第十二話 死への階段
【電子励起爆薬】電子励起状態になった物質を化合させて製造する次世代爆薬の概念。予め原子の周りのエネルギーを高めた物質、つまり電子励起状態の原子を組み合わせて化合物を作れば今までより飛躍的に高いエネルギーを持つ化合物が作れると言う発想である。2個の電子が励起したヘリウム原子は通常のヘリウムと異なる物性を示し励起状態で準安定化する、この原子は原子同士が結合して常温から500℃までの温度で固体になると計算。そのエネルギーは理論上はHMXの300倍以上と計算されている、これはTNT換算すれば1トンの爆薬がTNT500トン分の威力を持つことになり、戦術核兵器並の通常爆弾が開発できることを意味している。コンピューターによる電子軌道の計算によって励起状態で安定したまま化合物になる可能性が見つかったことから、実際に製造可能だと言われているが、2007年の段階で実際に合成に成功した事例は無い。 このような研究から金属ヘリウム爆薬と呼べる物ができるのではないかと、予想されている。
・ ・ ・
知らない女の人の夢を見た。とても美しい、見たことがない女の人の。
しかも、俺と結婚式を挙げているらしい。何処かは分からないけど、教会か? 白い教会だとは思うけど、盛大にも花火が上がっている、勿論、俺と花嫁だけでもない。神父がいるし、後ろには俺たちを祝ってくれる大勢の人が居る。有難う、嬉しい、夢だと分かってはいるけど、嬉しい。
そう思っていたら、突然に辺りが暗くなる。何故だ? 俺は焦点を失ったみたいに、目が泳ぐ。手で何かを掴もうと必死になる、必死に、必死に……すると。
腕を掴まれた。
白い手だ、いや違う、白衣の手だ、白衣の男、男……たち。
俺は数人の白衣の男たちに腕を掴まれて、引き摺られる、両腕を片方ずつ持たれて、抵抗しようにも彼らの力の方が段違いに強くて敵わず、為すがままに引き摺られる、引き摺られる、引き……。
ベッドに寝かされた。
男たちに囲まれて、何事かを囁きあっている。その内容は聞こえない。
目でははっきり男たちの姿が見えるのに、奴らの背後が見えない。暗闇だ、何故ここだけが明るい、おかしいだろう。夢だからか、そうなのか。そう無理やりに納得させようとする、だが空しくも俺は湧いた血に従った、暗闇だと思っていた奴らの後ろの壁に、先ほどの花嫁の姿があったからだ。花嫁は――血まみれだ。俺は興奮する。
(やめろ――やめてくれ!)
俺は叫んだ、声が出ていないのかもしれない、それでも。花嫁は――いばらに絡まれている。壁にもたれ立ったまま押さえられて、それはまるで女神のよう。丸みを帯びたその身体に、痛々しくも棘の刺さった箇所から細く線を流線に描き血が滴り落ちる。美しい長い銀の髪もいばらに絡まり、解くのが困難だ、目は閉じ息は途絶えているのか、確かめに行きようがないんだ、俺はベッドに縛りつけられているから。
何がしたいんだ、奴らは。一体……。
「思い出せ」
俺の傍で誰かが言った。何を。
「お前は玉振ではない」
え?
「犬だ」
どういう。
「狼だ」
どう。
「人に成る」
夢は、そこで終わりであった。目が覚めれば夢の内容は記憶から全て消えていた。
・ ・ ・
変わらない朝が来た。安いアパートに2人は移住し拠点と置いて生活をしている。1919年の第一次世界大戦後のアメリカ産業では、20年代に最高の栄華を誇るバブル好景気、30年代に最低の不景気に見舞われる世界大恐慌の両極端を経験しているわけだが、1920年に75ドルであったDowの平均株価が1929年には380ドル、3年後には41ドルにまで暴落したという。
ウォール街の株価大暴落に起因する恐慌で失業率は30%を越え、又、380ドルという数字は1955年まで元の値には戻せず、大とつく程の恐慌は深刻な事態であった。
2度の世界大戦、資本主義による競争の社会。貧富の差は拡大し、戦時中はドイツ移民に対する差別、ドイツ語やドイツオペラを制限する動きもあったようである。1950年にはニューヨークの人口は770万に達し、以降は、マンハッタンでも黒人居住区であるハーレムや、近郊の区にも多くの市営アパートが建設される。ハーレムなどは60年代の黒人の市民権闘争の後に多く建設されたが、ほぼ低所得者層のプロジェクトと呼ばれるアパートであり、市の福祉が家賃のほとんどを負担していたとされる。
20年代までにイタリア人、ユダヤ人の移民規制があり、欧州からの移民は少なくなって、60年代には欧州諸国を起源とするアメリカ生まれの移民の子孫が人口の大部分を占めた。しかし60年代の公民権運動の一環で移民規制が排除されると、カリブ海の島々から、ドミニカ、ジャマイカ、バルバドス、トリニダードトバコ、タヒチ、キューバ、そして南米のコロンビアなどから、大規模な移民がやって来る。80年代以降で白人の人口が14%の減少、カリブ海諸国系の民族が27%上昇し、90年代に入ればアジア系移民が倍に増加――ニューヨークの歴史を振り返ると、常にマジョリティーとされる多数派の民族がいたのであるが、今日では人口構成が全く変わってニューヨークは、世界中の民族が住む都市、と言われるようになった。
セントラルパーク西側区域には、ジョン・レノンとオノ・ヨーコの住居であるダコタ・ハウスがある。ベトナム戦争の反戦運動が起因でジョン・レノンはアメリカに入国できない時期があったのだが、ニューヨークでもジョン・レノンは反戦を訴えていた。パンク音楽のシド・ビシャスは、チェルシーホテルの住人であった。マドンナは、イーストヴィレッジのライブハウスから活動を開始し、マイケル・ジャクソンのジャクソンファイブは、ハーレムからスタートしているという。
業績と実績のある都市、ニューヨーク。語られるその歴史は年代的には短くとも話はとても長く、尽きない濃密さであった。
時は1968年に身を置く、玉振は朝の支度を終えると、隣の部屋の住居で寝ているレガシィに向けて壁を叩く。薄い壁の為に、物音はよく響き聞こえる。玉振の居る側の部屋の壁にはベッドが置かれて、又、レガシィの居る側にも壁際にベッドが置かれているという構図。音楽などを聴く際にはお互いが騒音などで邪魔にならない様、ヘッドホンをするなど配慮が為されている。2人ともに活動時間が違う為に特に気を遣うことも無かったのだが。
壁の方へ向く。
「……」
体がだるかった、昨夜は、どうしていたのであろうか。記憶を探るが、どうも頭がぼんやりとしていてモヤがかかっている。酒でも飲んだのか、肩でも凝っているのか、疲れているだけなのかは、不明である。
トントン。
再度、壁を叩き、挨拶も兼ねて呼びかける。するとあちらからもトントン、と返ってくる。
「良かった」
この時は妙に安心していた。毎日としていることであるのに。一度部屋を出て隣の部屋に行けば会えるし、何の心配も要らないはずなのに、と、しなくていいはずの不安に支配されていた。「それじゃ、行って来るから」と玉振は出かけた。
寝起きに時間がかかるレガシィを放っておいて、先に店へ。開店の作業が終わる頃にレガシィが遅れてやって来て、一緒に朝食のホットドックを店で食べるのだ。これが習慣であった。
かつては地上を走っていた蒸気機関車も電化による地下鉄にその座を譲り1904年に、現在のラインが開通している。地下鉄は、地主や開発業者の要望もあり、マンハッタンからブロンクス区、ブルックリン区、クイーンズ区まで路線を伸ばし、窮屈であるマンハッタンからサバーバナイゼーションが始まり、 近郊への移住が加速していったとされる。だが玉振は店までに地下鉄は使わず、バスが出ていたのでそちらを利用していた。特に理由は無いが、敢えて言うならば外の景観が眺められることぐらいであろうか。
かなり揺れるが、本を読むことができた。前部の方へ座れた玉振は、片道で1時間程度はかかるのを理由に本を開いた。内容は、「核」について――同時に、昨日のことが思い出されて目に浮かぶ。
(あれは何だったんだ……)
まだ時々に眩暈がしている。整然と書き並べられた実験による統計結果の数々。そして推測、規模、拡散、波及――。僅か数枚の紙に、口外は絶対にしてはならないのであろう情報が詰まり過ぎている。書類は今、手元にはなく男の下に……記憶を辿るしかないが、それが玉振を疲労させていた。
(あれが事実なのだとしたら、犠牲になったヒロシマ・ナガサキは、何て惨い……)
嗚咽が漏れそうであった。思考力が麻痺をしたようで、働かない。玉振は本を閉じた、本棚からひと目で引っ張ってきたのだが、とても今の状態では、バスに揺れながらのせいでもあって酔いそうであった。読書を断念し、窓に頭を垂れて深呼吸をする。「は……」落ち着かせようと試みる。
出版された本に書かれている概要は、こうである。日本、1945年8月6日に広島市、続いて9日午前に長崎市へ核爆弾――原子爆弾がアメリカ軍によって落とされ、壊滅的被害を受ける。それによる、アメリカ側の主張がある。2都市への原爆投下がどんなに悲惨な結果で残酷な行為であっても、これは戦況と史上で、正当なものであったのだとする。
第二次世界大戦が勃発したのは1939年9月、ナチス・ドイツ軍とその同盟スロバキア軍によるポーランド侵攻、又続いてソ連軍がポーランド領内に侵攻したことにより、ポーランドの同盟国であったイギリスやフランスなどまでもを巻き込み対立、ドイツに宣戦布告をして、世界大戦に拡大したのであった。
日本は大戦には初め不介入を示し、イタリアやアメリカは中立、南アフリカやカナダはドイツに宣戦、その後ドイツ軍はデンマークやノルウェー王国に侵攻、デンマークを降伏させ、次にオランダやベルギー王国、ルクセンブルク大公国やフランスに侵攻を開始する。イギリスはアイスランドに侵攻し、ドイツにオランダやベルギーは降伏、ドイツ軍が対フランスで総攻撃を開始する。イタリアがイギリス・フランスに対し宣戦布告をし休戦協定も交えて参戦、ドイツ軍がソ連、ギリシャへと侵攻していくなかでアメリカは、国家非常事態宣言を発令して軍事的援助を行う。
それからは、日本軍のマレー半島上陸および真珠湾攻撃で太平洋戦争が開戦し、日本は、アメリカ・イギリスに対して宣戦布告をする。初め不介入であった日本は1940年の9月に日独伊三国軍事同盟を結んでおり、他国から攻撃を受ける場合に相互に援助すると取り決めがなされていた。及び、この為に日本はナチス党率いるドイツと対立するイギリスやオランダとの関係が悪化し、アメリカのその頃にあった対日感情も悪化することになった。また、ドイツにとっては欧州諸国戦線におけるアメリカの参戦を牽制する狙いがあったらしい。
そもそも、日独伊の三国はイギリス、フランス、オランダ、スペイン、ポルトガルなどに比べると植民地獲得が遅れており、日本は1895年に台湾を併合した他、第一次世界大戦の戦勝国となり太平洋にある植民地の多くが日本の手に渡った結果、ヴェルサイユ条約によって1920年に国際連盟の委任統治領としてグアムを除く赤道以北(内南洋)を託された、しかし1910年に併合した朝鮮の経営に対しては赤字となっているのである。ドイツは第一次世界大戦で30年近く保持していた各地の植民地を失い、イタリアは1911年に初の植民地獲得となっている。
ドイツのヒトラーは、激しく抵抗するイギリス本島の攻略を半ば諦め、主義や思想、地政学的に対立するソ連をゲルマン民族の生存圏の拡大の為に撃破しなくてはならないと考えていたのである。その為、ソ連と満蒙の利権を争っていた日本と手を結ぶことを考え、日本が対ソ戦に参加することでソ連兵力を東西に分断し、戦争を優位に進めることができると考えていた。だがそれはヒトラーの誤算で、日中戦争を続けるための資源獲得を第一優先と考えた日本はソ連との戦争を避け、ヒトラーが参戦を恐れていたアメリカとの戦争を始めてしまうことに至る。
つまりは、これで対立する二極の構図がほぼ出来上がる。大国アメリカと対立関係になった日本は、敗戦までの1945年まで本土空襲攻撃などで苛酷な一途を辿る運命に曝される。
玉振がこれまでに読んできた、戦後にアメリカ人によって書かれた著作物や報道――どれも愛国心という観点で当然だが、アメリカという国の擁護で書かれている。『原爆正当化論』と言われるが、主に挙げると以下である。「100万人のアメリカ兵の命を救う為」「戦争の早期終結」「日本がポツダム宣言を早く受諾すれば避けられた事態」、それから、正当化論ではなく『原爆外交説』というものがあり、「原爆は日本に早期降伏を強いるという軍事目的ではなく、ソ連を恐喝・牽制するという外交目的のためであった」と主張するものがあった。
ニューヨークに身を置く玉振には愛国心、と聞いても他人事のように感じられていたのだが、「戦争の早期終結」という点では深く同意をしていた、恐らく現代の日本人でも、同じような感覚でいる者が戦争を知らない故に大多数なのではないかと危惧もする。
アメリカへの保護、保身、正当理由。当時はインターネットも国民の手には無い為に外部からの情報は届かない、知る必要は無かった、知られると都合は、悪い。
玉振が興味を惹かれたのは戦時の背景ではない、原爆そのものへの関心であった。
「核」と言われると普通は「原子力」を指し、原子核の変換や核反応に伴って放出される多量のエネルギー、又はそのエネルギーを兵器や動力源に利用することを指す。原義的にはウランやプルトニウムの核分裂、放射性物質の崩壊、重水素やトリチウムなどの核融合により放出される核エネルギーのことを指している。
原子力反応により発生するエネルギーは桁違いに大きく、利用については、放射線、放射能を持った物質を発生させてしまうが故に放射線は、その量や強さに応じて生物に対して悪影響を与える為、適切に防護する必要がある、ということからでも、兵器や発電、電池や放射線医学で用いられるだけであった。因みに発電に利用されているのは原子核分裂だけであり、原子核融合によるものは実用化されてはいない。放射線防護についての国際的な研究機関としては、国際放射線防護委員会 (ICRP) が存在し、核兵器の拡散を防止する条約には核拡散防止条約があり、核の平和利用を促進し軍事転用されない為の保障措置の実施をする国際機関には、国際原子力機関がある。
原子力、又は核エネルギーを使った兵器を「核兵器」や「原子力兵器」と呼ぶ。原子爆弾や水素爆弾などの核爆弾や核ミサイル、他には放射能兵器なども含まれるであろう。原子核反応、つまり核分裂または核融合によって放出される熱、爆風および放射線といった高エネルギーを破壊に用いる兵器の総称であるが、原子爆弾、水素爆弾、中性子爆弾等の核爆弾(核弾頭)とそれを運搬する運搬兵器で構成されている、とある。
人類史上、初めて実戦で使用されたのが「リトルボーイ」と称される原子爆弾である。高濃縮ウランを用いたガンバレル型、番号がMark1。「エノラ・ゲイ」と付けられた爆撃機B-29が、8回の訓練の後に神戸や名古屋へのパンプキン爆弾を使用した爆撃や、7月31日にテニアン沖にて原爆投下の模擬リハーサルを行い模擬リトルボーイを投下した直後、本番で、日本の広島市に投下した。模擬リトルボーイについては本番までに、各地で爆撃を繰り返している。
エノラ・ゲイという名は大佐である機長の母の名から取られたものであるらしいが、後世でゲイなどジョークとしても広められている。
並びにシンマン、ファットマン、と爆弾は開発される。「シンマン」はアメリカ民主党のルーズベルト大統領に因み、「ファットマン」は「太っている男性」の意でイギリス保守党のチャーチル首相に因んで付けられる。だがMark2、シンマンに関しては、プルトニウム型爆弾の開発がその性質上の理由により困難とされ中止された為に、Mark3であるファットマンへと移行されたのである。
プルトニウムを使用したインプロージョン方式のファットマン、アメリカ軍の分類番号がMK.3。日本の長崎に爆弾は投下された。構造と、投下された日にちが違うだけで日本という国は原爆を投下されたのであった、リトルボーイはその安全性で問題があり作られなくなったが、ファットマンの方に関しては製造は終結後も続けられ、1940年のアメリカ軍の核戦力を担う。
玉振はアメリカの正当さを信じ、爆弾の開発には是非に自分も関わりたいと密かに思う。それが核で無くとも。
だが。
(事実なのか、本当に。「あれ」に書かれたことが。俺には)
1968年、戦争終結から23年が経過しているこの時に、一般に浸透している説以外には、玉振には知る由も無かった。頭が痛い。
(俺には、分からない)
バスは大通りに差しかかる、店までにはもうすぐと近づいている。
「やあマーキー、お早う」「おう、ギョク。帰り、寄ってかねえか。母親が待ってんだ、お前を連れて来いって」「やめとくよ、お前のとこの爺さん、俺のこと嫌いだろ。日系人だからって」「関係ねえよ。爺さんは放っとけ」
笑いながら手を振って別れる。店までの僅か5分、人の多く行き交う通りを抜ける最中に見知った仲間は声を掛け合う。仲間は玉振と同じくプアワーカーで、それぞれの持ち場についている。マーキーは花屋、白人で10年程前にオランダから移ってきたらしい。鼻の高い筋の通った長身のいい男であった。
「じゃあまたな」
後ろから声を掛けられると、玉振は足を止めずに店へ。表からドアを開けて店に入る、すると。
「よお、先に来てるぜ玉振」
レガシィがカウンター席でレモネードの入ったグラスを片手にホットドックを食べている所であった。玉振は仰け反る。
「レガ……何で」
驚いた。
「何だよ、居ちゃ悪いかよ。煩せぇないちいち」
顎を引きつらせて舌打ちをするレガシィであるが、玉振の心中ではそれ所ではなかった。
「何で居るの。何で。じゃああれは」
身が震えた。ただごとではないと察したのか、レガシィは「?」と口ごもる。
おかしい。店に来る前、部屋の壁を叩いて出てきたが、叩いて返事はきた。あれは、誰が叩いたのか。単純な問題であった。
「あれは、誰だったんだ」レガシィに詰め寄った。
《続く》




