五話:自爆するな
病院の病室は、いつものように静かだった。白い壁、白いシーツ、白い天井。
すべてが無色に近い淡い光に包まれ、生きている証拠はただ、オルレアの微かな呼吸と、時折かすかに動く指先だけ。ベルリオーズは椅子に座ったまま、動かない。
二丁のスナイパーライフルは床に立てかけられ、背負うべき重さすら今は感じていない。
銀色の長髪が肩から滑り落ち、紫の瞳はオルレアの閉じた瞼を、まるでそこに自分の全てを注ぎ込むように見つめ続けている。どれだけ時間が経っただろう。
彼は一度も目を逸らさなかった。
オルレアの金色の髪が枕に広がり、天使の翼が力なく折りたたまれている姿を、胸の奥で何度も何度も刻み込んでいる。
それは痛みでもあり、愛でもあり、決して消えない誓いでもあった。
万能端末が、静かに震えた。『テロリストの目的が判明。滅びの儀式を行い、隔離都市を消滅させることが目的。儀式会場を破壊して、平和を取り戻す。すぐに行動してください』
赤い位置情報が点滅する。
ベルリオーズは端末を一瞥しただけで、すぐに視線をオルレアに戻した。
今、この瞬間、世界の終わりよりも大切なものは、ここにしかない。
「……ベルリオーズ……さん?」
掠れた声が、病室の空気を震わせた。ベルリオーズの体がわずかに動き、即座にベッドサイドに膝をつく。
オルレアの銀色の瞳は開かれているのに、何も映していない。焦点のない視線が虚空をさまよい、唇だけがかすかに震える。
「声は聞こえるけど……見えない。何も見えないの」「動けない……体が、私の言うことを聞いてくれない……」
呪詛の鎖。
科学の及ばない古い呪い。
解除の方法など、この都市には存在しない。
オルレアの声が、弱々しく続く。
「もう十分よ。あなたは私の命を助けてくれた。私を救ってくれた。それでいいじゃない。お願いだから、やめて」
ベルリオーズは静かに、しかし強く首を振った。
「君の体を治して見せる。必ず」
「ベルリオーズさん……私にはあなただけでいい。生きててくれれば……」
その言葉に、ベルリオーズの胸が激しく痛んだ。彼はゆっくりと手を伸ばし、オルレアの細い指をそっと握る。
冷たい。あまりにも冷たい。
それでも、その指先から伝わる微かな温もりが、彼の心を焼き尽くすように熱かった。
「オルレア」
名前を呼ぶ声は、低く、震えていた。
「俺はお前がいない世界なんて、考えられない。お前が笑う顔を見たい。お前が淹れてくれるお茶の匂いを嗅ぎたい。お前が歩いてくる足音を聞きたい。お前が俺の名前を呼ぶ声を、毎日聞きたい」
彼は言葉を重ねるように、ゆっくりと続ける。
「俺は、お前が天使の翼を広げて空を見上げる姿が好きだ。お前が誰かを疑いながらも、優しく微笑む顔が好きだ。お前が疲れて俺の肩に頭を預けてくる瞬間が、好きだ。お前が俺を信じようとしてくれる、その小さな勇気が、好きだ」
オルレアの唇が、かすかに動く。
涙が、銀色の瞳から一筋、頬を伝った。
「俺はお前を、ただの聖母なんかじゃないと思ってる。お前は俺の太陽だ。俺の理由だ。俺の生きる意味そのものだ。お前がいなくなったら、俺はただのエネルギー塊になる。爆発して消えるだけの、意味のない破片になる」
ベルリオーズはオルレアの手を両手で包み込み、額を彼女の手に押し当てる。
「だから、俺は戦う。お前が奪われたものを、全部取り戻す。お前の視界を。お前の自由を。お前の笑顔を。お前が俺を見て、俺がそこにいるってわかる世界を」
声が、わずかに詰まる。
「俺はお前を愛してる。この体が砕けても、このエネルギーが尽きても、お前を想う気持ちだけは、絶対に消えない。お前が俺の全てだ、オルレア。俺の命も、俺の未来も、俺の心も、全部お前のものだ」
長い沈黙のあと、ベルリオーズはゆっくりと身を起こし、オルレアの額に自分の額を寄せた。
二人の髪が絡み合い、互いの息が混ざり合う。
「待ってて。俺が必ず、治療方法を手に入れるから」
オルレアの唇が、微かに動いた。
「……約束。生きて、二人で生きるの」
ベルリオーズは頷き、彼女の額に優しく唇を押し当てる。それは祈りでもあり、誓いでもあり、別れのキスでもあった。立ち上がる。
背中のライフルを肩にかけ、エネルギーが体内で渦を巻き始める。高密度に圧縮された力は、いつでも爆発できる。
そして今、彼はその全てを、オルレアのために使う覚悟を決めていた。病室の扉を開ける前に、もう一度振り返る。
「愛してる、オルレア。生きて、帰ってくる。お前が待ってる場所に、必ず」
扉が閉まる音が響き、病室には再び静寂が訪れた。
ベッドの上では、金色の髪が枕に広がり、天使の翼が微かに震えていた。そして、彼女の唇が、誰にも聞こえない声で呟く。
「……私も、好きです。ベルリオーズさん。自爆は貴方を傷つけるから、しないでね」
テロリストの儀式会場へ。
最短、最速で。
全てを終わらせて、必ず彼女の元へ戻る。そのために、ベルリオーズは今日も、自分という存在を捧げることを選んだ。
愛のために。
ただ、それだけのために。
◆
空は重く灰色に覆われ、雲の隙間から差し込む光は薄く、冷たい。風が埃と鉄の焦げ臭を運び、遠くで何かが崩れる低い音が響く。
ベルリオーズはもう人間の姿を半ば失っていた。全身が高密度のエネルギー体と化し、コウモリの翼は半透明に輝きながら空を切り裂く。
銀色の長髪が激しくなびき、紫の瞳は一点――儀式会場の座標――だけを焼き付けるように見据えていた。胸の奥で、オルレアの記憶が繰り返し再生される。
病室のベッドで震える細い指。焦点を失った銀色の瞳から零れた一筋の涙。
「私にはあなただけでいい」と掠れた声で囁いた唇。
彼女の天使の翼が、力なく折りたたまれている姿。
あの冷たい手触り。
あの微かな体温。
それが彼の推進力だった。
爆発する前に、彼女の元へ戻る。それだけが全てだった。加速。空気が悲鳴を上げ、衝撃波が彼の周囲で渦を巻く。
地平線が歪み、儀式会場が急速に近づく。
円形の広場。
黒いローブを纏ったテロリストたちが、古い呪文を唱えながら陣を組んでいる。
中央に据えられた巨大な水晶が、禍々しい紫の光を脈打たせていた。
隔離都市を飲み込む「滅びの儀式」。
それを止めるために、彼はここへ来た。着弾。
大地が震え、爆音が世界を裂いた。
ベルリオーズの体が儀式の中心に突き刺さるように落ち、即座にエネルギーを解放する。
「皆殺しだ。自爆!!」
声は自分でも驚くほど低く、乾いていた。全身が内側から燃え上がる。骨が軋み、筋肉が溶け、皮膚が蒸発する痛み。
精神が四散し、視界が白く霞む。
それでも、彼はエネルギーを抑え込まずに放った。高密度に圧縮された光と熱が、放射状に広がる。
テロリストたちの悲鳴が一瞬だけ響き、次の瞬間、肉体が粒子となって消える。ローブが燃え上がり、水晶がひび割れ、地面が赤く溶け出す。
儀式の陣形が崩壊し、古い呪文の残響が空に吸い込まれるように消えた。爆発の中心で、ベルリオーズは静かに立っていた。いや、立っていると言えるかどうかもわからない。
体はすでに半分以上が光の粒子に変わり、輪郭が揺らぎ、透け始めている。
翼は先端から溶け落ち、銀髪の端が黒く焦げ、紫の瞳だけがまだ鋭く輝いていた。
足元は熱で歪んだ地面。
周囲は瓦礫の荒野と化していた。かつての建物は跡形もなく、鉄骨がねじ曲がって突き刺さり、コンクリートの巨大な破片が無造作に積み重なる。
地面は巨大なクレーターのように深く抉れ、中央部は黒くガラス化した鏡面が広がっている。
その表面に、爆発の残光がまだ鈍く反射していた。
あちこちでくすぶる火の粉。
焦げた布切れや、溶けた金属の塊が散乱し、煙が細く立ち上る。空気は熱く、重く、肺を焼くように苦い。
遠くで崩落する音が続き、静寂がゆっくりと、しかし確実に訪れていた。ベルリオーズはゆっくりと膝をついた。
体が崩れ落ちる前に、片手で地面を掴む。指先が瓦礫に食い込み、そこから淡い光の粒子が零れ落ちる。
血ではない。ただの、エネルギーの残滓。
「終わったか」
声は掠れ、ほとんど風に溶けるようだった。彼はゆっくりと顔を上げた。
灰色の空の向こうに、病院があるはずだ。
オルレアの病室。
白いシーツに広がる金色の髪。
天使の翼が微かに震える姿。
彼女が待っている。
「待ってて、オルレア」
最後の言葉を呟き、体が完全に光の粒子へと分解し始めた。
視界が狭くなり、世界が遠ざかる。
それでも、最後まで瞳は彼女の方を向いていた。愛は爆発とともに消えるものではない。ただ、形を変えて、彼女の元へ届くのを待つだけだ。瓦礫の海に、静かな風が吹き抜けた。
黒く輝く爆心地に、微かに残る一筋の銀色の髪の残骸。そして、風に舞う光の粒子が、ゆっくりと空へ昇っていく。それは、まるで約束を果たすための、最後の旅路のようだった。
「やぁ、凄いね。凄いエネルギー量だ。そもそも自らエネルギーを発生させているのだから、当たり前かな? 隔離都市に存在してはいけないスタンスだ」
「誰?」
「僕はマリス・スフィア。隔離都市の外にある幻想大陸出身の人間さ」
マリスは人の良さそうな笑みで笑った。




