第7話 唯一な日々のつづき
あのベンチでパンの本をひらいてから、いくつかの日が過ぎた。
川べり図書館の朝は、とくに劇的な変化もなく続いている。
返却ポストを開ければ、本とチラシと、ときどきCD。
ガラス扉の向こうには、いつもの顔ぶれ。
新聞のおじいさんと、絵本の親子と、調べものの学生。
それでも、わたしの目のうしろには、いつもどこかに「向こう側」が貼りついている。
川向市立図書室。
水の底に見えた、もうひとつの棚。
パンの本の余白に浮かんだ「おはようございます」。
あれから返却ポストを開けるたびに、ほんの少しだけ息を止める癖がついた。
青い封筒がもう一通入っているかもしれない、と思ってしまうからだ。
けれど、いまのところ、ポストから出てくるのは、ちゃんとこの町の人たちの現実的な暮らしに必要なものばかりだ。
延滞のおわびのメモ。
行事のお知らせ。
誰かが返し忘れていたしおり。
川向市立図書室からの手紙は、一度きり。
あの厚手の紙は、職員用ロッカーの中のファイルに挟んである。
「業務連絡」というラベルのついたファイルの、一番うしろのポケットだ。
きょうもまた、返却ポストを開ける。
コトン、と小さな音がして、本が一冊落ちてきた。
こどもコーナーのシールが貼られた、絵本だった。
表紙には、大きなアリが描かれている。
何度も借りられてきた本で、背表紙の端は少しだけすり切れている。
いつものようにトートバッグに入れ、館内の灯りを点けてから、カウンターで返却処理をする。
貸出記録を見て、わたしはふと手を止めた。
最終貸出者の名前は、知らない苗字だった。
この町ではあまり見かけない字だ。
住所を確認すると、川の向こう側の地名が表示される。
川向市ではない。
けれど、川を挟んだ向こう側の町名に似た字が並んでいた。
もともと、うちの図書館には隣の町から来る利用者も少なくない。
川を渡ってここまで来る人もいる。
それ自体は、べつに不思議なことではない。
ただ、きょうこのタイミングでその字面を見ると、胸のどこかがかすかにざわついた。
絵本を手に取り、奥付を開いてみる。
そこには、見慣れた印刷がされていた。
――発行所:○○出版
――印刷・製本:○○印刷
――蔵書印:町立川べり図書館
どこにも「川向市立図書室」の名前はない。
たぶん、この本は、あちらとは関係がない。
それでも、ページをめくって確かめてみたくなる。
厚めの紙に描かれたアリは、行列を作って歩いている。
パンくずや砂糖の粒をかついで、土のトンネルと地上を行ったり来たりしている。
物語は、小さな冒険と、小さな帰り道でできていた。
最後のページを閉じる前に、わたしは一枚だけ手を止めた。
行間のあいだに、薄い線で何か書き込まれているように見えたからだ。
目を近づける。
――ここにも、一匹だけ。
鉛筆で書かれたその文字は、すぐそばのアリの絵と同じくらい小さかった。
誰かがいたずら書きのように書き足したのだろう。
よく見ると、そのアリだけ、ほんの少しだけ大きく描かれている気がする。
わたしは思わず、くすりと笑った。
この本の「唯一」は、たぶんそこなのだろう。
たくさんのアリの中の、一匹だけ。
たくさんのページの中の、その行だけ。
鉛筆書きの文字は、消そうと思えば消しゴムで簡単に消せる。
けれど、わたしは消さないことにした。
ルールを守ることと、「唯一なもの」を残しておくことのあいだで、今日は後者を選んでみる。
――「唯一」であることを求めてくる本を見つけたときには、どうか、そちら側の判断で残すべき場所を選んでください。
川向市立図書室からの手紙の一節が、頭の中でひとりでに開かれる。
絵本の小さな一匹は、別に川を渡りたがってはいない。
この町の子どもたちの指で、あと何度もなぞられればいい。
わたしは絵本をこどもコーナーの棚に戻した。
アリの背中が描かれた背表紙が、ほかの本の間にちょこんと顔を出す。
棚の前を通りかかった親子が、それを手に取るかどうかは、きょうのわたしには決められない。
カウンターに戻る途中、窓の外の川が目に入った。
水面は、きょうもちゃんと流れている。
向こう岸には、コンビニと家の屋根と、たぶんどこかに、あの日のベンチもある。
それからの数日、返却ポストからは、特別な本も、封筒も現れなかった。
その代わり、別の小さな「唯一」がいくつか現れた。
たとえば、誰も借りたことがないまま何年も棚にいた古い詩集が、ある日突然三人続けて借りられていった。
たとえば、タイトルシールの印字が少しだけずれている本が見つかって、それを「ずれてるほうが可愛い」と言って借りていく人がいた。
たとえば、貸出カードの端に、小さな四つ葉のシールを貼っていく利用者がいた。
どれも、「世界の仕組みを変えるほどではないけれど、その人にとってはその日を変えてしまう出来事」だった。
わたしは、それらを全部ひっくるめて、「きょうの唯一」と呼ぶことにした。
朝、返却ポストを開けるとき。
昼、カウンターに立つとき。
夜、蛍光灯を消すとき。
一日のどこかで、ひとつだけ印をつけたい瞬間を探す。
ときどき、それが「本」ではなく「人」になる日もある。
貸出延長の電話の声。
ちいさな「ありがとう」。
返却期限を一日だけ過ぎてしまって、やたらと真面目にお詫びしてくる人の顔。
川向市立図書室からの手紙には、「いくつかの唯一な日で、ゆっくりとつながっていきます」と書かれていた。
その「いくつか」が、何回ぶんを想定しているのかは、いまだに分からない。
かぞえることもできる。
あの青い本。
橋の真ん中の夜。
川べりのベンチでの十分間。
アリの絵本の一匹。
でも、たぶん、全部を数字にしてしまう必要はない。
唯一であるということは、「ほかと比べられない」ということでもあるのだから。
閉館時間が近づいたころ、窓の外はゆっくりと夕方の色になった。
川面が、薄いオレンジをまといはじめる。
カウンターの上で、貸出用のスタンプが、きょう最後の音を立てた。
「そろそろ閉めましょうか」
館長の声は、いつもより少しだけやわらかかった。
わたしは「はい」と答え、館内放送のスイッチを押す。
「本日はご利用ありがとうございました――」
自分の声が、天井と棚のあいだを一度巡ってから、静かに消えていく。
そのあとで訪れる静けさを、わたしは前よりも少し好きになっている自分に気づいた。
二階の見回りのついでに、あの青い本の棚の前で立ち止まる。
『川の向こうで読む本』は、ちゃんと一冊だけそこにある。
背表紙を指先でなぞり、ページを開かずに戻す。
――返却済み。
最後のページの、その一言だけが、ちゃんとそこにあると分かっているから、いちいち確かめなくてもいい。
電気を消し、鍵をかけ、図書館を出る。
ガラス扉に映った自分の姿は、少し前とほとんど変わらない。
名札のついたカーディガン。
肩にかけたトートバッグ。
歩きやすい靴。
それでも、その中身には、少しずつ違う日々が溜まってきている。
川べりの道を、家とは反対側に少しだけ歩く。
橋までは行かない。
ベンチのほうにも行かない。
ただ、川の音がよく聞こえる場所まで行って、立ち止まる。
空は、すこしだけ群青色を帯びていた。
向こう岸の灯りが、ひとつ、またひとつと点いていく。
その中のどこかに、きょうも本をひらいている誰かがいるのかもしれない。
わたしは川に向かって、小さな声で「おやすみなさい」と言ってみた。
川が返事をしてくれるわけではない。
それでも、水面がほんの少しだけ揺れたような気がして、じゅうぶんだった。
「唯一な日々」という言葉は、最初は少し大げさに聞こえた。
でも、こうして一日一日を重ねていると、案外どの日も、それなりに唯一であることが分かってくる。
同じような本。
同じような顔。
同じような川。
その中にある、ほんの少しの違いを見つけることが、わたしの仕事であり、たぶん、わたしの暮らしでもある。
明日もまた、返却ポストを開ける。
そこから出てくるものが、ただの本であっても、ちょっとおかしな本であっても、まずは両手で受け止めてみる。
そして、その日のどこかにある「唯一」を、そっと心の片すみに挟んでおく。
そうやってページをめくるみたいに日々を重ねていけば、そのうち、川のこちらと向こうのあいだに、気づかないうちに一冊ぶんくらいの物語がたまっているかもしれない。
そんなことをぼんやり考えながら、わたしは川に背を向けて、いつもの帰り道を歩き出した。
足音は、いつもどおり。
空気も、だいたい同じ匂い。
ただひとつだけ違うのは、きょうという日が、もう二度と戻ってこないということを、
わたしが前より少し、はっきりと知っている、ということだった。




