第十一話 知的好奇心/誘惑
【月】地球の衛星であり、太陽系の衛星のなかで5番目に大きい。重力は地球に影響を及ぼし潮の満ち引きを起こす。西洋では人間を狂気に引き込むと考えられ、英語でルナティックとは気が狂っていることを表すという。又、西洋占星術では巨蟹宮の支配星で、感受性を示し、母親、妻、女性に当てはまる。北欧では女性が月を見ることを禁忌とした伝承があり、ギリシア神話の月の女神はセレーネ。東洋では陰の象徴、女性と関連すると考えられていた故、月経と呼び、ネイティブアメリカンには月の模様を女性の顔と見る慣習がある。
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1945年に制定された性病予防法で規定されていたものの一つに「梅毒」という性病があった。性病は花柳界で多く感染する為、花柳病と呼ばれよく古来から詠われていた。性病の感染は、性器内部や周辺、咽喉の粘膜などであり、性的接触もしくは血液感染などが主経路である。これ以外にも母子感染、輸血血液を媒介とする感染もあり、母子感染の場合、子は先天梅毒となる。
梅毒は、スピロヘータの一種である梅毒トレポネーマによって発生する感染症で、日本では、記録上になるが登場したのは鉄砲伝来よりも早く、1512年である。この年に関西・江戸などで大流行した。著名人で言うなら、加藤清正、結城秀康、前田利長、浅野幸長、思想家で大川周明などが梅毒で死亡、発症したとみられており、「鼻が落ちる」と表現されることもある。性感染症であることは古くから経験的に知られてはいたようで、将軍徳川家康は遊女に接することを自ら戒めていた、とされる。
抗生物質のない時代は確実な治療法はなく、多くの死者を出した。慢性化して障害を抱えて苦しむ者も多かったのだが、現在ではペニシリンなどの抗生物質が発見され、早期に治療すれば治るのである。だが梅毒トレポネーマは抗生物質への耐性は獲得してはおらず、罹患患者も減少はしているが、決して根絶されたわけではない。
その発症原因やルーツ、歴史には諸説があるが、コロンブスの率いた探検隊員がアメリカ上陸時に原住民女性と性交感染し、欧州に持ち帰ったことで後に世界中に蔓延してしまったとする説が一般視されており現在最も有力な説である。
梅毒の症状期は大きく4つに分けられており、感染後3カ月以内であれば陰部にしこり、潰瘍ができ、以降であれば全身の皮膚に紅斑(ばら疹)や膿疱ができる。これが3年以降になると臓器、筋肉、骨に結節やゴム腫が生じ、10年以降ともなれば中枢神経系と循環器系を中心に全身が冒され麻痺や痴呆、精神障害にまで進行する。
16世紀の欧州で蒸気の吸入や軟膏の塗抹などによる水銀療法が用いられたが、これにより多くの水銀中毒が出た為、当時は危険な治療法であった。日本では杉田玄白やシーボルトらが記載しており、治療にヒ素剤も一時使われたが、どれも副作用がある為に危険で、以降に使用はされていない。又、梅毒トレポネーマは高熱に弱いからと患者を意図的にマラリアに感染させ高熱を出させ、体内の死滅を確認した後にキニーネを投与してマラリア原虫を死滅させるという非常に荒っぽい療法がかつて行われていたが、大変に危険である為に勿論のこと、現在では行われてはいない。
予防としては、確率的ではあるが不特定多数との性行為の自粛、又、コンドームの着用により病原菌の人体間の移動を阻止することで防ぐことが考えられるが、他に口から口へという経路でも感染があるので、確実な予防というものは風邪と同じく、無いのである。
そして梅毒の潜在的な感染例はデータ上で見ると、減少してはいない。
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かつて人類の夢は月への旅であった。空にはまだ、誰の所有権も無い月が美しく輝いている。
月日はたゆみなく経ち、アメリカではジョンソン大統領がドル防衛を声明し、アラブ石油輸出機構――通称OAPECが結成され、ベトナムでは解放軍がテト攻勢を開始した、この時サイゴンなどが戦場となり米国大使館が一時占拠された為、米国はベトナムでの軍事的勝利を断念した、とされている。
1968年3月末。大統領は北ベトナムへの爆撃の部分的停止を一方的に宣言し、和平交渉を呼びかけ、4月には黒人運動指導者であるキング牧師が銃で撃たれて死亡した。
厳しい情勢ではあるさなか、これらのことは玉振たちが、居住を移しアパートを借りて暮らしを始めた数年、それから又、数年後のことである。
玉振は見た目にはほとんど変わりはなく、勉学に勤しみ、アルバイトは続けてはいたが皿洗いだけではなく店の厨房のほぼ全てを任されていた。それで今日も朝に起きて着替えると、鞄に必要な物を詰め込み肩から提げて、薄い壁一枚を隔てた向こう側へトントンと手で叩き、挨拶をする。
「行ってくるよレガシィ、調子はどうだい」
直ぐにトントン、と壁を叩く音がした。合図であった。
「じゃあね、行ってくる」
履き慣れた靴を履いていつもの通りに出かけた。
安いアパートは主人の紹介、主人――店のマスターは、奥さんと離婚し独身にはなってしまったが、再婚して幸せに暮らしている。経済的には上手くいっているようで、俺ひとりくらいなら何とでもなるようだと玉振は彼らを頼っている。前に居た廃ビルに比べて距離が近くなってから通うのが随分と楽で、覚えてバスに乗りながらパンを齧って店へと向かった。バスには隅の席に黒人の子が居て、からかわれていたりする。玉振が来て傍に立つと、バスは停留所に到着、からかっていた子たちがバスを降りていった為、席の隣に玉振が座った。
アパートにはテレビが無くラジオがあるので最低限の情報はひとまず得てはいるが、本を借りて読んでみても学校で授業を受けてみても、差別に答えは無い。
(教師にでもなろうかな……)
牧師には直接興味がないが、宗教学や地理学、そして科学には惹かれていた。金が基本的に無く本でも買おうものなら生活面で圧迫、貧困でどうしようもない時期も過去にはあったが何とか乗り越えて今に至る。マスターに相談したおかげで金銭的な援助がありそしてツテを辿り、必要である物資を手に入れることができ、かなり助かった、いずれこの恩は返すつもりで、玉振の目には翳りが全く無い。
気がかりな問題があるとすれば、それは……。
次の停留所へ着いた、考えていたことが遮断され、玉振はバスを降りる。隣の席に居た子も一緒であった。
歩いて5分程がかかる場所、マスターが再婚してから一度、店は改装して雰囲気は微妙だが変わった。外観よく花が植えられ、店内ではビートルズなどのレコード音楽がかけられて、壁にはオルゴールではなくタペストリーが飾られた。奥さんの方が信心深く、フランス製だと言って買ってきたタペストリーには月の世界が描かれていて、神秘的な力がある。
玉振が店に表から入ると、開店前であったはずだが、先客が居た。まさか客が居るとは微塵にも思わず初め驚いたが、「ハイ」と普通に挨拶をした。
「ハロー、君がギョクシン。話には聞いた」
英語に訛りがあったが通じた。だが、何のことなのかが玉振には分からなかった。
「ええと、どちらさん」
「失礼、僕はアーゴリー。アーグって呼んでくれ」
カウンターの真ん中でグラスを片手にアーグは微笑みかけた。まあ座れ、と隣の席へと促す。言う通りに玉振が座ると、「仕事があるんで、手短にお願いします」と予め断りを入れた。
「真面目だね。成る程、聞いてた通り聡明そうだ。僕は古くからのマスターの友人でね。ドイツに長年、滞在していたんだが、今度こっちで研究することになって家を探してる。それはいいんだが、それよりも、助手が足りなくてね」
アーグはグラスの水を飲みほした。カラン、となかの氷が音を立てる。
「助手?」
「ああ、研究の方でね。組織的にはデカイから、人欲しけりゃ申請すればいいんだろうけど、でもな……」
深々と溜息をつく。玉振はちらちらと近くに置いてある時計が気になった、仕事に実直で誠実な玉振には、一秒でも無駄は省きたかったのである。
「他人は信用できませんか」
思いついたように指摘した、図星、それにアーグは驚く。「参ったな」
「何の研究ですか」
「まあ待て、そう急ぐな。簡単に説明できる話でもないんだよ。分かった、今度ゆっくり」
「お願いします。ですが、大体の概要だけでも教えてくれませんか。研究、だけでは。研究、といってもそれは物理学なのか化学なのか生物学なのか地学なのか天文学なのか、社会、経済、法学、政治学、民俗学、考古学、宗教学、文学、倫理学、心理学、言語学、哲学、農学、医学、薬学……どれですか。まだありますが」
流暢に話す相手に圧倒されて、アーグは冷や汗をかく。降参したように手を挙げた。
「化学……と、政治」
聞いた玉振の眉がピクリとつり上がる。アーグは付け加えた。
「ま、科学。学問だね」
アーグは手帳を内ポケットから取り出し、ペンで何事かを書いたあと、紙を破って玉振に渡した。受け取ると玉振は変な顔をする。
「君には期待しとくよ。こんな所で腐る器でもない。暇があったら来て。番号」
忙しくアーグは立ち上がって、横に置いておいた上着を持って店を出る。「邪魔したね」
からん、とドアに備え付けたベルが鳴る。アーグが立ち去った後、奥からはマスターが遅くもやって来て、「何だ帰っちまったか」と舌打ちした。「あれ誰。マスターの知り合い?」
「まあな。ろくに連絡もよこさないクールガイだが、お前をひと目見て気に入ったそうだよ。何かしたか」
聞いてますます訝しがる玉振であったが。
「いつ来たんだろ。前に来た客だったのかな。仕事の助手を探してるって」
マスターがクールガイと言ったが、玉振にはそうは思えなかった。
年の頃は30代か、40歳にも差しかかるであろうか。玉振は、自分が何歳であるのかが明確ではない、従って誕生日も無い。それどころか、ニューヨークへ来て生活を始めてから間もなく20年は経とうとしている。今は1968年、大統領選で世間は賑わい、北爆への関心が高かった。
北爆停止へ向けて動きを見せたのは3月の終わり頃であったが、それは直前に起きたソンミ村の虐殺事件のせいである。ベトナムのソンミ地区に入った米陸軍が老人や婦女子ばかりの農民160人を虐殺し、その虐殺された農民の写真が公開された為に米国内に衝撃を与えて、責任者であるカリー中尉は逮捕されて軍法会議にかけられ終身刑となったのである、3月は旧暦で辰の月、余談だが3月27日、世界初の有人宇宙旅行を成功させ、「地球は青かった」で知られるソ連のユーリ・ガガーリン大佐が、飛行中の墜落事故で34歳の若さで亡くなっている。
アーグが言った、自らが行っている研究の分野が、化学、そして政治……と。
科学。知的好奇心が旺盛であった玉振には、大変に魅力的であった。
「ただいま」
玄関のドアを開けると、顔色のいいレガシィが起きてきて玉振を迎えた。「おけぇり(お帰り)」今日はすこぶる機嫌が良いらしく、鼻歌まで歌っていた。
「何かいいことがあったの」「別にィ」「嘘。どうせ上手い話にでも乗っかってきたんじゃないの」「どき」
買ってきた物を台所に仕舞いながら、レガシィに呆れ顔を披露した。「何言われたの」鋭い目で睨む。レガシィは口笛を吹きながら目を逸らしていた。「まあいいから。それよりよ、飯にしようぜ。お前の料理は天下一品、いい嫁を持ってオラぁ幸せなんだ」勝手なことを言い、玉振はぷくーと頬が膨れた。「危ない橋は渡るなって何度言わせて何度怖い目に遭ったら気が済むのさ。もう誤魔化されないからね。いいトシなんだから素直に吐いてよ、レガシィ」と困った顔をした。
反論する。
「そういうお前こそやけに口達者じゃねえか今日は。何だ、いい女でも引っかけたか。勉強ばっかでよォ、てめぇこそいいトシなんだからもっと遊べコラ」
背中を掻きながら床に座った。どうやら素直に吐く気は全然と無いらしい。玉振は諦めて、深い溜息をつく。「知らないから」拗ねて、調理を始めた。これは日課である。
廃ビルで生活していた時は、金も無く、調理器具も限られていて、不便であることこの上無かった。それに知識も経験も無かった、もしあれば少し違っていたであろうが、金が貯まるまで不便であるのは辛抱である。
住居が変わり、生活は変わった。清潔ではあるし、よく眠れるし、知りたいことが知ることが出来る。社会情勢や人権問題、物の使い方、原理原則、人にも慣れた、隠れた裏のことも……。
生活に不可欠なことをたくさん覚えて、玉振は変わっていった。最初に与えてくれたのは、レガシィ。レガシィなのだと――。
「んあ?」
ナイフを持ったまま手を止めて、レガシィの方を見た。
「ううん、何でもない。勝手にどっか行っちゃわないでよ? レガシィ、頼むから」
心配なのは本当であった。他人の抗争や喧嘩の仲裁に入ったこともある、暴力は嫌いだが、話し合いで通用する相手では無い場合、仕方がないのでこちらも手を出すが、幸いなことに負けたことが無かった。素手と威嚇だけで何とかなってきた。何とかなったがでも次は、ラッキーが無いかもしれない、玉振は常々不安であった。
「おめえの世話にはなんねえよ。偉ぶりやがって。安心しろ、お前をひとりにゃしねえよ」
機嫌を損ねたのか、レガシィはゴロン、と横になった。ムカついたら直ぐこれだ……玉振は目をこすり、野菜を切り始めた。オニオンが目に染みる。
玉振がいつも気になっていたのが、レガシィにある目の上のたんこぶであった。
仕事が休みの日になった。玉振は、荷物を纏め、郊外へ出かけた。出る前に遅くなるかもとレガシィに言い残して、アーグにもらった紙をしっかりと持って出かけた。地図によると、指定された場所は郊外よりもニューヨーク市を出て直ぐ北、ヨンカーズ。今に居るR&B歌手のレディー・ガガの出身地として知られる市であった。
勘を頼りに向かいホテルを探し、アーゴリーという名でフロントの男に訊ねると、直ぐに内線で繋げてくれて部屋番号を教えてくれた。階をエレベータで上がり部屋に着くと、出会った時と変わらない、Yシャツを着てネクタイを締めた男、アーグが愛想の良い顔で部屋に通してくれた。
「さあどうぞ、期待の星さん」
話は早速と、玉振は遠慮なくソファに腰かけた。
ネクタイを緩ませながら「酒は」と聞いていたが「結構」と断り、「水でも」と言われて頷くと、コップを用意しながら話は始まった。
「今後、連絡は後から教える暗号で願いたい」
「暗号?」
「暇な時に作っておいた暗号でね。役に立つ。アナグラムとモールスを合わせただけの簡単な暗号なんだが、後で表を渡す、暗記したら捨てるように」
軽く言っていたが、玉振はOKした。「それで?」話は続ける。
「機密に値する。念は3度くらいでも構わない。ここも安全じゃない。君が来たら明日はもうチェックアウトするつもりでいたよ。後で教える」
ふうん、と、ただ聞いていた。
「ここへ来た以上、もう後戻りは出来ないと思ってくれ。では」
アーグは、鞄から紙を数枚、テーブルに広げた。図と、グラフと、文字がビッシリと連なった、データ結果か化学用語がふんだんに使われている内容であった。すらすらと読むことが凡人は困難である。「目を通して」言われずとも、玉振は表記を上から順に目で追っていた。暫しの時間が経過する。読むのに必要な時間、速読であっても不可欠な現実時間である。
生唾を飲んだ。音が聞こえた、一気に緊張感が増す、漏れた言葉がまずはひと言である。
「核……」
愕然と。
「爆弾。何処で……」
回転は早くに、頭のなかを文字巡る。
紙を持つ手が震えた。
「ネバダだ」
落ち着いた声であるが衝撃が強かった。「そんな」声が震えた。
「お前が指揮を執るんじゃない。政府だ。言ったろ、後戻りは出来ないと」
アーグの放つ言葉は全てが刺さる。「おかしい」紙から離れて、頭を抱えた。
「飲め」
差し出されたのは、水の入ったコップであった。紙をテーブルに置き、コップを受け取ろうとすれば、手がガチガチと大きく揺れているのが丸分かりである。何とか受け取り水を飲むが、生きた心地はしなかった。
「資料を見て、知ってる。日本の、ヒロシマ・ナガサキだ。私は――」
何度も落ち着こうと、頭を振った。
「無理だ。協力できない。とても」
「落ち着け。いきなりではそうだろう。だからここへ呼んだ、それに、まずは君を試したんだ。それについては、すまない」
玉振が顔を上げると、真剣にこちらの様子を窺っているアーグの目と目が合った。
「この資料、君に理解できるかどうか。普通なら読めるはずがない。専門用語並びに高い知能レベルでないと解釈も難しい。君の口からそれが第一に出たということは、余計な時間つまりは説明も不要ということだ。助かるね。何故なら実験内容全てはその渡した資料に書いてあるわけだから」
アーグは満足そうであった。宝を見つけた探険家に似る、目が輝いていた。
汗をかいて、熱が出てきたようで、気分が悪くなってきていた。ソファへと体を預け、深呼吸をする。「はぁ、はぁ、は……」乱れた呼吸を整えるが精一杯であった。おもむろにアーグが近づく、そして耳元で囁いた。
「待遇は一生、保障する」
近づいた時に、腹に感触があった。直ぐに察した、アーグの指である。片手で銃の形を作り、顔は玉振に向けられてはいても、その片手は玉振の腹にグッと刺すように押さえつけられている。甘い言葉に玉振は失禁しそうになった。
「今日は帰り給え……又にしよう。疲れたろ?」
アーグを何処まで信用していいのか分からなくなった、いや、初めから半信半疑であった、後悔と焦り、誘惑、支配。脱力しきった体に、心臓が痛くなって、玉振は気を失った。
「迎えをよこす。いや、送ろう。調べはついてるからな、『玉振』。だが……」
反応の無くなった玉振を眺め、腑に落ちない顔をした。
「調べても、身元が……ニューヨーク以前の身元が割り出せなかったが。お前は……誰だ?」
お前は。
誰。
謎は……残る。
《続く》