はね、どうしようかなって、さっき考えてたのだけれど、決めたの。犬だから、『ケン』――」
耳をピクピクとさせながら、彼は聞き入った。「本で読んでいたの。江戸っていう時代の日本のお話よ。お話してあげる……」可憐は優しげに、さっき読んでいた本の内容を話し出した……
紀伊国、熊野にある奥の山、坂本村の弥九郎という鉄砲の名人が居た。
弥九郎はいつも、田畑を耕し野山を駆け回り、狩りをして過ごしていた。ある用事で遠方へ出かけた時、その帰り、日が暮れ峠を越える前に一休みしようと弥九郎が石に腰かけ煙草をふかしていると、キラキラ光るものに気がついた、それは動物の目玉だった。
肝が据わっている弥九郎は、「何だ、そこで何をしている。出て来い」と呼んだ。茂みのなかから姿を現した動物は、何故か苦しそうな様子で、弱っていたという。
「狼じゃないか。どうした、苦しそうだな。どれ、みてやろう」
弥九郎が近寄り体を調べてやると、外傷は無いようである。口を開けさせてみてやると、何と大きな骨が刺さっていた。「おお可哀そうに。痛かっただろう」と弥九郎は、その骨を抜いてやった。
狼は感謝し喜んで、弥九郎にとてもよく懐いていた。
「さてそろそろ帰るとしようか。じゃあな、よく休めよ」
弥九郎が手を振って峠を越えようと歩いて行っても、狼は弥九郎の後について行く。困った弥九郎は一計を案じて、狼にこう言った。
「狼よ、気持ちは嬉しいが、狼のお前を連れてはいけない。怪我をしているのだから安静にしてまい。そうだ、もしお前に子が生まれたら一匹、儂にくれまいか」
弥九郎はそう言って狼を帰し、家路を急いで行った。
それから半年が経って、狼のことなどすっかりと忘れていた朝のことであった。
家の前で鳴き声がしたので、弥九郎が戸を開けてみると、一匹の子犬が見るなり弥九郎にまとわりついてきた。よく見るとそれは狼の子で、弥九郎は思い出していた。「そうか、さてはあの時の。儂の言ったことを守って、この子を儂にくれたのか」と大変喜び、狼の子を温かく迎え入れていた。
狼の子は『マン』と名づけられ、大切に育てられ、狩りにはいつも連れて行き、やがては村じゅうや外で広く名が知られる程、有名になっていったという。
ある日、殿様が御猟場で巻狩りをするのでと、猟師は集まるようにとお触書が出た。多くの猟師が集まって行ったが、弥九郎も、猟犬マンを連れて参加することになった。
殿様が山上で供の者と休んでいた最中である。手負いの猪が突如現れ、殿様を目がけて突進してきた。「うわあああ」「殿! お逃げ下さい!」供の者は大慌てて泣き叫んだが、間に合わず為す術はなく猪は殿様に襲いかかった、だがその時である。
たまたま近くに居たのだろうか、マンが横から猪の首に飛びかかり、噛み殺してしまった。
危なく難を逃れた殿様は非常に感激し、「あれは、誰の犬じゃ?」と聞くと、供の者は「坂本村の弥九郎の犬で、マンと申します」と答えた。「何と天晴れ、褒美をとらせようぞ」と殿様は、弥九郎とマンに、たくさんの褒美を与えたのであった……
・ ・ ・
「それでね、犬君。その後も弥九郎とマンは、幸せに毎日を、狩りをしたりして過ごしていたの」
少し話し疲れてきたか、眠くなってきたのか。可憐は瞼を擦りながら、伏せて聞いている彼に一方で語り続けていた。「まだ続きがある……」
それは可憐には、あまり楽しい話ではなかった。だからか口調もだるさと相まって、坦々として静かに語る……
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夜のことであった。弥九郎たちが家に居ると、近くに古くから住んでいるお婆さんが訪ねて来た。
ついつい話し込んでいると、お婆さんは思い出したように弥九郎に聞いた。
「弥九郎、そういえばお前が可愛がっている犬のマンじゃが、噂で聞くと、実は狼の子だって言うじゃないか。本当かえ?」
どきりとした弥九郎であったが、隠さず、お婆さんにはこれまでの経緯を全部正直に説明した。すると話を最後まで聞いたお婆さんは、難しい顔をして、弥九郎に言った。
「弥九郎よ。狼はな、人間にどれだけ可愛がられていようとも、生き物を千匹食べると次は飼い主を襲うと昔から言われておる。蝗一匹でも数に入るとのことじゃろうから、もうそろそろ千匹になるかもしれぬ。用心したほうがええぞ」……
弥九郎が聞いてどう思ったのかは知れない。だがマンは、外でそれを聞いていた。
マンは、話が終わると夜空を見上げていた。「オオーン……」
3回、空に向かって遠吠えをし、姿を消した。
朝が来て、マンが居ないことに気がついた弥九郎は「まさか」と思い辺りや村じゅうを散々歩き回って捜したが、結局は見つからなかった。
再び、マンが弥九郎の前に現れることはなかったという。
だが夜になると、鷲の巣山の方向から悲しそうな狼の遠吠えが毎晩のように聞こえてくるらしく、「あれはマンの鳴き声だ」と人々は噂していたという。
紀州地方で、狩猟犬として使われる「紀州犬」は、昭和9年に天然記念物に指定された歴史ある犬の種類である。現代に在るその有名な紀州犬の祖先が、弥九郎が育てたマンであると、俗に言われている。
現代ではオオカミが犬の祖先であるという説が一般的ではある。それは遺伝子学的、分子系統学などに基づきもたらされた説であった。これだと犬、イヌは、人間がオオカミを家畜化し馴らせ、人間の都合よく好まれるように性質を品種改良させられてきたのだと言える。現在チワワなど様々な種類のイヌが存在するのは、そういった人為選択により、環境にも応じて、「進化」してきたものである。これは根拠に基づいた説である。
イヌ科の生物で北アメリカの「自然界の掃除屋」とも言われるコヨーテは、アメリカの西部開拓時代の長い歴史のなかで気の毒にも「家畜殺し」「シカ殺し」として誤解や、汚名を着せられ、射殺されたり罠で捕獲されたり毒殺されたりと、悲惨な運命を辿っている。その数は毎年12万5000頭にも上ると言われており、汚名の原因としては、コヨーテが腐肉食性動物つまり動物の死骸を食べる習性を持つことと、その用心深さと環境の変化に対する並優れた適応力にあるのであろうと推察する。
多くの肉食動物は、人間がかつて土地を新たに開拓してきたことにより棲息場所を荒らされ、「害獣」や「毛皮獣」として容赦のない迫害を受けてきた。そして個体数は激減し生態系は崩れ、絶滅していった動物も多く居る。
しかしコヨーテは例外ではなく迫害されてきたことに関しては他よりも抜きん出ているのだが、個体数が減るどころか逆に増えていたりする。
コヨーテの死体を解剖して調べた結果、他の雑食性動物と変わらず手近な採れる物を食べていたにしかすぎないと出ている。環境にあった生活をしていただけであり、例えばウシやヤギの死体の傍にコヨーテの足跡が発見されれば犯人と決めつけられてしまう、そのような誤解をされる一途に拍車をかけていくのが、人の怖れや先入観というものであろう。
かつて日本でも報告されている例で、北海道に棲息していたエゾオオカミは、20世紀頃を最後に姿を消した。
イギリスでもイングランドでは16世紀頃、アイルランドでは18世紀中頃、スイスでは19世紀後半にかけて、捕獲されたものを最後に絶滅している。現在でもオオカミの個体数はワシントン条約の附属書により掲げられ保護されている、絶滅危惧種である。広大な土地を必要とするオオカミの前途はこのように至って、とても暗い。
古きや恐怖の的は退け新しき安息を。抵抗はせず、ただ速やかに去るのみて。
マンのよう。
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可憐は話が終わると、満足にそのまま眠りについていた。窓から格子で割れていた月が、まだ見えている。
《続く》