無常堂夜話【15】人の嫉みの物語:後編
さらわれた戻子を取り戻しに、空と安奈がイシュテリアの本拠へ乗り込む。
悪魔の眷属との戦いには決着がつくのか。そしてその陰に見える新たな疑惑とは?
起・救出と捕縛
「……我が背よ、イシュテリアは巌命が連れ出しました。一条殿を救い出し、『イシュタルの軛』を処置するのは、今を措いてございません」
その場で待機していた川津媛は、ソラを見てそう言う。少し呆れた表情をしていた。
「……イシュテリアの力は一度見たことがありますが、よく場を混乱させずに連れ出せたものですね? 巌命はどんな手を使ったんですか?」
ソラが訊くと、川津媛は
「こっちの世界で俗に言う『ナンパ』ですか? 巌命は美人と見ればどんな相手だろうが躊躇なく口説くということがよく判りました。
それはそうとして、あの家に突入しますが、恐らく罠も仕掛けてあることでしょう。その辺りの処理は、安奈さんにお任せして大丈夫でしょうか?」
呆れ顔でそう言う。安奈は一軒家を見つめていたが、にこりと笑ってうなずいた。
「うん、任せて」
そう言うと、ダンプポーチから十字架を取り出す。そしてそれに向かって一心に祈りを捧げていたが、しばらくすると顔を上げ、
「……うん、精霊たちが罠のある場所を特定してくれた。安心して乗り込めるよ。くうちゃん、もう一度『縮地』を使ってもらっていい?」
そう言う。
「分かった。どこに開けばいい?」
ソラが訊くと、安奈は躊躇なく、
「玄関ね。奥の部屋に地下室への入り口があって、戻子ちゃんはそこに閉じ込められているみたい」
そう答える。
「根田見の位置は判るか?」
「……えっとぉ、奥の部屋に居座っているみたい。『イシュタルの軛』は、別の部屋にあるわ。一緒の部屋に持って行ってくれてれば楽だったのになぁ」
ぼやく安奈に、ソラは真剣な顔で訊く。
「魔導書の回収を精霊にお願いできないか?」
「うーん、魔導書の波動は精霊さんたちに合わないみたい。っていうか、清浄な霊的存在が手に触れると、それだけで浄化されちゃうんだよね。
つまりは、くうちゃんの眷属やうちの精霊さん、それと川津媛のような神様が触れたら、その時点で根田見の魂は地獄行き決定! ってなっちゃうの」
安奈の答えに、ソラはすぐさま決断した。
「分かった。じゃ、安奈は突入後、すぐに『イシュタルの軛』の回収に動いてくれ。回収したらぼくたちに合流するんだ。
ぼくは奥の部屋に進んで根田見を拘束する。瀬緒里さんはここで待機していてください。どんな不測の事態が起こるか分かりませんので」
瀬緒里はソラの言葉に少し不満そうな顔をしたが、嗜みよくそれを口にすることはなかった。
「分かりました。お気をつけて」
俺は、イシュテリアが出かけた後、地下室から出て論文に取り掛かった。想い人は今、自分の手の中にある。それに、戻子さんは俺のことを怖がってはいるが、決して嫌悪感が勝ってはいないようだ。
世の中には、『力ずくで解らせてやればいい』という男もいると思うが、俺はその意見には賛成しない。やはり、相手に好きになってもらったうえで関係を結ぶ方が、その後の交際においても絶対に良いに決まっている。
それに、ここまではイシュテリアとか言う『悪魔の眷属』とやらの力を借りたが、これから先は、媚薬やらなにやらの力は借りたくない。俺だって男だ、好きな女は自分の魅力で振り向かせたい……そのくらいのプライドはある。
「……そう言えば、戻子さんは退屈していないかな? 本くらいしかない部屋だし、地下室は気が滅入ってしまうかもしれないな」
俺はそう思ったので、戻子さんをこの部屋まで連れてくることにした。俺も少し息抜きがしたい。二人で映画でも観ようと思ったのだ。
……考えてみれば、この行動が結果的に俺自身を救い、さらには俺自身の評価を最悪までは墜ちさせなかったのだと思う。
俺は、地下室のカギを開け、ドアをノックする。
「どうぞ」
俺がドアを開けて室内に入ると、戻子さんは思ったより落ち着いていた。俺を見て表情を引きつらせたりも、騒いだりもしない。俺のことを信じ切っているんだとすれば、そんな純真な女性に酷いことはできないじゃないか。
俺はできるだけ優しい顔をして訊いた。
「戻子さん、退屈じゃないか? 一緒に映画でもどうかな?」
すると戻子さんは、ちょっと俺を警戒する目で見て答える。
「……変なこと、しませんよね? 根田見さんのこと、信じていますから」
こう言われて、変なことを考えても行動に移せる奴はいないだろう。俺もそうだった。
「あ、ああ、もちろんだよ。約束する、君が嫌がることはしないって」
俺がそう言うと、戻子さんは少し微笑んだ。か、可愛い、可愛すぎるっ!
「……分かりました。じゃ、ここから出てもいいんですよね?」
「もちろんさ。上でしかビデオは観れないだろう?」
俺がそう言うと、戻子さんは少し微笑んで立ち上がる。女神のようなその姿に、俺は思わず彼女を押し倒しそうになったが、ぐっと我慢する。
(くっ! 俺は紳士だ。彼女が恐怖心を無くすまで、優しく丁寧に扱わないと……)
「じゃ、階段に気を付けて。お茶やお菓子も準備しているんだ」
そう言いながら、俺は戻子さんの先に立って階段を上る。そこに、あいつが現れたのだ。
俺が地下室から上がって来ると、部屋には丸顔で人のよさそうな顔をした男が立っていた。天然パーマの髪の毛が白髪だらけだったので、一見老人のように見えたが、声やしぐさは若々しかった。
「な、何だ貴様は!?」
俺が驚いてそう叫ぶと、そいつは落ち着いた声で俺に笑いかける。
「おや。ぼくには一条さんをだまして監禁している人間から、貴様呼ばわりされる覚えはありませんがね?」
そいつがそう言った瞬間、俺は床に抑えつけられ、後ろ手に腕をねじりあげられていた。何が起こったのか、まったく理解できなかった。
「痛たたた……」
「君も、自分がやっていることが犯罪だと分かっているだろう? 戻子さん、救出が遅れて済まない。無事だったか?」
「はい、大丈夫です。閉じ込められた以外は、暴力や脅迫もされていません」
戻子さんのこの言葉が、俺を救ってくれたのだと思う。俺を抑えつけている男は、少し優しい口調で言った。
「紳士的な振る舞いが、君を救ったみたいだな。その調子でぼくたちに協力してくれ」
俺が、
(協力とは何のことだ?)
と思った時、ドアの向こうから若い女性が入って来て、男に言った。
「くうちゃん、『イシュタルの軛』は見つけたよ。
この人が持ち主? じゃあ、早く退魔しちゃおう?」
「退魔?」
俺はその女性を見て、気は確かかと思った。そう言えば男もそうだが、女性の方も白髪のセミロングで、翠という不思議な色の瞳をしていた。
その女性は、俺を見て片方の頬だけで笑い、
「そ♪ あなた、イシュテリアっていう悪魔の眷属と契約しているでしょ? 魂と引き換えに望むものは何かしら?
一条さんの心と迚母さんの命……そうよね?」
そう、何の躊躇いもなく言い切った。
俺は驚きのあまり、痛さも忘れて黙り込む。
「……ぼくたちは、悪魔のような存在が人に害を加えるのを見過ごせない。もちろん、君のことも心配だ。魂を売り渡した後、どうなるかは分かっているだろう?」
男が少し力を緩めて言う。
俺は今さらながら、この女性や男の正体が知りたくなった。
「あのぅ、根田見さん」
戻子さんが俺に話しかけてくる。
彼女が言ってくれた言葉は、俺を救うに十分だった。
「根田見さんは悪魔を信じる私を笑いますか? でも私は、あなたが本当に悪魔の眷属と契約されているのなら、とても心配です。
この方々の話を聞いていただいて、協力してはいただけませんか?」
そう言われて、俺にそれを断る選択肢はなかった。何より、『悪魔の眷属』と自称する伊須弖莉亜という女性に対して、俺は不信感と不気味さを感じていたのだ。
「……分かった。戻子さんがそう言ってくれるなら、俺はこの人たちに協力するよ」
俺がそう言うと、戻子さんはにっこりと笑ってくれた。
「さて、根田見くん。君に協力してもらいたいことは、一言でいうと『悪魔祓い』だ」
俺は、化野と名乗った男や、来栖と名乗った女の子に連れられて、大学近くの月詠神社まで連れられてきていた。
だが、戻子さんが心配してくれているからここに来ただけであって、俺自身は伊須弖莉亜という女に対して不気味さを感じているものの、単に『イカレた女』という認識で、悪魔だのなんだのを本気で信じたわけではない。
「まず、あなたが持っていた『イシュタルの軛』っていう魔導書。これは3年ほど前に初めて確認された物です。
作者など詳しい情報は分かりませんが、あなたはこれを、どこで入手しましたか?」
俺の前に、白髪の女性が来て訊く。その手には俺が手に入れた魔導書が握られていた。
「あ? いや、論文に必要な本を探しに古書店を回っていた時、たまたま入った店で勧められて……。
美麗な本だったし、値段もこの手の本にしては手頃だったから。それに何より……」
俺がそこまで言うと、白髪の女性はニヤリと笑って言い放った。
「……戻子さんの気持ちを自分に向けることができるから……ってことね?
あ~ヤダヤダ、これだからくうちゃん以外の男って……」
「……この本を買った店の名を覚えていますか?」
呆れたように肩をすくめる女性の向こうから、白髪だらけの青年が質問を投げかけてくる。静かな声だったが、どこか抗い難い威圧感があった。
「えと……確か『JUON』と言ったっけか?
見た目はかなり古くて陰気な店だった」
俺が答えると、青年は緋色という不思議な色の瞳で俺の目を見て、
「君がその本を選んだのか? 誰かその本を薦めた人物がいなかったかい?」
そう聞いて来る。その瞬間、俺の脳裏に一人の女性が浮かんだ。
「……いや、確かに店長だという女性から『イシュタルの軛』を薦められた。『想い人を振り向かせるには、この本が一番』とか言われてその気になったんだ」
俺の答えを聞いて、青年はさらに突っ込んで来る。
「その店長の名前は?」
「わ、忘れたよ……あ、でも確か『イシュタルの軛』の裏表紙に、名刺が貼ってなかったかな?」
俺が思い出して言うと、女性がすぐに魔導書を調べる。
そして、青年に呼びかけて絶句した。
「あった! くうちゃん、これって……」
青年は、女性が指さす名刺を一瞥すると、唇を引き結んで言った。
「やはりか……安奈、まずは根田見氏の魂を掴んでいる魔導書の魔力を断ち切らないとな」
そう言いながら青年は、魔導書から名刺を引きはがす。それをポケットに収めると、魔導書を女性に渡した。
「安奈、早速、根田見氏の魂を解放してやってくれ。それが終わったら、恐らくイシュテリアは逃げ出すか、ぼくたちに復讐するか、どちらかの行動に出るはずだ」
「……おいおい、話を聞いていたら俺にも関係があるんだろう?
まずは魔導書を俺に返して、説明してくれないか。何がどうなっているのか、これからどうしようっていうのかをさ」
俺が言うと、安奈という女性は冷たい視線を寄こして言った。
「あなたの魂はこの本に握られているの。だからまずそれを解放して、この本の主であるイシュテリアっていう悪魔の眷属をやっつけるわけ。OK?」
「はっ! バカバカしい。今の世の中に悪魔なんているはずないだろう? あんたたち、ちょっと頭おかしいんじゃないか?」
俺はそう言いながらも、あの伊須弖莉亜という女性に対して抱えていた不気味さを思い出す。迚母の調子がおかしくなったり、屋上から飛び降りたりしたのも、この魔導書を手にして、あの女が来た後のことだった……。
(伊須って女、まさか本当に悪魔の眷属なのか? 考えてみればあいつは最初っから『アタシは悪魔リリス様の配下でイシュテリアという者よ。リリス様に忠誠を誓うなら、あなたの望みは何でも叶えてあげるわ』と言っていた……)
「……君だって、この本やあの女が普通の存在ではないことくらい薄々感じているだろう? そしてそのおかげで、戻子さんが酷い目に遭ったってことも」
空とかいう男の言葉に、俺ははっと思い当たることがあった。迚母が飛び降りた時、下に女の子がいて巻き添えになったということを……。
「……まさか、戻子さんが迚母の巻き添えに?」
俺の言葉に、全員がうなずいた。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
承・眷属の誇り
「さて、これであなたがイシュテリアと交わした契約は反故になったわ。もうこの魔導書には二度と手を触れないことね。でないと次こそは魂を持って行かれちゃうわよ」
安奈は『イシュタルの軛』から根田見に伸びていた魔力を断ち切ると、脂汗を垂らしている根田見に言う。
もともとガタイのいい根田見だが、よほどのことがあったのか身体を小さくして震えていた。
「……わ、分かった。俺はオカルトなんて信じちゃいなかったんだが、これからは認識を改める。怪しいものには手を出さないことにするよ」
「うん、そうして♪ うちもこんな仕事が増えたら困っちゃうから。安奈さんとのお約束だよ?」
すると、根田見は顔を真っ赤にしてうなずくと、安奈に訊いた。
「あ、あの、来栖さん。君、今恋人とかいるの?」
安奈は笑って答える。
「あれれ~。それってうちを口説こうとかしているの?
戻子ちゃんに惚れてたくせに、気が多い男は嫌われるよ~?」
「い、いや、こんな俺のことを助けてくれるって、なんだか信じられないから。
戻子さんの関係者なら、こんな俺が悪魔に魂を奪われようと知ったこっちゃないだろう?」
根田見が言うと、安奈はムッとした顔で、
「そりゃあね? 女の子を監禁して自分のものにしようなんてことを考える輩は、残らず駆逐されちゃえばいいって思う。
でも、だからって悪魔の餌食にしていいものじゃないわ。
人間には法律とか社会通念ってものがあるように、人外のモノにもそれなりのルールってものがあるわけ。それを乱すものを放っといたら、誰もが生き辛くなるの」
そう言うと、ソラが笑って
「安奈の言うとおりだ。君はしばらくこの社務所でじっとしていてもらうよ。イシュテリアに見つかると、今度こそ君は問答無用で魂を持って行かれるからね」
脅すように言う。根田見は何も言い返さず、ただうなずいた。
根田見を残して社務所を出たソラは、安奈に訊く。
「それで、安奈はこの後どうする?
さすがにイシュテリアも、根田見や『イシュタルの軛』が消えたことに気付いているはずだ。もう何か行動を起こしていてもおかしくない」
安奈はつと立ち止まり、胸の前で手を組み目を閉じる。細い眉が寄せられ、難しい表情を浮かべていた。白い額にじっとりと汗がにじんで来る。
やがて安奈は、目を開けると汗をハンカチで拭いて言う。
「正直、根田見さんの部屋で見た下僕たちのレベルから、イシュテリアってかなり強いと思う。でも、うちはベリアルとも戦った経験があるから、何とかできるんじゃないかって思うけど、どこで戦うべきかを考えているの。
一番は、この月詠神社の境内だけど、くうちゃん、手伝ってもらえるかな?」
「承知した。ぼくは何をすればいい?」
一方その頃、イシュテリアは根田見たちがいるはずの隠れ家に戻って来て、根田見も戻子もいなくなっているのを知り、茫然としていた。
「……どうしたっていうの? あんなに根田見のことを嫌がっていた戻子って女、実は清楚系ビ〇チで、根田見のものになったら情が沸いて二人で出て行ったってこと?
今頃、二人で気持ち良くニャンニャンしてるのかもしれないわね。だったらだったで、アタシにも一言あいさつをしてもいいはずよ」
イシュテリアは最初そう思ったらしい。だから『イシュタルの軛』が隠れ家からなくなっていたこともあまり気にしなかった。
(『イシュタルの軛』を根田見が持っている限り、あいつの居場所はすぐに特定できる。幸せに浸っている奴の顔を拝みに行ってやろうかしら)
そう思ったイシュテリアが『これはおかしい』と感じ始めるのは、根田見の下宿を訪れてからだ。そこには根田見も戻子も、影も形もなかった。
(……それどころか、何もかも隠れ家に行った時のまま……。まさか、想い人を手に入れたから逃げた!?)
イシュテリアの脳裏には、まず『根田見が逃げたのでは?』という疑いが浮かんだ。これまで数十人の人間を相手にしてきて、願いが叶ったら魂を取られるのが嫌で逃げだす……という人物が多かったからだ。
「……けれど、『イシュタルの軛』を持っている限り、アタシからは逃げられないよ?」
くちびるを歪めてそうつぶやいたイシュテリアは、目を閉じて呪文を唱えだした。
「A Reconte serer ownserict sverianus Cara Sera tuinhaerne zonndern ihe ihe, ihe, ihe, tore Gozanderosse Haram……」
そして不意に呪文を中断する。苦虫を噛みつぶしたような顔の眉間には、深いしわが寄っていた。
「……根田見の居場所が判らない。まさか、魂の呪縛が解けた?……そんなはずは……」
不安に駆られたイシュテリアは、試しに『イシュタルの軛』を呼び出す呪文を唱える。
しかし、その呪文にも『イシュタルの軛』は反応しなかった。
(……『イシュタルの軛』が反応しない!? ということは、信じられないけれど魂の束縛を解かれた可能性が高いわね。
もしそうなら、そんなことができるのは、あのこまっしゃくれたエクソシストに違いない。あの時、追いかけてでも息の根を止めるべきだった!)
イシュテリアは、事態が思わぬ方向に向かっているのを感じ取った。
そして、すぐに眷属を呼び出して命じる。何千というドブネズミが、イシュテリアの周囲に群がった。
「根田見という男を探して。それと、この地域で不自然に清浄な場所がないかも調べるのよ。エクソシストが活動している可能性が高いから、十分に注意して」
眷属のネズミたちは、赤い目を光らせてうなずくと、一斉にM市内へと散って行った。
「……あのエクソシストめ、せっかくの獲物を奪いやがって。リリス様の一族の誇りを踏みにじったやつの末路、目にもの見せてやるわ」
眷属たちが散った後、イシュテリアは悔しそうなつぶやきを漏らし、どこかへと消えた。
一方ソラと安奈は、安奈が住んでいる教会にやって来ていた。見た目には普通の2階建て住宅だが、玄関のドアに大きな十字架が飾られており、1階の大きな窓がステンドグラスになっていて、そこだけを見れば教会そのものだ。
「話には聞いていたけれど、本当にここに教会を建てたんだな。去年ここに来た時には何もなかったのに」
大学から北西の方向にある、住宅地から少し離れた一軒家を見て、ソラが感心したように言う。安奈は薄い胸を反らして、得意げに言う。
「ふっふーん♪ うちらの教会を舐めてもらっちゃ困るよくうちゃん。お父様がその気になれば、これくらいの教会、あっという間に建てちゃうんだから。
それより、イシュテリアをどうやってやっつけるかだけど……」
そこで安奈は言葉を切り、ソラを見つめて笑う。
「……ここじゃイシュテリアから話の内容を聞かれるかもだから、中に入ってから作戦会議しよう」
そう言うと、ソラの先に立って教会のドアを開ける。途端に清浄な空気があふれ出してきた。ソラはそれを感じて、感心したように言う。
「……なるほど、これが安奈の言う『主の霊気』というものか。確かに、これだけの清浄な場なら、たいていの邪気は入って来られないだろうな。
安奈も、かなり修行を積んだみたいだね? 精霊も使えるようになっていたみたいだし、前回とは見違えたよ」
「へへへー♪ そうでしょ? うち、くうちゃんをご招待したかったんだぁ♡」
安奈は可愛らしく笑って、ソラを教会の中にある司祭室に連れ込んだ。数人の女性がソラを見て丁寧にお辞儀をする。安奈の下につく助祭たちだった。
司祭室は、これまた厳重に結界が張られ、並大抵のモノは近付くことさえできない波動を放っている。
(……これを安奈が張って維持しているというなら、かなり呪力は強くなったな。神惠伯父さんが安奈をここに配置するわけだ)
ソラはそう思いながら、紅茶を淹れる安奈を見ていた。
「そうだ、くうちゃん」
ふいに安奈が振り返ってソラに呼びかける。ソラはうなずくことで先を促した。
「イシュテリアをやっつける場所、くうちゃんの神社を使わせてくれるんだよね?」
「それは構わないが、川津媛の神力がお前の霊力や精霊たちの邪魔にならないか? 川津媛の依って立つ神力とお前の霊力の根源って、違うものだろう?」
ソラが心配して訊く。
「うーん。厳密に言えばくうちゃんの言うとおり、うちが仕える神様はあくまでこの世界を創られた存在で全知全能……ってのが建前なんだけどね?
実際のところ、うちは波長が違うだけで『神様』って存在は同じ分類になるんじゃないかって思うよ? ピラミッドだって横から見たら三角だけど、上から見たら四角じゃん?」
「……たとえは分かりやすいが、そういうものか? ぼくにはお前の神様を感じられないから、何とも言いようはないが。
でもまぁ、そういうことなら、ぼくの神社に誘い込んで決着を付けることにしよう。その方が、街中で戦うより影響が出ないだろうからな」
「うん♪ くうちゃんの神社って、前にベリアルとやりあった時に思ったけど、いろんな神様を受け入れてくれるんだよね。だから、うちも力を発揮しやすかったんだ。それに、なんやかんや言っても川津媛様って頼りになるしさ。
じゃ、くうちゃん、これからすぐに神社に行こう? 必要なものは準備できているからさ」
安奈は、でっかいバックパックを手に取ると、そう言って笑いかけた。
「……なるほど、では安奈殿がイシュテリアとかいう魔を退治すると?」
ソラと安奈は、退魔用の道具をそろえると無常堂に取って返し、店番をしていた瀬緒里に、月詠神社での退魔について意見を聞いた。
「安奈の話では、イシュテリアは悪魔リリスの部下でも結構な地位にいるらしい。下手をすると悪魔の軍団が町を襲うことになりかねない。
その点、月詠神社では結界があるので、普通の人間にはそこで何が行われているかすら知覚できないから、無用な混乱を避けることができますので」
ソラが言うと、瀬緒里はくちびるに人差し指を当て、首をかしげていたが、
「……そうですね、それがいいと思います。しかし我が背よ、豊蘆原の瑞穂の国に、外国の妖魔が入り込み、好き勝手できることが不思議だとは思いませんか?」
そう、黒曜石のような瞳で見つめてくる。
(確かにそうだ。今まではこの国に棲む怪異たちばかりを相手にしてきたが、人間の残留思念ならともかく、怪異も同じような形を取るものなのだろうか?)
そんな疑問がソラにも浮かぶ。だが、
「……瀬緒里さん、ぼくも同じ疑問を感じます。ひょっとしたら、イシュテリアを祓う中で、その答えのヒントが見つかるかもしれません。
でも今は、悪魔の眷属とやらを祓うことに集中しましょう」
ソラが言うと、瀬緒里はにこりと笑ってうなずいた。
「そうですね。先ずは目の前の宿題を片付ける……私たちの疑問については、その後ゆっくり考えましょう」
すると瀬緒里はいきなり立ち上がり、厳しい顔をして
「……月詠神社にいた男の方が、勝手な行動をしているようです。早く行って引き留めないと、我が背の計画がおじゃんになりますよ?」
唐突に言って姿を消した。
「まさか、根田見が?」
「……急ごう、安奈」
二人は顔を見合わせてうなずき合うと、脱兎のように無常堂を飛び出した。
「だから、ここから出たらあかんってソラさんも言うとったやろ!? 聞き分けのない先輩やな。悪魔に魂抜かれてもええんか!?」
その頃、月詠神社の社務所では、外に出ようとする根田見を、鏡子と戻子が必死に説得していた。
「そうは言ってもな、今日中にどうしても仕上げたい論文があるんだ。遅くなると提出期限に間に合わなくなるから」
根田見はそう言って、鏡子や戻子の制止を振り切って社務所から飛び出すと、一目散に鳥居へと走っていく。
しかし、根田見が鳥居を出ようとした時、
どしんっ!
「あ痛っ!」
彼は見えない壁にぶつかったように、派手にすっ転んでしまった。
「いててて……あれっ?」
根田見は立ち上がろうとするが、どうしたことか身体が動かない。足首をねん挫したのもあるが、どうしても足に力が入らないのだ。
「あ、大丈夫なんか?」
そこに、鏡子と戻子が追い付いてきた。根田見は顔を歪めて、
「何か、ここに壁があるみたいで、転んでしまった。
それに、身体に力が入らない……これって、さっきの化野とかいう男の仕業なのか?」
そう訊くと、戻子も鏡子も顔を見合わせて黙ってしまう。
そこに、裏道からソラと安奈が駆け付けて来た。
「よかったぁー、くうちゃんの足止めが間に合って。
根田見さん、あれほどくうちゃんが神社の神域から出るなって言ったのに、なに勝手なことをしているんですか!?」
安奈が強面で訊くと、根田見はばつが悪そうな顔で、
「いや、どうしても今日中に仕上げたい論文があってね? なにせ提出日が迫っているもんでね」
そう言い訳をする。
だが、根田見に何か言いかけた安奈を制して、ソラが鋭い声で言った。
「安奈、問答無用で根田見氏を社務所に連れ戻せ! ここが見つかったぞ!」
「えっ!?」
ソラの声に、安奈や戻子、鏡子、そして根田見もびっくりして彼の視線の先にあるものを見る。神社の敷地ギリギリに、ドブネズミの大群が取り囲んでこちらを赤い目で見つめていた。
「……なにあれ、きしょ……」
「……イシュテリアの眷属たちみたいですね。これだけの数がいるってことは、本体もおっつけここに現れるでしょう……」
鏡子のつぶやきに安奈が答えたまさにその時、鳥居の向こうに海の波のような髪の毛をした、妖艶な美女が姿を現した。
「……見つけたわ。よくもアタシの獲物をかっさらって、リリス様への貢物を台無しにしてくれたわね。可愛らしいエクソシストちゃん、せっかくだから、あなたも一緒に貢物にしてあげるわ」
そう言うと、瞳を黒く沈ませて、右手に集めた魔力を鳥居に叩きつけた。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
転・破邪の神威
バチィッ!
鳥居との間に火花が散り、大きな音を立てる。それを聞いて、根田見は完全に腰を抜かして、
「あわわわ……」
這いずりながら社務所へと逃げ戻り始めた。
「戻子さん、鏡子さん、根田見氏を社務所に!」
「分かりました!」
「任せといてんか!」
ソラの指示に、戻子と鏡子は打てば響くように反応し、
「ほら、しゃんとせんかい!」
鏡子は根田見の首根っこを掴むと、強引に社務所へと引きずって行った。
「待て、逃さないよっ!」
バチィッ!
イシュテリアが黒く沈んだ腕を結界に差し込んでくる。
結界は大きな音を立ててイシュテリアの腕を弾いたが、小さな亀裂が何か所も生じていた。思っていたより、イシュテリアの魔力は強いらしい。
「……くうちゃん、うち、もう限界かも……」
ロザリオを前に突き出して結界を補強していた安奈が、脂汗を流しながら言う。ソラはそれを聞いて薄く笑うと、つかつかと鳥居に近付いて手を添える。
「イシュテリアとかいう異国の魔物よ。この国の神威をその身で受けるがいい」
ソラは懐から神符を取り出すと、何か呪文を唱えながら鳥居に張り付ける。
「面白いわね。たかが人間の分際で、アタシに勝てると思っているところが可愛いわ。お前たち、やっておしまい!」
イシュテリアは顔を歪ませて笑うと、眷属たちを結界に突撃させる。
バチィッ! ブシュリュリュッ!
途端に、結界が大きく鼓動し、結界を食い破ろうと蝟集していたドブネズミの群れは一斉に血と肉片をまき散らしながら雲散霧消した。一瞬、安奈の視界が赤く煙ったほどの威力だった。
「……ほう、人間にもなかなかの者がいますね? あなたはエクソシストではないようね。
アタシは悪魔リリス様の眷属でイシュテリア。東の島国の術者よ、名前を聞いておきましょうか」
イシュテリアは、瞳を赤く怪しく輝かせ、髪の毛も波打たせながらソラに向かってそう問いかけて来た。
「……名乗るほどの者ではない。ただのお節介焼きの骨董屋だ」
ソラもまた、白髪交じりの髪の下で緋色の瞳を光らせて答える。名乗らなかったのは、イシュテリアの『名前への干渉』を防ぐためだった。
「ふふ、用心深いのね? そんなところも気に入ったわぁ♡ あなたのア・ソ・コ、ぜひとも味わってみたいものだわね♪」
イシュテリアは、ソラを一目見て気に入ったようだ。彼女の頬は上気し、とろんとした目でソラを誘うように怪しく腰をひねりながら、かなり際どい言葉を吐く。
その言葉でさらに劣情が刺激されたのか、イシュテリアは安奈の前であるにもかかわらず、胸をはだけるとニヤリと笑った。
「あっ、くうちゃん。見ちゃダメーっ!」
安奈は自分もイシュテリアから目を反らしながら、とっさに動いてソラの両目をふさいだ。
「フン、アタシの誘惑の胸元を見破るとは、なかなかやるじゃない?」
ニヤニヤとするイシュテリアに、安奈は眼を逸らしたまま
「どんな美人であっても、好きな男の人に他のオンナの胸なんて見てほしくないでしょ?
アンタ、バカなの? うん、バカでしょ?」
そう言いながらソラの目を両手で覆い続けている。
「あ、安奈、これじゃ前が見えない。手を退けてくれ」
ソラがそう頼むが、安奈はムスッとした顔でとんでもないことを言ってのけた。
「やだ。くうちゃんが見ていいハダカは、うちと川津媛様のだけだもん。
てか、くうちゃんは本邦最強の呪禁師でしょ? 目を隠したまま戦うことくらいできるでしょ?」
「無茶言うな。いくらぼくでもできることとできないことはあるんだ。それより安奈、奴が結界を破りそうだぞ」
「やば! ホントだ」
安奈がそう言った瞬間、イシュテリアは神域の結界をぶち破り、鳥居の下を敷地内へと入って来た。
「……アタシを目の前にしながらイチャイチャするとは、ずいぶんと余裕ですわね?」
イシュテリアは乱れた髪を整えながら、憎々しげにそう言うと、本性を現した。
「アタシをバカにするのはリリス様をバカにするのと同義。敷地内にいる者すべて、リリス様への貢物にしてやるわ!」
そう言うイシュテリアの姿は、巨大なドブネズミに変わっていた。
一方で、腰を抜かしてしまった根田見を引きずって社務所に逃げ込んだ戻子と鏡子は、そこに意外な人物の姿を見て、思わず声をもらす。
「戻子さん、ご無事でしたか。鏡子さん、お疲れ様です」
その人物は、黒縁眼鏡を押し上げてそう言うと、にかっと笑う。
「巫くん」
「何やストーカー、何しに来たんや?」
鏡子は根田見を引きずりながら、巫を威圧する。巫は鏡子の迫力に負けて、たじたじと数歩後ずさりながら、
「何って別に。戻子さんが無事に助け出されたって聞いたから……」
へどもどとそう言う。そこに、
「巫どのをお呼びしたのは私です」
そう言いながら、奥の部屋から瀬緒里が姿を現す。その後ろには、身長2メートルはあろうかという男神がつき従っていた。
「あ、あんたは」
鏡子が男神を見てびっくりしたように言うと、巫も
「巌命、さっきからぜんぜん気配がしないと思っていたら、もう社務所の中にいたのか」
そう声をかける。
巌命はニヤニヤ笑いながら、頬を指先でかき、
「まあ、尊敬する川津媛命の召集だからな。ちょっと先回りさせてもらったんだ。
で、川津媛命、さっき聞いたとおり、俺様があのイシュテリアとかいうオンナをいただいていいんだな?」
瀬緒里に聞くと、彼女は薄くほほ笑みながら答えた。
「巌命がゲテモノ好きとは知りませんでしたが、あなたがそれでいいなら、私は別に構いませんよ?」
すると巌命は、ごつい顔をほころばせて髪をクシャっとかき、
「いやぁ~、それはありがたいなぁ。近頃、俺様もちょっといい子ちゃんでいすぎたみたいでな? ちょっと『乾いて候』ってとこだ。
じゃ、遠慮なくあのオンナをいただいて来るぜ。みんな、泥船に乗った気持ちでいてくれよな!」
そう上機嫌で言うと姿を消す。
「……泥船に乗ったら、沈むんとちゃうん?」
鏡子が呆れて言うが、瀬緒里はくすくす笑いながら首を振り、
「まぁ、巌命の活躍を見ていましょう。彼はあんな男ですが、やるときはやる神ですから」
そう言って根田見に声をかける。
「あなたがあの魔導書を買った店について、詳しく話を聞きたいのですが?」
イシュテリア(ドブネズミ)は、赤い目を光らせ、発達した前歯をむき出しにして安奈に跳びかかって来た。
「きゃっ!」
安奈は咬みつき攻撃を何とか避けるが、
『フンッ! それで避けたつもり?』
ぶんっ、バシンっ!
「ぐえっ!」
尻尾でしたたかに胸を弾かれ、数メートルも飛ばされてしまう。
「安奈っ!」
ソラが安奈に駆け寄って抱き起す。安奈は身体を起こすと、数回頭を振って、
「だ、大丈夫だよくうちゃん。それより後ろっ!」
『アタシの前でイチャつくんじゃないわよっ!』
ぶうんっ! バシィンッ!
安奈の叫びと、イシュテリアの怒号が重なる。
イシュテリアはソラの頭を粉砕すべく、そのしなやかで固い尻尾を振り下ろしたが、ソラは懐から取り出した笏で、平然と尻尾を打ち払った。
「安奈、立てるか? 立てるならお前のやり方でイシュテリアの動きを止めるんだ」
安奈はソラからそう言われ、聖書と十字架を持ち直して立ち上がる。ソラも立ち上がって、再び咬みつき攻撃をしてきたイシュテリアを睨みつける。
『そこを動くな、かみ殺してやる!』
「くうちゃん!」
安奈は思わずソラにしがみついた。
イシュテリアは、歯をむき出してソラに咬みつこうと突進してきたが、
ドゴンッ!
『ぐわっ!?』
横合いから凄まじい衝撃を受け、数メートルもすっ飛ばされる。
ズズウウンッ!
地響きを立てて転がるイシュテリアに、
「おいおい、せっかくの美人の正体がネズミだったなんて、幻滅も良いところだぜ」
そう言って立ち塞がったのは、巌命だった。
「あら、失礼。見苦しいところを見せちゃったわね」
巌命の姿を見て、イシュテリアはすかさず元のうねるような髪を持つ女性の姿に変わる。
それを見て、巌命は上機嫌に言った。
「そうそう、あんたはその姿が一番だぜ。
どうだいイシュテリアさんよ、もう一度気持ちいいことするってのは?」
イシュテリアは、妖艶な目で巌命のたくましい胸筋や腹筋、そしてその下の部位を眺めやると、くすっと笑って言う。
「いいけどさ、敵を戦いの最中に堂々とナンパするなんて、あんたも相当なスキモノだね?
まぁ、あれだけ良い思いをさせてもらったんだ。アタシは別に構わないが、リリス様への貢物を手に入れてからでもいいでしょ?」
「いや、俺様は『したい時に、したい女とする』ってのが座右の銘でね? あんたの声を聞いて、あんたの身体を見たら、もう我慢できねえんだが?」
少し照れたように言う巌命を見て、イシュテリアはまたも自身の欲求が勝ったのだろう、彼女はソラと安奈をチラリと見やり、
「この坊ちゃんがこう言うんでね、少しの間構ってあげるわ。その間に、アタシを倒す準備を進めておけば?」
そう言うと、ニヤニヤする巌命の方へと歩き出す。
「……何あれ? うちとくうちゃんのことバカにしてんのかしら?」
思わず怒りの声を上げる安奈を抑えて、ソラは緋色の目を細めて言った。
「川津媛様の指示でやって来てくれたんだな。巌命にはイシュテリアを消滅させる算段があるんだろう。でも安奈、念のためイシュテリアに止めを刺す準備を進めてくれ」
巌命は、しなを作って歩み寄って来たイシュテリアを、相好を崩して迎える。巌命はまだ2百年しか生きていないとはいえ賽の神だ。
しかし、今の彼ははた目から見たら、鼻の下を延ばしてデレデレするだらしない男にしか見えない。
「やっぱり俺様の方に来てくれたか。嬉しいゼ。
お礼にさっきよりも濃厚に可愛がってやるぜ?」
「あら、うれしいわ。アタシもこの国に来てからずーっとご無沙汰で、良い男もいなかったからつまらない思いをしていたけれど、あなただけは別よ♡」
イシュテリアは巌命に笑顔で言うと、ねっとりとした視線を送る。
「そうかそうか、じゃ、さっそく楽しむことにしようや♪」
「あんっ」
巌命は有無を言わさずイシュテリアをそのたくましい胸に引き寄せる。悩ましい声を上げたイシュテリアだが、実は巌命に対しては、
(屈強な身体つきはしていても、戦闘経験はなさそうだし、何より女にだらしがなさすぎるわね。遊びにはいいけど、仲間や恋人にはしたくないタイプだわね)
その程度の評価しかしていなかった。
(ふん、惜しいけれど、こいつの魂もいただいておくか。異国の神の魂なんて、リリス様もきっと気に入られるに違いないし)
イシュテリアはそんな企みを立てて、巌命の胸に顔をうずめた。
「そんなに焦らないで……ね?」
イシュテリアは、巌命をじらすように言うと、自分から巌命のくちびるを奪う。舌を絡ませ、お互いの身体をまさぐる、
「うわぁ……見てらんない……」
安奈が見ていていたたまれなくなるような濃厚なキスだった。
しかし、ソラの反応は違っていた。
(川津媛様は、ぼくに『異国の神には手を出すな』と仰っているんだな。まぁ、初手から話し合いができない相手では、手の施しようがないしな)
そんなことを考えているソラだった。
「どう? 興奮してきた?」
イシュテリアが聞くと、巌命はにたりと笑って、
「おう、最高の舌技だったぜ……ぐっ!」
不意に凍えた瞳をして、そう呻くと地面に膝をつく。
「ふふ、最後に良い思いをしたでしょ?
アタシのキスで逝けるなんて、あんたも幸せな男ね?
ちゃんと魂は引き取って、リリス様に捧げてあげるから往生するのよ?」
イシュテリアは巌命を見下すようにそう言うと、懐からごつい短剣を取り出して巌命の首筋に振り下ろす。
「なっ!?」
しかし、その剣先は巌命のたくましい腕で止められた。彼はニヤリと笑うと、おどけたように言う。
「ぬわぁ~んちってな☆
俺様を何者だと思っている? 悪しきものを阻む賽の神だぜ?
あんたの毒なんぞ、俺様に効いてたまるかよ」
「アタシの毒が効かない? そんな馬鹿な……」
「バカなって言ってもよ、現に俺様はこうしてピンピンしているしな。
でも、やはりあんたは異国の悪魔だな。俺様は悲しいよ、あんたを成敗しなきゃならないなんてな」
そう言うと、
ゴリッ!
「あぐわぁっ!」
イシュテリアの右腕を握り潰し、投げ飛ばした。
どしんっ!
「ぐえっ!……。き、きさま、アタシを成敗するですって?
寝言は寝てから……ひっ!」
憎まれ口を叩きながら立ち上がったイシュテリアは、
「黙れイシュテリア、動くなっ!」
巌命の大喝で身体を竦ませた。
(……な、なぜ? 身体が……動かない……)
顔色を変えたイシュテリアを見て、巌命は、
「俺様は確かに川津媛様に比べると神力は弱いが、言霊くらいは使えるぜ?」
そう言いながら両手の指をポキポキ鳴らし、イシュテリアに近寄っていく。
「俺様はな、本気になったら一途な女が好みだが、遊びなら遊びで別に気にしねぇ。
ただな、遊びには遊びの決まり事ってもんがある。あんたはその決まり事を破った。だから許せねぇんだ」
そう言いながらイシュテリアの前に仁王立ちした巌命は、
「あばよ」
一言そう言うと、強烈な右ストレートをイシュテリアの顔面に叩き込む。
ドゴンッ!
「あぐぁっ!」
イシュテリアの頭部はその一撃で、熟れきったスイカのように雲散霧消した。
★ ★ ★ ★ ★
結・悪意の継続
「へん。俺様を見くびるからこうなるんだ」
巌命がぱんぱんと手で袴の誇りを払っていると、瀬緒里が静かに笑いながら近づき、
「さすがは巌命ですね。先には場を乱さずに妖魔を連れ出し、今はその妖魔を見事成敗しました。今回の最高殊勲者と言えるでしょう。
あとは、女にだらしないところを何とかすれば、もう立派な一人前の神ですよ?」
すると巌命は、瀬緒里から褒められたのがよほど嬉しかったのか、鼻の頭をかきながら、
「い、いや。こう急に褒められると背中がムズムズしますぜ。
それに俺様は、川津媛様の仰ることに従っただけで……」
彼らしくもなく照れるのだった。
だが、空は巌命の目が赤くなっているのを見て、笑って近づいて言う。
「謙遜はいらないさ。今回もとても助けられた。
瀬緒里さんは女癖がどうとかいうが、役に立つこともあるし、自分が恥じず、他人に迷惑をかけなければいいんじゃないかな?」
そう言うと、途端に巌命は目を輝かせて、
「おお、さすがは空の旦那だ。男心ってもんを分かってらっしゃる。いやぁ、いろんな女子が空の旦那にホの字なのも分かるぜ。
あ、そう言えば、隣村の花神が今度宴会を開くそうで、ぜひ空の旦那を連れて来てくれって頼まれてたんだった。
空の旦那、どうです? あっちは綺麗どころをそろえるって言ってましたし、一緒について来ちゃ……」
「おほん! 巌命、そう言うところですよ?」
困り顔の空を見かねて瀬緒里が話に割って入る。さすがの巌命も半眼になって口だけ笑っている瀬緒里を見て、
「やべっ、調子に乗りすぎた」
そう言って、慌てて自分の祠に帰った。
空はほっと溜息をついて、
「……やれやれ。巌命にも困ったもんだ。
瀬緒里さん、ありがとうございます。
今から社務所に戻って根田見氏にすべて片付いたと……。
あの、瀬緒里さん? なぜ怒ってらっしゃるんですか?」
そう言いかけて、瀬緒里が恨めしそうに頬を膨らませていることに気付く。
「……若い花神たちの宴会と聞いて鼻の下を伸ばすなんて、やはり我が背も殿方なのですね?
ええ、どうせ私は千数百年を経た使い古しですものね?」
瀬緒里は涙をためた上目づかいで空を見てそう言い、
「つん」
そう言ってそっぽを向く。
空は最初呆気にとられたが、すぐに頭をガシガシかきながら、少し頬を染めて言う。
「あのー、瀬緒里さん? ぼくは神様の宴会に参加させていただくつもりはありませんし、そもそも神でもないぼくが参加できるわけがないでしょう?
仮に参加できたとしても、瀬緒里さんと一緒じゃないと嫌です。だいたい知らない女神様たちとお酒を飲むより、瀬緒里さんと二人っきりで過ごす時間の方が大事なんですよ」
瀬緒里はそれを聞いて少し頬を緩めたが、空に背中を向けて、
「こ、心にもないことばっかり。さっきの我が背のデレ顔、私、すごく傷ついたんですよ?」
そう言うのを聞いた時、空は
(あぁ、瀬緒里さんは不安なんだな。でも、ぼくだって……)
そう思い、瀬緒里の隣に立って手を握る。瀬緒里は肩をピクリとさせたものの、手を振りほどこうとはしなかった。
「瀬緒里さんが寂しいなら、いつでも甘えてください。
不安なら、いつでも言ってください。
ぼくは瀬緒里さんの全部を受け止めます。
そう、最初に誓ったでしょう?」
瀬緒里はうつむいたままその言葉を聞いていた。
瀬緒里は何も言わなかったが、ただ、空が握る手にもっと指を絡め、強く握り返した。
二人が社務所に戻ると、根田見が唇を歪めて安奈たちに何か言っていた。興奮した顔色だったが、空たちの姿を見て、根田見は言葉を飲み込んだ。
「……どうかしたのかい?」
空が聞くと、根田見はばつが悪そうに視線を逸らす。
「あ、くうちゃん。いま根田見さんから、なぜ悪魔の眷属と契約したのか、動機を聞いていたんだけど……」
安奈が言いかけるのを、鏡子が引き取って続ける。
「それがな、迚母はんにとても敵わん思うたからやて。
劣等感で戻子にケガまでさせるなんて、冗談もたいがいにせいやって思ったわ」
「……君たちに、万年二位の気持ちが分かるか!? 頑張っても頑張っても追い付かない、いつだって、脚光を浴びる奴の隣で笑ってきたおれの気持ちが分かるか!?」
鏡子の言葉で、根田見の長年鬱屈させてきた感情が噴出した。
「迚母はいつもおれの前にいた。いつも称賛される役回りの男だった。
おれだって、いつも努力してきた……つもり、だったんだ……」
最後は涙声になり、戻子や鏡子が見守る中なのに、涙をこぼす根田見だった。
「……うち、頭悪いから勉強のことはよう解らへんけどな。
でもうちにも居ってん。剣道のライバルっちゅうやつがな。
うち、その子にはどないやっても勝てへんかってん。天性の才能っちゅうのかな? センスが違うねん。
せやかて決してうちが圧倒的に弱いわけでもないねん。
けど、どないに相手を追い詰めても、絶対に1本取られる。うち、神様を恨んだで。こないに頑張ってんのに、何で勝てへんねんって」
根田見のすすり泣く声が少し小さくなる。
「けどな、おとんが言うてん。
本当の敵は、強くなれへん最たる理由は、嫉む心やって。
嫉む心は自信のなさから起こる、だから人のせいにする。
嫉む心は自分を過大評価することや、だから進歩を止める。
本当に強いんは、自分の中に誇るものを持っとる人やって。
根田見はんかて、なにも無いわけちゃうんやろ? 自分の誇れるとこ」
鏡子が聞くと、根田見は首を振って答える。
「……万年二位のおれに、誇れるものなんてないよ」
「じゃあ聞くけど、万年三位の人は何を誇ればええ? 万年四位の人は? 五位の人は?
誇れるもんってのはな、人と比べたら、やないねん。
万年二位でもすごいやん。迚母はんに挑戦し続けたってことやろ?
うち、それだけでも先輩を尊敬するわ。挫折し続けても折れへんやったってことやからな」
鏡子のその言葉を聞いて、根田見の肩がピクッと震えた。根田見はゆっくりと顏を上げ、鏡子を見てつぶやくように言う。
「……おれ……すごいのか……?」
「当たり前田のクラッカーや。一生懸命頑張る人に、凄くない人っておらへんって思うで?
センパイも頑張っとるんやろ? イシュテリアに狙われとるって分っとるのに論文のこと気にしてたさかいな……。って、何や? なして泣くんや?」
根田見は、鏡子の言葉を聞きながら、ボロボロと涙を流し始めた。
後輩の、しかも女子の前で泣くなんて恥ずかしいと思う半面、
(……ああ、おれは今まで、自分の頑張りを認めてほしかったんだ。『凄いね』の一言が聞きたかったんだ……)
そんな気持ちがぐちゃぐちゃになって、根田見はいつまでも泣き続けた。
「……彼はこれで心を入れ替えるでしょう。
我が背よ、行きましょうか。『無常堂』へ」
その様子を見ていた瀬緒里は、にっこりと笑って空の手をぎゅっと握りしめた。
イシュテリアを退けたその夜、ソラは『無常堂』でろうそくの揺れる炎を見つめていた。目の前には四角い祭壇が築かれている。
(……『イシュタルの軛』には、『木庭茜』と印字された名刺が張ってあった。
今回だけじゃない。去年のクリスマスに梅ちゃんが買ったというホラーアイテムも、同じ店の商品だった。そして同じ名刺が添えられていた)
ソラは、祭壇に鎮座する鏡に視線を移す。その表面に、背中まで伸ばした黒髪に茶色の瞳をした女性が一瞬映り込んだ。
「今のが、我が背の幼馴染だった茜どのですね? 見た限りでは妙な波動は感じませんね」
ソラがハッとした時、瀬緒里がふすまを開けて部屋に入って来るなりそう言う。ソラはうなずいて答えた。
「ええ、神鏡に映った茜には、特段の悪意や憑依されている感じは見受けられません。むしろ……」
言いよどんだソラの言葉を、瀬緒里が引き取って続ける。
「……むしろ、感情というものが感じられない……そうですね?」
ソラは緋色の瞳を伏せると、静かにうなずく。
「3年前に会った時は、『絵描きもしている学芸員』だったんですが……この3年の間に、茜に何があったっていうんでしょうか?」
「人それぞれに歩む道があります。過去がいかなるものだったのか、私には想像できませんが、いくつかの怪異に茜どのが主体的に関わっていることは疑いようのない事実です。
過去を知りたいのなら、先ずはその事実と向き合う必要がある、そう思いませんか?」
ソラの横に正座して、瀬緒里は微笑みながらそう言った。
ソラは祭壇のろうそくを消し、瀬緒里に向き直って聞く。
「ぼくと茜と昌は、仲のいい幼馴染でした。
昌がいなくなったことを知った時、茜はあんなに悲しがっていたのに、なぜ、人を呪ったり、人の人生を狂わせたりするような品物を扱うようになったのか……。
それを知るために、この『JUON』という店に行ってみようと思います」
ソラの言葉に、瀬緒里は哀しそうな顔をして首を振る。
「我が背よ、それが我が背の心を引き裂く結末になることを恐れます。
こんな時、私の言葉を素直に受け入れる我が背ではないことは重々承知していますが、私は我が背と茜どのとの縁に、大きな不安と恐れを抱いています。
ですから、我が背が茜どののもとを訪れることは反対致します。安奈どのや巫どの、あるいは戻子さんたちに調べてもらうわけにはいけませんか?」
必死の面持ちで言う瀬緒里に、空は優しく笑って答えた。
「瀬緒里さん、これはぼくと茜、そして昌の縁です。
昌の弟である周ですら縁の外にいるのに、樟葉を巻き込むわけにはいきません。
まずは、ぼくだけで会ってみます」
瀬緒里は、左手首にはめた色とりどりの撚糸の輪を見ていたが、
「……我が背が言いたいことは判ります。でも、私は心配です。どうしても誰も巻き込みたくないと仰るのなら、せめて私を連れて行ってください」
強い口調でそう言う瀬緒里だった。
空は、長いこと目を閉じて考えていたが、やがて眼を開けると困ったようにため息をつき、笑って言った。
「分かりました。瀬緒里さんも言い出したら聞きませんからね。
でも、まずは話し合いです。茜がどんなに変わっていても、手は出さないでいただけますか?」
「……無論です。それが我が背のやり方ですものね?
しかし、明らかな悪意は、私も見過ごしにはできません。
そこは分かってくださいますよね?」
瀬緒里は笑ってそう言うと、差し出された空の手を握った。
【無常堂夜話:人の嫉みの物語 終わり】
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
いや、四辻之巌命が結構活躍しましたね。
それに、根田見くんも、やっと自分の辛さに気付けたようです。鏡子ちゃんのお手柄ですね。
さて、最後に空が言っていた『木庭茜』。彼女は本当に空の幼馴染なのでしょうか?
いろいろな疑問が浮かんできますが、とりあえず次回またお会いしましょう。




