第十三話 正義と正当
【ガガーリン】小惑星の名。小惑星帯に位置する。ソビエト連邦の女性天文学者リュドミーラ・チェルヌイフがクリミア天体物理天文台で発見。人類で初めて宇宙飛行を成し遂げた、ソ連の宇宙飛行士ユーリイ・ガガーリンに因んで命名。飛行士の「地球は青かった」は有名で、他に地球周回中の言葉「神はいなかった」も有名ではあったが、これには誤解しないよう解釈が必要である。「ガガーリン」に因んでは、都市、トロフィー、月にあるクレーターなどにもその名が付けられている。
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広島の、平和記念公園にある原爆の子の像は、佐々木禎子――ササキサダコ、2歳で被爆し10年も経ってから白血病で一生を終えた少女、がモデルである。像は、シアトルの平和公園にもあるらしい。小惑星の名にもある。
入院中、「千羽鶴を折れば元気になる」と折鶴を折り始めた話が有名で、中学の英語の教材にも使用されているが、当時折り紙は高価で折鶴は薬の包み紙で折られており、千羽を超えても病気は治らなかった。もう千羽折ると言い、亡くなる直前はお茶漬けを食べて「あーおいしかった」と残し言ったという。千羽未満説など後世で多数創られたが、余命あと一年と言われながらも決して悲観はしなかった。
何故、広島や長崎が原子爆弾の投下ターゲットに選ばれたのかと問えば、「東京は天皇が居るから原爆は落とさない」「京都は古都だから投下目標から外された」などはひとまず、アメリカ文書からのデマである可能性もあり、慈悲や親切心があるのであれば、最初から原爆は使用実現しなかったであろう、と元を取る。これは戦争である。東京や京都を含め、各都市や田舎にまで空爆は敗戦までに多く起きて死傷者を出しているのが事実である。
8月9日に長崎へ投下後、14日に日本政府はポツダム宣言の受諾を各国へ通告、15日に昭和天皇による放送で国民にそのことが伝えられた。日本では8月15日が終戦記念日とされているが、戦勝国アメリカや欧州各国では9月2日をポツダム宣言に調印した日として記念日にしていたり、また3日が、といった国家もある。国により勝った側、負けた側、支配から解放された側、などによって日が異なってくるのであった。
されど終戦はどの国でも予め予想は出来ていた。根拠は現代でも数多く残されている。
長崎への投下後も、敗戦たる経緯を以て右翼軍部を説得に至らしめる天皇の決断が無ければ、東京にも続いて原爆を落とされていたであろうと言われる。危機一髪であった。
原爆を実現及び使用するにあたりこの計画を「マンハッタン計画」というが、完全秘密主義で行われ、着手する爆弾リトルボーイに至っても機密であり設計がどのように為されたのかは明らかではない。
玉振のようなまだ芽が出ていない若気の位には、機密は恐怖でもあるが最高の刺激なのであろう。怠慢な脳が若返る……。
青ざめて玉振は、レガシィに詰め寄った。「どういうことなの」目を赤らめて。
開店時間までにはまだ充分に時間はあるが、定時に店へ辿り着いた玉振を待っていたのは、アパートを出る時に隣の部屋に居たはずのレガシィであった。玉振よりも先に到着するはずが無いと思っていた。
焦燥にかられたレガシィは「な、何だよ」とひるみながら、「どうして壁から返事がきたの。誰かが部屋に居たの。何でここにレガシィが居るの。まさか泥棒?」とせめられて、理解できたように安堵した。
「何だ、そのことか。客人が居たんだよ。悪ィな」
「悪ィ……って」
玉振は呆れた。何故壁を叩くことを客人が知っていたのか。レガシィと客人、双方ともで仕組んだ悪ふざけかと玉振は怒る。
「誰なの」
寒気がした。
「ねえ誰なの」
まるで嫉妬に狂った女房である。「落ち着けよ。仕事行け」レガシィはホットドックの欠片を口にした。「何だ何だどうした玉、騒いで」と、奥から主人が聞きつけて来た。「何でもねえよ」レガシィが手を振った。
「教えてよ!」しつこく聞いた。
「――煩ぇな、てめぇはよ!」
険悪なムードが漂う。やがてレガシィが最後のホットドックの欠片を口に入れると、レモネードを一気飲みして金を置き立ち去った。その間、玉振も主人も黙ったままでレガシィを見ているしか無かったが、主人が金を取ると手を玉振の頭に置いて「気にするな。さ、仕事行け」と宥めてくれた。「うん……」
泣きそうになるのを抑えていた。落ち込んだまま、開店の準備に取りかかる。手を動かしていながら、今日は早くに片づけて家に帰ろうと玉振は思った。
玉振たちが住む東海岸側の反対側、西海岸に位置するカリフォルニア州、サンフランシスコ。ヘイトアシュベリーは、1960年代にヒッピーが多く集まった街としてよく知られる。日本では長野県諏訪郡富士見町がヒッピー文化の発祥地として言われているらしい。国分寺など、ヒッピーによるコミューンが存在し、現在でもナチュラル系な店舗が軒を見る。
さて、ヒッピーとは何か。ヒッピーとは、古来からの伝統や制度そういった格式ばった価値観や概念というものに囚われずに、文明が出来上がるよりももっと以前の「野生的な」生活に回帰することを信条とした人々のことである。植物系の彩りの柄の服装、頭にバンドを巻いたり長い毛をだらしなく伸ばしたように見せるなど、「野性」さを出す。
主に60年代後半でアメリカの若者の間で生まれたムーブメントで、彼らは「自然」「愛」「平和」「自由」を基に置いている。認識しておく注意は、ここでいう「愛」についてである。野性であるからにして性行為、性については大いに寛容であり、「ラブアンドピース」と掲げられる信条の「愛」には、それまで縛りつけられていた「性の解放」の意味が含まれるのであるのだと知っておくが良いのであろう。
ラブアンドピース、性の解放又は愛と平和を掲げた背景にはアメリカによる北爆、即ちベトナムへの戦争、俗に言う「正義無きベトナム戦争」、反対運動が発端であった。彼らが中心となって戦争に反対し徴兵を拒否、自然と平和と歌や自由を愛すそのスタイルを通した。薬物による高揚や覚醒、悟りもあったが、各地にコミューンと呼ばれる彼らの共同体は形成されていった。
ムーブメントと言われるほどに広まりは世界に蔓延り、ロックバンドのビートルズによるインド巡礼、マリファナやLSDを使用した精神解放などによりさらに拡大していくのである。日本で言えばフーテン、みゆき族、サイケ族。ファッションの観点からで言えば、日本の代表的なバンドであるザ・スパイダーズやタイガースにそれらが垣間見られるが、ビートルズの影響を受けて長髪に船員帽、水玉や花柄など派手な柄でウエストを細くしたシャツ、股上の浅いスリムなパンツ、幅広のネクタイにブーツなど、モッズと言われるファッションが流行していた。他、アイビー・ルックや、当時は着ると日本では不良と言われたボタンダウンシャツ、それからコイン・ローファー、ミニスカートが流行る。
「みゆき族」は1964年の5月頃から銀座のみゆき通りや並木通りに大勢の若者が出没するようになり、通りの名に因んでそう呼ばれる。男性はアイビー・ルックを少し崩したような格好が特徴で、女性はロングスカートのバックに共布のリボンベルトを結び2つに折ったハンカチーフを頭に被り、男女とも大きな紙袋か麻袋を鞄代わりに抱えていたという。
これが1967年になると、新宿東口駅前公園広場に「サイケ族」という若者の集団が現れる。仕事もせず、特に何もしていない彼らはユニセックス、汚れたTシャツにジーンズ、素足にサンダル、ショルダーバッグ、そしてモッズ以上に長く垂らした髪と無精髭が特徴的であった。元々はドラッグのイメージが影にありヒッピーやフーテンと混同して呼ばれた。芸術家もいたりすることから、新宿はアングラ文化の発祥地にもなっている。
ヒッピー、彼らは個人の魂の解放を訴える。伝統的な社会や制度を批判、否定する観念から、伝統的であるキリスト教などを否定し、欧米で東洋の思想や宗教が広がりを見せ始めた頃よりカルト宗教が多数に渡り創設され、社会問題となる。
文明の否定、自然への回帰。自然保護活動を生業にする者にとっては、これを引き継ぐ者も多く居る。70年代に至るまでのベトナム戦争終結、薬物取り締まりにより衰退はしていくが、第2世代と言われる1990年代から現在に至るまでに、映画など他の文化とリンク、又は融合したかのような形で現れる。
それと薬物――代表としてひとつ挙げてみるのがドイツ語の略称であるLSD、日本では1970年に麻薬として指定される非常に強烈な作用を引き起こす半合成の幻覚剤であるが、アシッド、エル、ドッツ、パープルヘイズ、ブルーヘヴンなどとも呼ばれた。
LSDは人間には無臭、無色無味、極めて微量で効果があり、効用は摂取量だけでなく摂取経験、精神状態、周囲環境より多大変化する。一般に、感覚や感情、記憶、時間が拡張や変化する体験を引き起こし、その効能は摂取量や耐性により6~14時間程続くらしい。LSDの研究や精神療法が警戒や取り締まりのなかで進められてはきたが、今も尚、確実な効果や作用への解明には被験者によって効果が異なる為、難航色である。医学や軍事の分野以外でも研究は、永遠のようにされていくのであろう……。
どんな街でも、闇は訪れるものである。
レガシィと口喧嘩をしてしまったことで、直ぐに帰りたくとも帰り難くなってしまった玉振であったが、夕刻、早退したいと申し出て帰宅することにした。その前に買い物をしておこうとスーパーマーケットに寄る。陳列された商品の棚を見ている間に、不審な少年たちに気がついた。
彼らは数人のグループで、2、3、……5人居た。菓子のコーナーで通路を塞ぎ、1人か2人を囲むようにして輪をつくっている。その内の1人がチラチラと周囲を気にしているようで挙動が怪しい、玉振はコーナーの近くに居たが、目を合わさないように陳列棚を見ている態度をとっていた。
(万引きだろ……)
ビスケットとクラッカーのどちらにしようかと棚から選びながら、見て見ぬふりで玉振が立っていると、やがて彼ら少年たちは輪を崩して玉振の方へ向かって来る。玉振は、故意ではあるがその集団の1人にぶつかった。白人の子で体は細く、少年のなかでは一番小柄であった。
ぶつかった途端、持っていた鞄が床に落ちる。するとまだ閉めてなかった鞄のなかから、小さいヌガーやロリポップ、チョコレートなど、未開封なお菓子がばら撒かれた。
少年たちの顔に「シマッタ」という顔色が広がる。空気が一瞬、凍りついたようである。
玉振も動かなかったが、やがてキャンディの袋をひとつ摘みあげると少年たちを睨んだ。少年たちが次々と堰を切ったように罵倒し始める。
「何だよ」
「何見てんのお兄さん、それ返してよ」
手を出した。
「見てんじゃねーよ。糞野郎」
書ききれない汚い言葉が玉振一人に複数向かっている。しまいに、少年たちは先へと行こうとした。だが、摘みあげたキャンディの袋を放さなかった玉振、返せと手を出した少年の内の一人が、立ち止まったままであった。「放せ、アジアン」と唾を吐く。
頭にきた玉振は、平手で少年を叩いた。パシン、と音が響く。
「ンぁにしやがんだてめぇ!」横から戻って来た別の少年が殴りかかった。
玉振がそれを避け、身をかわすと殴りかかってきた少年の拳が後ろの棚にヒットし、大きな音が響いた、聞きつけて人が集まって来る。「何してる」「どうした」大騒ぎになった。
「こいつが」
「なめんじゃねーぞオラァ!」
また少年が攻撃する、玉振は今度はかわさず、真正面で受け止める。頬を殴られたのだが首が横を向いただけ、ゆっくりと顔を戻すと、玉振は牙を剥き喉を鳴らして吠えた。「グアァ……」目が血走っていた。「ウァッ」少年たちの身が仰け反った、数歩引き下がっていく。「何」「何なのよ?」狂気の沙汰だと少年たちが騒いだ。
店員やガードマンが駆けつけ、震え上がる少年たちを見て「どうした」と口々に言い合う、「し、知らねえ、俺」など、腰が抜けて立てなくなった者も居た。
――俺が悪いわけじゃない、悪いのは万引きをした奴ら。俺は悪くない。
――唾を吐きやがった。ムカついたから叩いた。殴ったから吠えた。それだけ。
キャンディの袋を放り投げた玉振は立ち去ろうと背を向けて歩き出した、面倒事は結構だと――象徴するかのように。肩を丸めて身を庇いジャケットのポケットへ手を入れた。
アジアンは差別用語だ。
玉振の胸に刺さったのかもしれない。「おい、待ってくれ」
ガードマンに止められ、玉振は足止めを食らっていた。
思いもよらず、時間を食ってしまった玉振が帰宅できたのは、夜の7時であった。帰ると、2つのドアが待っている。即ち、玉振の部屋と隣接するレガシィの部屋である。合鍵を持っている為、部屋に出入りができる身分である玉振だが、緊張していた。
(確かめなくては……)
今朝、行きで壁を叩いた人物が誰なのか。まさか、まだ居たりはしないだろう、しかし、知らぬ内に同居人が居たら。どうしたらいいんだ、と玉振は悩んだ。
玉振の胸中で歯車が回る、不安事が回る、勇気と決断に迷いが生じていた。思い出すのは、問いつめた時に見せたレガシィの態度である。悪ィな、と動じた風でもなかった、妙にそのことが引っかかってどうしようもなかった。
(レガシィ……疲れた)
仕方がないとついにはドアを開けた。カチャカチャと鍵を鳴らしてドアを開けてみたのだが、どうやら鍵がかかってはいなかったようである。一気に不安が広がり慌てて部屋の奥へと直進すると、出迎えて待っていたのはレガシィであったのだ。「よォ、お帰り」と呑気そうに椅子に座っていて新聞を読んでいた。
「はぁ?」
玉振から声が漏れる。「何だよ、その目」「だって」脱力し、玉振が崩れる。「帰ってたのか」
緊張が解けて玉振は目で抗議する。「もう……」溜息が漏れた。
「コーヒーでも飲むか?」
椅子から立ち上がり新聞を閉じてひょいと放り投げる。「いい。要らない」と玉振が断ると、疲れたように傍のベッドへ倒れこみ、伏せてしまった。「おいおい、どうしたんだ」レガシィが呑気に聞いている。「頭のなかがぐちゃぐちゃだ……」だるそうであった。玉振が万引き少年たちとの喧嘩のことをぽつぽつと話すと、レガシィは微かに笑いながら同情した。
「ご苦労って奴。しっかしお前も何でガキ相手に絡んでんだ。放っときゃいいのによ」
「だってムカつく。俺、ああいうの大嫌いなんだ。集団で寄ってたかってさ。一対一でやれねえのかって、卑怯でずるいだろ、レガシィ」
「まぁな。でもその曲がれねぇ正義心が何処でも通用するかって」
機嫌を損ねて黙って口を尖らせた玉振は、ごろりと寝返りレガシィに背を向けた。
(何だよ。俺が間違ってるとでもいうのかよ。畜生)
少年たちを目撃した時に生じたあのムカムカは、行動を起こさせた。玉振には、見過ごすことが出来なかったのであろう。
(何が「アジアン」だ。汚い言葉ばっかり吐きやがって。汚い奴らだ、性根が)
ついでのように昔を思い出される。玉振が店で雇われて働き出した頃のことを。マスターたちはとても親切で、本当の肉親のように面倒を看てもらったことなど。これまでの年月の経過でマスターたちの環境にも変化があったが、玉振は自分にはあまり変化が見られないということに少々の憤りを感じた、それとも、自分が気がついていないだけで周りから見れば変わってしまっているのであろうかと考えた。
(今まで色んなことを言われたさ、ああそうだ、客でも覚えてるのがあいつ、俺を見てニップとかジャップとかって馬鹿にしやがった……女癖の悪いチンカスな奴だったけど、客と喧嘩したのは初めてだったな。マスターが仲裁に入ってくれなかったら、俺、死ぬまで噛みついてた)
どうも感情の制御が出来ないでいる、危うさはいつもある。記憶を辿ると同時に、玉振はある地点において恐怖に毎度駆られてしまうのであった。
「レガシィ」
「ん?」
「聞いて……。俺、怖いんだ」
またごろりと寝返る。今度はレガシィの方を向いた。
「過去を思い出す度にいつもなんだ。いつも……ここに来るまでは思い出せるんだけど、その前が……無いことに」
要するに、レガシィに会う直前までの記憶のことを言っていた。
「ねえ、レガシィ。俺は……何処の生まれで、何であそこに居たんだろう。どうして覚えていないんだろう……怖いよ、俺……」
「しっかりしろよ、そんなのは屁でもねえ。怖くねえって」
だが玉振の肩が震えていた。手も、声も。
「怖くて潰れそうになって朝起きるんだ。汗をかくんだ。鏡を見て、今ここに自分が確かに居ることを確かめるんだ。嫌になるんだ。何もかも。手首を切ってしまいそうにもなる」
「馬鹿やってんじゃねえよ。落ち着けって、何処で覚えたんだそんなもん。全くよお、変な本ばっか読みやがるから」
「怖くて駄目なんだ。震えてしまうんだ。死んでどうこうってわけじゃないくせに……可笑しいんだ、笑うだろ。俺きっと可笑しいんだ。笑えよ、レガ」
「はっは、これでいいか。ったくよう、確かに今のお前は可笑しいが、だったら寝ちまえってんだよ。疲れてんだろ脳みそ。余計なことばっか考えやがってよ……俺には」
レガシィは近づいて、ベッドに座った。
「過去を失ったお前の気持ちなんざ解りたくたって解れねえんだ、悪い。でもよ、過去なんかなくたって生きていけんだ、生きて来れたろ、10年以上」
正確に言うと20年。若かった肉体もガタを見せ始めていた。レガシィの顔つきも変わり、目の上のたんこぶは出来てからそうは遠くはない。
「ここに居ていいからよ、今日はここに泊まってけ。寝て休んだら考え方も変わる。襲いやしねえから安心しろ」
屈託無く笑うレガシィを見て、玉振は安心した。「襲うって……」
「俺にモの気は無え」
冗談が嬉しかった。目を閉じて、寝息を立てる。
ベッドには微細だが、香水の匂いがした、無論レガシィの匂いとは考えにくい、玉振は早くも気がついている。
ねえ、壁を叩いたのは、誰?
聞くに聞けない事柄を、眠りのなかへ持って行った。
《続く》




