第十話 野性
【パトロン】芸術家、芸人などに経済的援助をする人、後援者のこと。水商売の女性など特定の人に投資する、の意でも使う。ラテン語のパテル(父)から派生したパトロヌスに由来する。英語では政治家の活動を支援する資産家や企業のことも指し、歴史上で支援者として有名なと言えばアレクサンドロス大王、メディチ家、ロックフェラーなどが挙げられる。
・ ・ ・
モノクロであった世界が変わる。白と黒しか存在しないと信じていた未来に、色が与えられる。それは、赤か、青か、黄色か、緑か、それとも。
どんな色でも、加えて、加えて、加えれば、結局は――。
モノクロになる。
いつも通りの朝が来た。廃墟のビルに住み始めて暫く、今にも壊れそうなベッドの上で、彼は眠った。毛布は一枚、稼いだ金で買うことが出来た。皿洗いのアルバイトを始めて、初めての給料で買った。金で物を買う、これが社会の「仕組み」なのだと彼はしっかりと理解した。だとすればもっと働けばもっと金がもらえるのかとマスターに聞いてみると、大笑いして「そうだ」と言った、何故笑われるのかが解らなかったが。ともかく彼――玉振は、皿洗いではあるが一人前として認められ、アルバイトは続けることになる。
一方で、玉振はレガシィについて気になることがあった。レガシィのおかげでホットドッグ屋で働くことが可能になったわけだが、働いているその間、レガシィは何処で何をしているのであろうか、と。
アルバイトの初日だけは閉店後に玉振を迎えに来てくれてタクシーを拾い、ひとりで帰った。夜も明るいウォール街の道をレガシィはふらふらと出歩き、何処かへと消えて行った――そして、朝になって起きてみれば、ちゃんと帰宅して寝ている。残念ながら迎えに来てくれたのは最初の日だけで、翌日からは朝、一緒に店でホットドッグを食べた後からは別行動で、夜に帰宅するまでは会うことはない。しかも、バイトが終わって玉振が帰宅しても、レガシィが不在であることもあるのであった。
「なあ、レガシィ」「何だよ」「何でもない」
何度も聞こうとするが、やめる。聞けば怒られてしまうのではないかと、玉振に得も言われぬ恐怖があったらしい。レガシィは気分屋で、機嫌がいいとよく話しかけてはくるが、反対に機嫌が悪いと自分だけさっさと寝てしまう。レガシィなりに自分の性格がよく分かっていて、玉振に当たらない為に故意にそんな態度でいるのか、それとも、眠いから寝てるだけにすぎないのであろうか……いずれにせよ、過ごしているうちに、玉振にも相手の扱いが徐々に分かってきたのである。
「レガシィ、朝だよ」
太陽が堂々と真正面から見える窓。強い光が入ってくるので、カーテンの代わりに洗濯物を吊るしておいたのだ。レガシィの汚いパンツやバイトで使うエプロンなどが上手く遮光してくれていた。因みに洗濯は玉振がレガシィに教わって毎日している。
「ういー、もうちょっと寝る。先に行け」
「でも」
「夕べは飲み過ぎた。先に行けよって、遅れっぞ」
渋々と、玉振は引き下がる。「じゃあ行くからね。後で来てね」と言い残し、玉振は着替えて用意をし廃ビルを出た。
こんな毎日。不自由はない。あるとすれば、バイト先の店に着くまで歩いて2時間はゆうにかかってしまうことぐらいであった。しかし玉振には大した苦痛でもないようである。普段いつも朝食だけは一緒で連れ立って行くのだが、レガシィも何故か文句を言わなかった。
遅刻せず、午前中に店に着きマスターに挨拶をすると、いつもならそのまま厨房に入って棚から皿やコップ、スプーンなどを出して準備をするのだが、この日はマスターから別のことを言われる。
「今日はお休みだ、玉」
キョトンとした顔で、エプロンを着けようとしていた玉振の動きが止まる。「お休み?」鸚鵡のように聞き返した。
「毎日来てくれてっから、今日は特別にお休み。働かなくていいから、外行って遊んでこいよ」
そんなことを言った。「でも」困った顔をした。「いいから、行ってこいって。女の子でも引っかけてこい」マスターは笑いながらエプロンを取り上げて、ポーイ、と奥の部屋へと放り投げる。
ここでも渋々と、玉振は従った。
マスターの厚意ではあったのだが、急に自由を与えられて玉振は何をしたらいいのかが分かっていない。ストリートを抜けて辿り着いたのは、広い公園であった。まだ昼前、居るのは母子といった家族連れや、のんびりとベンチで昼寝をしているお爺さん、犬の散歩をしている人など。のどかな光景であった。
ふと、主人と仲良く並んで歩いている犬と目が合う。「……」
気にはなったがそれまでで、犬は興味がなさそうに歩いて行く。玉振は行く場所が思いつかなくて、来た道を戻ろうか、店へと戻ろうか、さては家、いや、廃ビルに戻ろうかと考えて公園を出た、すると。
(あれ……)
公園にまで来た道、主要道路にも繋がる道で、かなり遠くではあったが目がいい玉振は、覚えのある人物を発見した。ちょうど自家用らしき黒のボディをしたディーゼル車に乗り込む所で、いつもツナギか囚人服みたいな服を着ている、レガシィであった。ひとりではなく誰かと共に居る、まるで連行されるかのようにも見え、まさかと思った。「レガ――」手を上げて呼ぼうとしたより先に自動車は発進し去って行った、慌てて玉振は周囲を見渡し、ラッキーなことに一台のタクシーを捉まえる。
バタン、と乱暴にサイドドアを閉め、「あれを追って!」と指をさし前方で去って行く車を追うように運転手に言った。
車を追ってどれくらいが経過したのか、数十分程度であったのかもしれないが、街からはだいぶ離れて空き地の多い雑把な所へ到着した。会社の所有する倉庫街が隣接し、空き地に車は停めて、近くの物陰となる所にタクシーを停めてもらった。そして金を払いタクシーを引き払った後、ゆっくりと、気配を殺して物陰から様子を窺った。玉振は相手からでは見えにくいであろう距離を保ち、耳をすませた。玉振は耳も良かった、懸命に音を拾う。
「……調子こいてんじゃねえぞ、てめぇ!」
耳をすます必要も無かった、相手が大音量で声を張り上げて叫んでいた。相手の方が背が高く、レガシィが小さく見える。人数が一人ではない、3人居た。どれも男で、半袖のシャツやジーンズ姿、年齢でいったらレガシィよりは若干若いのであろうか、レガシィが奴らに囲まれている。
「ジェシーは渡さねぇ、手ェ出すんじゃねえぞコラ!」
明らかに喧嘩であった。3対1の、罵声が飛ぶなか、圧倒的に不利なのは目に見えている。それが分かった時、玉振の身がフェンスを越えて飛び出すよりも先に、レガシィは向かい立っていた一人に膝蹴りをくらい、前へ蹲って倒れそうになった。それを背中で服ごと引っ張ったのが一人、横から、何処から拾ってきたのか鉄パイプのような物で殴ったのが一人。
殴られた後で遅かったが、レガシィが倒れたと同時に玉振が奴らの前にはだかり、目を吊り上げ睨んで歯をむき出し、威嚇した。
突然に現れた玉振、男にレガシィを囲んでいた3人ともは驚いて数歩引き下がったが、人数では負けるはずがないと思ったのか、鉄パイプを持った男が先陣を切って玉振の前に出た。「死ねやウラァ!」
右利きの男は右から。正面にパイプを振り下ろす、意外なことに、玉振は体で避けず片腕でそれを受けとめた。腕の下から、鋭い眼光で相手を睨んでいたまま視線を逸らさなかった、見られた相手は寒気がした。「何じゃコラぁ!」「殺れ!」
「殺っちまえやオラァ!」
今度は3人同時に飛びかかる。一人はパイプ、あとは素手であった。まずは玉振、右手で右方向から来る相手を鼻の上から突き飛ばす、そのまま沿った体を右に向け、回転しながらも左の足で2人を腰の高さからで一気に蹴飛ばしていった、見事全て命中である。
「ウガァアアア!」
鋭く尖った牙が見えた、攻撃をかわされ吹っ飛ばされた3人は信じられないものを見た顔で地面に倒れたまま後ろに下がる。「ひ」
ころん、鉄パイプが軽い音で転がっていく。3人のうちの一人が恐怖で耐え切れなくなったのか、よろめきながらも何とか立って、走って逃げ出した。「待てよ!」「ひいい!」
後を追いかけて仲間の2人も逃げ出した。
車に乗り込みエンジン音がして、バック、ブレーキ音がして、車は倉庫街を滑走し去ってしまった。
静寂が訪れた頃合に、レガシィの唸る声が聞こえる。「うぅ……」玉振は一変して穏やかな表情に戻り、レガシィに駆け寄った。「レガシィ、平気!?」至近距離で顔色を確かめている。「すまねぇ、やられちまった……」後頭部と、腹を押さえながら痛そうに縮み込んでいる。
「歩けるのレガシィ。どうしたらいいの」
「お前はケガないか」
「どうだっていいんだよレガシィ。どうしよう、どうしたらいいんだ、レガシィ……」
気がつけばぽろぽろと真珠のような粒の涙が出ていた。自分のことよりも相手のことを気遣うレガシィの優しさに、涙が勝手に出てきてしまった。口が切れて血が滲んでいる、涙でよくは見えなかったが玉振は指でそれを拭ってあげた。
「よせよ、いいから」
「嫌だこんなの。何したのレガシィ、何で襲われたの」
「まぁそれはそれは、話せば長く難しい旅になるだろうから」
人の女に手を出した。恐らく玉振以外の全員が知っているであろうが、レガシィは誤魔化した。
「とにかく帰っぞ……痛ぇ」
ふらつきながら立ち上がると、玉振の方へ倒れかかる。玉振が受け止め、肩を貸した。「歩ける? ……」
救急を呼ぶという発想が玉振には、無い。かろうじて、倉庫街の表の方へ出ると管理人とたまたま出くわし、直ぐに救急を呼んでくれたのである。
検査を受けて一日入院するとレガシィは廃ビルへ戻って来た。「ただいま」ドアは、初め蝶番が錆びて取れかかっていたものを修繕し閉まるようになった。「おかえりー」出迎えたのは笑顔であった玉振で、笑うととても大人には見えづらい。未成年に思われた。「やべえ」と、レガシィはドアにへばりつく。
「何が」
「いや。話せば一時間くらいかかるから」嘘もレガシィには方便である。
「パンを買ってきておいたんだ、食べる?」
包装されたパンを差し出した。「おう」有り難く頂戴して早速と口に放り込む。
2人の間で何かが変わった。距離が短くなったような。
「今日はバイトどうした?」「休んだよ。訳を話したら直ぐOKさ。いい人なんだ、本当に」
「そうか。悪ィな。宜しく言っておいてくれ」
「うん。そのパンも、持ってけ糞野郎って」
和みの時間は過ぎる。
「ねえレガシィ」「何だ」「あのさ、ずっと聞きたかったことなんだけど……」
ベッドの上で正座をし、俯いて、ためらった。今まで抱え込んでいたものが吐き出される。
「私の居ない間は、何してるの?」
玉振が働いている間と、夜の時間。深夜に帰ってくる時が主だが、朝になる時もある。レガシィの行動については、皆目見当がついていなかった。
黙っていたレガシィが一声で出たのは質問の答えではなく。「あのよぉ」「え?」
「お前って、男だよなぁ一応」
質問であった。
「そうだよ。今更何」
眉をハの字にして項垂れた。
「じゃあ俺、って言ってくれよ。でないと、何か照れる」
本当に困った顔をしていた。「分かったよ。じゃあ俺」「よし」「質問に答えてよ」玉振は少し怒りながら訴えた。
「ガキは糞して寝ろ」
そう言うと、床で横になり玉振には背を向けてしまった。
(何だよ、レガシィのばか)
機嫌が悪くなると寝てしまう。それはもう知っていた。
結局、振り出しに戻る。
深夜0時。
明るい街も、法の下より従うべし。だが暗闇には逆らえず、夜は大人と悪魔の時間である。
「タクシー」
わざわざ呼ばずとも、黄色い車体のタクシーは、何台も道端で停車している。人気が無くて静かなのかと思えば、決してそうではない。人は居る、林に隠れて疎らに、コートに身を包んだ女性、化粧を完璧にこなした女性、露出が激しい女性、2人並んでこっちを眺めている女性、煙草を吸っている女性、女性女性女性である。
一台のタクシーは一組の男女を迎え入れた。夜に相応しく静穏に発進する。タクシーが向かう所は闇の中、疲れた男女の華美なる快楽が待っている。だがレガシィの場合は――。
「あ、ぅ……」
金を女に掴ませて、男「が」体を売った。「あ……」どちらでも同じであろう。
もしも全てが野性であれば。世は、混沌になってしまうであろうか。個、そして孤の自由は、一体に何処までと、嘆く獣――。
朝方に帰ったレガシィであったが、玉振が起きると既にレガシィは起きていた。
「あれ? いつ帰った? 寝た?」
「いんや。起きてた。横にはなってたけどよ」
ベッドの脇でレガシィは玉振を見ている。「何か用だったの」と聞いてみた。
「たまには……外で飯食うかなと」
ブォリブォリと頭の毛を掻きながら、一緒に腹も掻く。臭い息を吐いた。
「しょっちゅうホットドッグ一緒してるじゃない。違う所に行きたいの?」
「たまにはいいじゃねえか、たまに」
「いいけどさ」
レガシィの手には現金がしわくちゃに握られていた。金は金、レガシィはポケットにそれを仕舞う。「あてててて」腹に痛みが、まだケガは完治していなかった。
「家で大人しくしてなよー」
服を着替え始めて、用意する。
《続く》




