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マンデリンは甘くない

「いらっしゃい、みなと。今日は顔色が悪いな」

重厚な木の扉を開けると、深煎りの豆が放つ香ばしい匂いと共に、店主の相澤あいざわが声をかけてきた。

季節外れのアロハシャツ。その派手な色合いとは裏腹に、彼のハンドピック(豆の選別)は極めて繊細だ。ここ、コーヒー豆専門店『ai』は、かつて喫茶店だった店舗を居抜きで使っており、カウンターやテーブル席が当時のまま残されている。

この店は、定番のブレンド以外にも、その時期に最も出来の良い豆を月替わりで仕入れている。豆は農作物だ。気温や雨量、土壌の変化で味が変わる「変数」の塊だ。それを相澤という職人が厳しく選別し、焙煎という関数を通して解を出している。

だから、ここでのオーダーには一種の緊張感が伴う。

「今週は納期前でしてね。……頭のノイズを除去したい」

私はスツールに腰を下ろし、黒板に書かれた今月のラインナップを一瞥してから、相澤に向き直った。

「今の『苦味系』で、一番スペックが高い……いや、状態の良いものは?」

「ガツンとくるのがいいなら、今月入った東ティモールだな。今年のクロップは当たりだ。深煎りにしても個性が死んでない」

「いいですね。それをドリップで」

「あいよ」

注文を終えると、店員の芽衣めいがパタパタと駆け寄ってくる。

「木島センパイ、お疲れですねー。あ、東ティモールにしたんですか? さすが、目ざとい!」

「店長の顔を見て決めただけだ。自信がある時はサングラス……じゃなくて、目が笑ってる」

「よく見てますねえ。あ、そうだ。その東ティモールのPOP描いたんですけど、誤字ないか見てくれません?」

「俺は校正係じゃないんだが」

「いいじゃないですか、理系男子の緻密なチェックをお願いしますよ」

彼女は私より数歳年下だが、この店の看板娘として相澤を支えている。彼女の明るさは、静謐な店内のいいアクセントだ。

心地よい喧騒の中、カラン、とドアベルが鳴った。

入ってきたのは、常連の真壁まかべさんだった。

五十代半ば。常に仕立ての良いスーツを着こなし、背筋が伸びている。精密部品メーカーの検査部門に勤めていると聞いたことがある。

私は毎回違う「旬」を楽しむが、彼は対照的に、ここ数ヶ月ずっと同じ豆、同じ飲み方を求め続けている。変化を嫌う、規律正しい生活の体現者のような人だ。

「いらっしゃいませ、真壁様。いつものマンデリンでよろしいですか?」

芽衣が明るく声をかけると、真壁さんは無言で小さく頷いた。

その動きにはいつもの切れがなく、顔色は土気色に見える。視線も、どこか中空を彷徨っているようだった。

相澤が丁寧にドリップしたマンデリンが、真壁さんの前に置かれた。

深緑の森を思わせる、力強い苦味とハーブのような香り。真壁さんはそれを愛していたはずだ。

しかし、彼はカップに口をつけない。

代わりに、カウンターに置かれたガラス瓶に手を伸ばした。中に入っているのは、相澤こだわりのキビ砂糖だ。普段、ブラック派の真壁さんが見向きもしない代物だ。

「……?」

芽衣が不思議そうな顔をして、私の顔を覗き込む。

真壁さんは瓶の蓋を開けると、銀色のスプーンを突き刺した。

一杯、二杯、三杯。

さらさらとした茶色の砂が、黒い水面へと吸い込まれていく。山盛りの砂糖が沈んでいくのを見つめる彼の目は、焦点が合っていない。まるで、何かの実験結果を待つような、張り詰めた眼差しだ。

そして彼は、スプーンをカタリと置くと、一度もカップを持ち上げることなく立ち上がった。

「……代金は、ここに」

震える声で千円札をカウンターに置くと、逃げるように店を出て行ってしまった。

残されたのは、溶けきらない砂糖が底に沈殿し、琥珀色に変わり果てたマンデリンだけだった。


「な、なにごと……? 私、何か失礼なことしたかな」

芽衣がおろおろと真壁さんのカップを覗き込む。

「抽出は完璧だったはずだ。豆の状態も悪くねえ。温度も適正だ」

相澤もサングラスのような色の濃い瞳を細めて、腕組みをした。

そして、二人の視線が同時に私に向いた。

私は嫌な予感がして、手元の東ティモールを両手でガードするように持ち直した。

「……なんだよ」

「湊。お前の見立てはどうだ?」

「勘弁してください。俺は今日、仕事のスイッチを切りに来てるんです。他人の不可解な行動のエラー解析なんて、業務外だ」

私は露骨に視線を逸らし、コーヒーの香りに逃避しようとした。面倒ごとは御免だ。特に、人間の感情が絡むトラブルは、機械のトラブルよりも遥かにデバッグが難しい。

「そんなこと言わないでくださいよ、木島センパイ!」

芽衣がカウンターに身を乗り出し、懇願するような目で私を見る。

「真壁さん、あんなに追い詰められた顔して……。もし私の接客が原因だったらどうしようって、胃が痛いんです。センパイなら、何か気づいてるんでしょ?」

「気づいていても、それはただの推測だ。責任は持てない」

「推測でもいいから聞かせてくれ」

相澤が低い声で割り込んだ。いつもの軽口を叩く様子はない。

「あの人は、大事な常連だ。もし店側に落ち度がないなら、何か別の理由があるはずだ。……お前は、機械の故障原因を探る時、『現象』から『原因』を辿るのが得意だろう?」

相澤は私のエンジニアとしてのプライドをくすぐるツボを知っている。

「……人間の心は、仕様書通りには動かないんですよ」

私はため息をつき、諦めてカップを置いた。この二人相手に、沈黙を守り通すのは骨が折れる。

「わかった、わかりましたよ。……少しだけ、整理してみよう」

私は仕方なく、真壁さんが残していったカップを引き寄せた。

「芽衣ちゃん、このカップの中を見てごらん。砂糖はどうなってる?」

芽衣は恐る恐る中を覗き込む。

「……底に溜まってます。山みたいに」

「そう。いわゆる『安息角あんそくかく』を保ったままだ。つまり、彼は砂糖を入れてから、一度もかき混ぜていない」

「かき混ぜていない……」

「ここから可能性を分岐させる。一つ目、単なる気まぐれや激甘党への転向。二つ目、店への嫌がらせ。三つ目、何か別の意図」

「嫌がらせ……ですか?」芽衣が悲しそうに眉を下げる。

「いや、その線はバグだらけで成立しない。嫌がらせなら、もっと派手なことをするか、明確にクレームをつけるはずだ。それに、もし味が気に入らなくて砂糖を入れたのなら、普通はかき混ぜて飲む。飲まずに金だけ置いていくのは、コストパフォーマンスが悪すぎる」

「じゃあ、急に甘いものが飲みたくなったけど、急用を思い出して帰ったとか?」

「それなら『急用ができた』と言えばいい。それに真壁さんは几帳面な人だ。飲みもしないコーヒーに砂糖を三杯も入れて放置するような『無駄』を一番嫌うはずだ」

私はスプーンを手に取り、照明にかざして光の反射を確認した。

「ヒントは、あの『三杯』という量と、『混ぜなかった』という矛盾した行動にある」

「どういうことだ?」相澤が身を乗り出す。

「ブラック派の人間が砂糖を入れる時、一杯なら味変だ。二杯なら疲労回復かもしれない。だが、三杯入れて、しかも混ぜない。これは『味』を求めている行動じゃない」

私は静かに、最も残酷で、しかし最も論理的な結論を口にした。

「彼は、味を求めたんじゃない。『味覚』が存在するかどうかを確認したかったんだ」

二人が息を飲む気配がした。

「ここ数週間、真壁さんは急激に痩せていたし、以前店内でメモを取っていた時、ペンのインクが出ないのにしばらく書き続けていたことがあった。集中力の低下、あるいは感覚の麻痺。過労やストレスが閾値いきちを超えている兆候だ」

私はカップの底の砂糖の山を指差した。

「おそらく彼は、前回ここに来た時から違和感を持っていたんだ。『大好きなマンデリンの味がしない』という違和感を。だから今日、それを確かめに来た。ブラックの苦味を感じ取れなかった彼は、恐怖したはずだ。だから、最後の手段に出た」

「それが、砂糖……」

「ああ。苦味がダメなら、もっとも分かりやすい『甘味』なら感じるかもしれない。一杯入れた。甘い匂いがしない。二杯入れた。まだ分からない。三杯目……そこで彼は手を止めた」

「どうしてですか? 混ぜて飲めば、甘さを感じられたかもしれないのに」

「混ぜる前に、心が折れたんだと思う」

私は淡々と事実を並べた。「山盛りになった砂糖を見て、視覚的な情報として突きつけられたんだ。『これだけ入れても、甘い香りすら感じ取れない自分』という事実をね。エンジニア的に言えば、センサーが完全に故障していることをデータとして目の当たりにして、テストを中断したんだよ」

店内が静まり返る。

コーヒーの香りが、今は少し切なく漂っている。

「そんな……。ここを拠り所にしてくれてたのに」

芽衣が呟いた。

「拠り所だからこそ、だ」私は言った。「自分が自分でなくなるような感覚を、一番信頼している場所、一番好きな味で突きつけられるのは……何よりも辛いエラーだ」


数日後、芽衣は会員カードの連絡先を頼りに、真壁さんに連絡を取った。

あくまで『新しい豆の試飲モニターのお願い』という、真壁さんのプライドを傷つけない名目で。

再び店に現れた真壁さんは、以前よりもさらに肩が小さくなっているように見えた。

「わざわざすみません。……ですが、今の私には、モニターなんて務まりませんよ」

彼は自嘲気味に笑った。その笑顔は、ひび割れたガラスのように脆そうだ。

「真壁さん」

芽衣はいつもより真剣な表情で、しかし柔らかく微笑んだ。

「今日は、店長じゃなくて、私が淹れさせてもらってもいいですか?」

相澤が黙って頷き、場所を譲る。

芽衣が取り出したのは、いつものマンデリンの豆だった。しかし、彼女はそれを普段よりも細かく挽き、濃く抽出する。そして、手鍋で温めたミルクをたっぷりと用意した。

かつて喫茶店だった頃に使われていた、口の広いカフェオレボウル。

彼女はミルクの泡の上に、ピックを使って慎重に模様を描いていく。

完成して出されたのは、いつもの黒い液体ではなかった。

「これは……」

「マンデリンのカフェ・オ・レです。マンデリン特有のアーシーな香りとコクは、ミルクと合わせても負けないんです」

表面には、ラテアートで素朴な花が一輪、描かれていた。

コーヒーノキの花だ。花言葉は『一緒に休みましょう』。彼女なりのメッセージだろうか。

「真壁さん。今は無理して、ブラックの繊細な苦味と向き合わなくていいんです」

芽衣が言葉を添える。

「甘くても、ミルクが入っていても、マンデリンはマンデリンです。お疲れの時は、仕様を変更してもいいんです。自分を甘やかしてあげてください」

真壁さんは、震える手でボウルを持ち上げた。

鼻を近づける。ミルクの優しい甘い香りと、その奥にある野性味ある豆の香り。湯気の温かさが、彼の強張った表情筋を少しずつ緩めていく。

一口、啜る。

「……ああ」

真壁さんの目から、不意に涙がこぼれた。

「……温かい」

味は、まだ完全には分からないのかもしれない。けれど、温度と、喉を通る質感と、そして『ai』の二人が込めた思いは、確実に彼に届いていた。

「甘い気が、します。……不思議だな」


それから一ヶ月後。

長期休暇を取って入院し、治療に専念した真壁さんが再び店に現れた。

顔色は見違えるほど良くなり、憑き物が落ちたような表情をしている。

「いらっしゃいませ、真壁様」

「やあ、芽衣ちゃん、店長。……それに、木島君だったかな」

彼はカウンターに座ると、少し照れくさそうに、けれど穏やかな声でオーダーした。

「芽衣ちゃん。……あの時の、カフェ・オ・レを頼めるかな」

芽衣が目を丸くし、それから嬉しそうに頷く。

「はい、喜んで!」

運ばれてきたボウルを、真壁さんは両手で包み込むようにして味わった。

一口、また一口。かつては恐怖の対象だった「味」を、今は慈しむように確かめている。

飲み干すと、彼はふう、と満足げな息を吐いた。

「うん、優しい味だ。……君のおかげで、たまにはこうして自分を甘やかすことも覚えたよ。機械も人間も、適切なメンテナンスと『遊び』が必要なんだな」

「はい! 息抜き、大事です」

真壁さんは空になったボウルを愛おしそうに撫で、それから背筋をピンと伸ばし直した。

そして、相澤に向かって真剣な眼差しを向ける。

「さて。……では店長。いつものを頼むよ。やっぱり私は、あのマンデリンの苦味がないと締まらない」

「あいよ。おかえり、真壁さん」

相澤がニヤリと笑い、アロハシャツの袖をまくる。

再び店内に満ちる、深緑の森のような芳醇な香り。真壁さんは出されたブラックコーヒーを、今度は迷いなく口に運んだ。

私は、カウンターの隅に下げられたカフェ・オ・レのボウルに視線を落とした。

かつて、そこには溶けきらない砂糖が「拒絶」の証として沈殿していた。

だが今は、飲み干された器の底に、白いミルクの泡がわずかに残っているだけだ。

ボウルの内側に不規則に残るその白い跡は、長い冬を覆っていた雪が解け、春の地面が顔を出した時の模様に似ていた。


「……仕様変更も、悪くないな」

誰にも聞こえない声で呟き、私は手元の東ティモールを飲み干す。

今日のコーヒーは、いつもより少しだけ、後味が澄んで感じられた。

それはきっと、私の体調が良いからだけではないだろう。

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