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短編


【一】 氷の檻、閉ざされた翻訳官の独白


 王都の地下深く、冷たい石壁に囲まれた「精霊契約室」には、窓がない。

 そこにあるのは、魔導灯の淡い光と、積まれた古い羊皮紙、そして羽ペンの走る音だけだった。

 エルシュタット公爵家の長女、エレインは、この十年間、その部屋からほとんど出ることなく過ごしてきた。


「……はい、承知いたしました。風の精霊シルフ様。貴殿らが望むのは『王立果樹園の風の循環』に対する、対価としての『極上の葡萄の香りの魔力』の増量、ですね。……あぁ、少しお待ちを。契約書の第十六条にある『気圧の安定』の項目に、貴殿らの好む“優雅なる旋律ライム”を加えましょう」


 エレインは表情一つ変えず、虚空に向かって呟き続ける。

 人間にはただの「独り言」にしか聞こえないその声は、精霊たちの好む「古代精霊語」の複雑な韻律リズムを完璧に捉えていた。


 精霊は、人間を嫌う。

 彼らにとって人間の言葉は「粗野で、暴力的な騒音」に過ぎない。だから、精霊をエネルギーインフラとして利用するこの王国にとって、精霊と対等に渡り合い、彼らの権利を守りつつ「契約」を結べるエレインは、本来、国家の至宝であるべき存在だった。


 だが。

「エレイン! まだこんな薄暗い部屋で、化け物相手に不気味な独り言を垂れ流しているのか!」


 乱暴に扉が蹴破られた。

 現れたのは、第一王子レオンハルト。その後ろには、聖女の装束に身を包んだ可憐な少女、ミアが寄り添っている。


「……殿下。精霊様方は『化け物』ではありません。彼らは繊細な芸術家であり、理の守護者です。そのような不敬な言葉は、彼らの心証を悪くし、上水道の稼働に……」


「黙れ! 相変わらず何を言っているのか分からん女だ。その感情のない冷たい顔、そして実体のないものに媚びを売る不気味な姿……。私はもう、お前を婚約者として見るのは限界だ。お前との婚約を破棄し、真の聖女であるミアを王妃に迎える!」


 エレインのペンが、止まった。

 彼女はゆっくりと顔を上げ、王子の背後に隠れるミアを見た。

 ミアは勝ち誇ったような笑みを浮かべながら、震えるふりをして王子に縋り付いている。


「ミア様には、精霊の『心』を癒す力がある。お前のような、古臭い書面でしか交渉できない無能な翻訳官など、もはや不要なのだ。今日限りでお前を追放する! 精霊の管理は今後、ミアの『祈り』によって行われることが決定した!」


 エレインは、静かに、本当に静かに立ち上がった。

 彼女の脳裏に浮かんだのは、怒りでも悲しみでもなかった。

(……自由だ)

 十年間、一度も休まずに、国の上下水道を、照明を、防壁の魔力を、すべて「翻訳」という激務で支え続けてきた日々。

 外の世界には、あんなにも美しい景色があるはずなのに。

 古い文献でしか読んだことのない「水晶の湖」や「歌う花園」、そしてまだ見ぬ希少な精霊たちが、どこかにいるはずなのに。


「……承知いたしました、殿下。王命、確かに拝命いたしました」


「フン、潔いことだ。お前のような不気味な女は、国外で一人、野垂れ死ぬがいい!」


 エレインは、自身のデスクの引き出しから、一冊の古い手帳を取り出した。

 それは彼女が十年間書き溜めてきた「いつか行きたい場所リスト」だった。


「……エレイン様? 何か言い残すことは?」

 ミアが、皮肉を込めて問いかける。


「いいえ。ただ、一つだけ助言を。……精霊様方は、嘘と無礼を、何よりも嫌われます。……では、失礼いたします」


 エレインは、愛用のトランク一つを手に、一度も振り返らずに部屋を出た。

 彼女が去った直後、部屋の温度が不自然に数度下がったことに、王子たちは気づかなかった。



【二】 王都の崩壊、ストライキの旋律


 エレインが王都の門をくぐり、自由な一歩を踏み出してからわずか数時間後。

 王城の「祝賀晩餐会」の真っ最中に、最初の崩壊は訪れた。


 バチンッ――。


 豪奢な大広間を照らしていた、数百の光精霊ウィル・オー・ウィスプの灯りが一斉に消えた。

「な、何だ!? 暗転の演出か?」

 レオンハルト王子の声に、返ってきたのは絶叫だった。


「殿下! 大変です! 調理場の火精霊サラマンダーたちが、突然コンロから逃げ出し、外へ飛び出しました! 肉を焼くことも、湯を沸かすこともできません!」


「何だと!? おい、ミア! お前の祈りで何とかしろ!」


 ミアは青ざめながら、必死に手を組んだ。

「あ、ああ、精霊様……。どうか、私たちを照らしてください。私たちのために、力を貸して……」


 しかし、返ってきたのは、空間を震わせる「嘲笑」の波動だった。

『契約書がない。……エレインが書いた「適切な対価」と「安全な休息」を約束する法的な魔力書面がない。だから、僕たちはもう働かない。君の言葉は……何の中身もない、ただの雑音だ』


 それは、文明のインフラを担っていた全精霊による、一斉ストライキだった。

 上水道は枯れ、王族が愛用する温水浴場からはおぞましい泥水が逆流した。

 冷暖房の精霊たちは「自由だ!」と叫びながら城を去り、夜の王城は冬のように冷え込んだ。

 ミアの祈りは精霊たちに届かないどころか、「うるさい雑音を発する人間」として、彼女は水精霊から水をぶっかけられ、光精霊からは目を眩まされる嫌がらせを受ける始末だった。


 エレインという「翻訳官兼弁護士」がいなくなったことで、王国は精霊という名の巨大な労働力に見放され、中世以前の不便な暗闇へと沈んでいったのである。



【三】 旅の始まり、水晶の湖と新たな友


 一方、エレインは、王都から遥か離れた「静寂の森」の入り口に立っていた。

 彼女の足取りは、驚くほど軽かった。

 首元まで詰まった窮屈な礼服を脱ぎ捨て、動きやすい薄藍色の旅装束に着替えた彼女は、今、人生で初めての「自由」を享受していた。


「……ふふ、空がこんなに広いなんて。風の匂いが、場所によってこんなに違うなんて、知らなかったわ」


 エレインは、かつて本で読んだ「水晶の湖」を目指して歩いていた。

 そこは、あまりに魔力濃度が高く、気性の荒い精霊が集まるため、人間の立ち入りが禁じられている場所だった。


 森の奥へ進むほど、精霊たちの気配が濃くなる。

 すると、藪の中から一匹の「銀色の狐」が現れた。それは、単なる獣ではない。尾が三本あり、その先から青い燐光を放つ中級の幻獣精霊だった。


『人間……? ここは俺たちの不可侵領域だ。去れ。さもなくば、その喉を氷結させるぞ』


 狐の精霊は、鋭い牙を剥いて唸った。

 並の人間なら失神するほどの威圧感。だが、エレインは一歩も引かなかった。

 彼女はゆっくりと跪き、狐の目を見つめて、完璧な発音の古代精霊語で囁いた。


「……お初にお目に掛かります、森の守護者様。私はエレイン。ただ、貴方たちの住む美しい湖を一目見たくて、ここまで参りました。……あぁ、左足の毛並みが乱れていますね。茨に引っ掛けたのですか? 宜しければ、お手入れの『契約』を結びませんか? 私が貴方の毛並みを整える代わりに、貴方の美しい姿を私に見せてください」


 狐の精霊は、驚きに目を見開いた。

 これほどまでに澄んだ、そして「敬意」に満ちた言葉を操る人間を、彼は見たことがなかった。


『……お前、俺の言葉が分かるのか? ただの“聞こえる”ふりじゃなく、本当の言葉が……』


「ええ。貴方の声は、冷たい氷が砕けるような、とても清涼な響きです」


 エレインがそっと手を差し伸べると、狐の精霊は警戒を解き、彼女の膝に乗った。

 彼女が魔力を込めた指先で、丁寧に狐の毛並みを整えていくと、狐はうっとりと喉を鳴らした。


『……気に入った。お前、面白い人間だな。俺の名は“ギル”。ただの狐じゃない、三尾の雪狐だ。いいだろう、特別に湖まで案内してやる』


 こうして、エレインの旅に最初の仲間が加わった。



【四】 賑やかになる一行と、精霊たちの聖域


 辿り着いた水晶の湖は、言葉を失うほどの美しさだった。

 底まで透き通った水は、太陽の光を反射して、まるで粉砕したダイヤモンドを撒き散らしたかのように輝いている。


 湖のほとりでは、巨大な水鳥の姿をした「湖の女王」が佇んでいた。

 彼女は、エレインがギルを連れて現れたことに驚いたが、エレインが持参した「最高級の魔力インク」で、湖の浄化を助ける新たな『環境保護契約書』をその場で書き上げると、いたく感動した。


『あぁ、翻訳官。貴女が綴る言葉は、私たちの魂を撫でるように心地よいわ。……お願い、もう少しここに居て。貴女に聞かせたい物語がたくさんあるの』


 エレインは湖のほとりで、女王が語る古の神話に耳を傾け、それを人間たちの言葉ではなく、精霊たちの「正当な記録」として羊皮紙に残していった。


 数日後、彼女が湖を去ろうとすると、女王から一房の「真珠色の羽」を授かった。

「これを身につけていれば、世界のどこの水辺でも、貴女は私たちの最上の友として歓迎されるでしょう」


 旅を続けるにつれ、エレインの周囲はますます賑やかになっていった。

 行く先々で、彼女は「困っている精霊」と出会い、彼らの権利を侵害する魔物や、無礼な人間とのトラブルを「契約(対話)」で解決していった。


 断崖絶壁に咲く花を愛でるために、雲を操る「雷雲のサンダーバード」と交渉し、空中散歩の契約を結ぶ。

 古い遺跡の奥深くに眠る「石の巨人」の背中に溜まった埃を払い、代わりにかつての王族の秘宝を譲り受ける。


 気づけば、彼女の後ろには――

 先導役の雪狐、ギル。

 灯り代わりの光の妖精、ルル。

 荷物を運ぶ小柄な岩の精霊、コロ。

 そして、空を行く時は巨大な羽を広げる雷鳥。


「……かつての部屋よりも、ずっと賑やかですね。少し、騒がしすぎるくらいですけれど」


 エレインは、焚き火を囲みながら、自分を囲んで楽しげに踊る精霊たちを見て、ふっと微笑んだ。

 かつての彼女は、一度もこんな風に笑うことはなかった。

 今は、朝起きて「今日はどの景色を見ようか」と考えるだけで、胸が弾むのだ。



【五】 追っ手の来襲と、精霊たちの「お返し」


 だが、その平穏を破る影が忍び寄っていた。

 王都から派遣された、第一王子レオンハルト率いる追跡部隊である。

 彼らは、機能不全に陥った王国を立て直すため、エレインを連行し、強制的に契約を再開させようと躍起になっていた。


「見つけたぞ、エレイン! こんなところで、また化け物どもと遊んでいるとはな!」


 森の開けた場所で、レオンハルトと武装した兵士たちがエレインを包囲した。

 王子の顔は、寝不足と不潔な生活のせいで酷くやつれ、かつての傲慢な輝きは失われていた。


「さあ、今すぐ王都へ戻れ! ミアの祈りだけでは精霊が動かん。お前が、あの気味の悪い契約書をもう一度書きさえすれば、すべて元通りだ!」


 エレインは、ゆっくりと立ち上がり、冷めた瞳で王子を見た。

「……殿下。私はもう、あの国の翻訳官ではありません。私は今、精霊様方と『世界を知るための旅』をするという、私自身の人生の契約を結んでいるのです」


「黙れ! 力ずくでも連れて行く! おい、その化け物狐を殺せ! 邪魔だ!」


 兵士たちが剣を抜いた瞬間――。


 それまで静かにしていた森の空気が、一瞬で「死の咆哮」に変わった。


『……誰が、俺たちのエレインに触れていいと言った?』

 ギルが、巨大な氷の狼へと姿を変え、大地を凍らせる。


『僕たちの言葉を、こんなに美しく歌ってくれる人を……。お前たちのような泥臭い雑音にんげんに返したりしないよ』

 空からは雷鳥が急降下し、凄まじい放電で兵士たちの武器を弾き飛ばす。


 森の全域から、無数の精霊たちが顕現した。

 木の根は生き物のように動き、兵士たちの足を縛り上げる。

 水精霊は王子の頭上に巨大な水の塊を作り出し、一気に叩きつけた。


「ひ、ひぃぃっ! な、何なんだこれは! 精霊たちが、これほどまでの意思を持って……攻撃してくるなんて……!」


「……殿下、言ったはずです。精霊様方は、嘘と無礼を何よりも嫌われる、と。貴方は彼らを道具としてしか見てこなかった。……彼らは今、自分の意思で、私を守ってくれているのです」


 エレインが静かに言葉を発すると、荒れ狂っていた精霊たちの気が、ぴたりと収まった。

 彼らは皆、エレインの前に膝を折り、彼女の次の言葉を待っている。


「……行きましょう、皆さん。もう、ここには見たい景色はありませんわ」


 エレインが背を向けると、ギルが彼女をその大きな背中に乗せた。


「待て! エレイン! 戻ってくれ! 私が悪かった! 公爵家も、地位も、すべて返すから! この不便な地獄を終わらせてくれぇぇ!!」


 背後で聞こえる王子の見苦しい叫び声を、エレインは風の精霊に頼んで「消去」した。

 今の彼女にとって、そんな雑音は、旅の記録に書き残す価値さえないものだった。



【六】 旅の果て、世界の果てを目指して


 夕暮れ時。

 一行は、海が見下ろせる絶壁に辿り着いた。

 茜色に染まる海面に、巨大な「潮汐の精霊クラーケン」が浮上し、エレインに深海への招待状を差し出している。


「……海の底の景色、ですか。それはまだ、本でも読んだことがありませんわ。是非、案内してくださる?」


 エレインが微笑み、新たな「深海探訪契約」を書き始めると、仲間の精霊たちが我先にと「俺も行く!」「私も連れて行って!」とはしゃぎ始めた。


 氷の令嬢と呼ばれた翻訳官は、今、世界で最も多くの声に囲まれ、愛されている。

 彼女の旅は、まだ始まったばかりだ。

 これから出会う数えきれないほどの不思議と、まだ見ぬ精霊たちの物語。

 それを一文字ずつ、誰のためでもない、自分の楽しみのために、彼女は綴り続けていく。


 ――世界の果てで、最高の笑顔を浮かべるために。


最後までお読みいただき、ありがとうございます。


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評判良ければ連載します!!

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― 新着の感想 ―
その後、精霊の一人が恋人になるなら、恋愛カテゴリでいいけど、旅をして精霊の悩みを解いていくなら、カテゴリはハイファンが良いと思いました。 連載は見てみたいですね。
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