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井辺杉花蓮さんの唯一な日々。―― 川べり図書館で「一度きり」をあつめる話  作者: 髙橋P.モンゴメリー
第一章 井辺杉花蓮さんの唯一な日々。

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第5話 川べり図書館からの手紙

目が覚めたとき、いつもより少しだけ、静かだった気がした。




 川の音も、車の音も、遠くの犬の鳴き声も、ちゃんとあるはずなのに、どこか布越しに聞いているみたいに遠い。


 枕元の時計は、いつもどおりの時刻を指していた。


 わたしは上半身を起こし、カーテンを少しだけ開けた。




 空はうすい曇りだった。


 雨の気配も、晴れの期待も、どちらもない。


 川のほうから吹いてくる風だけが、きょうも仕事があると言っているみたいだった。




 顔を洗って、トーストを一枚かじり、コーヒーを飲む。


 いつもと同じ手順。


 いつもどおりにしておきたい、という気持ちが、いつもより強かった。




 橋に向かう道を歩くとき、わたしは無意識に歩幅を数えていた。


 一、二、三、四。


 角を曲がって、川が見えるところまでで三十四歩。


 そこから橋のたもとまで、さらに十五歩。




 きのうと同じ川が、きのうとはすこし違う顔をして流れていた。


 水面は少し濁っているけれど、夜の暗さはもう残っていない。


 橋の上まで来て、欄干に手を置く。




 深く息を吸い込んでみる。


 胸の奥に、薄い緊張の残りかすがある。


 青い本は、もうここにはいない。


 そのかわりに、川の向こう側に増えた一つの灯りのことを、わたしは覚えていた。




 今朝の向こう岸は、ただの家並みに戻っている。


 コンビニの看板が光っているだけで、きのう増えていたあの小さな四角い光は見えない。


 夢だったと言われれば、そうかもしれない、と思える程度の違いだ。




 それでも、橋の真ん中で一瞬だけ足を止めてしまう。


 何も落とさずに通り過ぎれば、それでいい。


 わたしは自分にそう言い聞かせて、図書館へ向かう道を歩き出した。




 図書館の前に着くと、いつものようにガラス扉の鍵を開ける前に、返却ポストのほうへ回る。


 きょうは、金属の蓋を開ける手つきが、ほんの少し慎重になっていた。




 取っ手を引く。


 ひんやりした金属の感触が、指先にまとわりつく。




 コトン、と小さな音がした。


 落ちてきたのは、一冊の文庫本と、折りたたまれたチラシ、そして、薄い封筒だった。




 文庫本とチラシは、いつもの返却物とお知らせだ。


 ただ、その中に混ざるようにしていた封筒は、見慣れないものだった。


 切手は貼られていない。


 表にも裏にも、宛名は書かれていない。




 手に取ってみると、封筒の表側の端っこに、小さなスタンプが押されていた。




 ――町立川べり図書館 受領印。




 うちの図書館で使っているスタンプと、まったく同じデザインだった。


 ただ、インクの色だけが、いつもと違う。


 わたしたちが使っているのは濃い赤だが、封筒に押されたそれは、少し滲んだ青だった。




 わたしは返却物をトートバッグに入れ、封筒だけを手に持ったまま、ガラス扉のほうに戻った。


 鍵を開ける音が、いつもより少し大きく聞こえる。




 電気をつけ、タイムカードを押し、カウンターに腰を下ろす。


 封筒を机の上に置き、しばらく眺めた。




 切手も、宛名もない。


 ポストではなく返却ポストから出てきたことを考えると、これはきっと「郵便」ではない。




 ――本のほうから届く手紙。




 そんな言葉が、ふっと頭に浮かんだ。




 封筒の口は、きっちりとのり付けされていた。


 指でなぞると、硬い紙の感触がする。


 中に何かが入っているのは、触ってみるまでもなく分かった。




 館長が来る前に、開けてしまおうか。


 それとも、誰かに見てもらったほうがいいのか。




 少し迷ったあと、わたしはハサミを使わずに、封筒の端をそっと引っぱってみた。


 抵抗は思ったよりも弱く、紙はあっさりと開いた。




 中から出てきたのは、一枚の厚手の紙だった。


 色は、わたしがきのう川に落としたメモ用紙よりも、すこしだけクリーム色に近い。


 紙の端は、古い図鑑の見返しみたいに、ほんのりと黄ばんでいる。




 その中央に、整った文字が印刷されていた。




 ――川べり図書館 井辺杉花蓮様




 自分の名前が、きちんとした活字で印刷されているのを見るのは、奇妙な感じだった。


 招待状のようでもあり、通知のようでもある。




 その下に、本文が続いていた。




拝啓


川のこちら側より、ご挨拶申し上げます。




『川の向こうで読む本』のご返却、たしかに受け取りました。


おかげさまで、こちら側の棚にも、一冊だけが残る状態に戻りました。


そちら側の棚も、いまはきっと、一冊きりになっていることと思います。




本来、本というものは「唯一」である必要はありません。


同じ本が何冊あっても構わないし、増刷されれば、それだけ手に取る人が増えるだけです。


それでも、ときどき世界には、「一冊でなければならない本」というものが現れます。


あの本は、そのうちのひとつでした。




 そこで、一度行が空いていた。




きのうの夜、橋の上から水の上を覗き込んでいたあなたのことを、こちらからも見ていました。


指先から離れていく本を、最後まで見送ってくださったことに、お礼を申し上げます。




あなたが手を離さなかった場合の記録も、こちらには残っていますが、それは別の棚の話になりますので、今は触れません。




 「別の棚」という言い方に、わたしは小さく息を呑んだ。


 別の世界、ではなく、別の棚。


 図書室らしい言い回しだと思った。




 本文はまだ続いていた。




こちら側の図書室は、川向市立図書室と申します。


形も大きさも、棚の並びも、おそらくそちらの町立川べり図書館とよく似ています。


このたび、一本の本を通じて、ようやく正式にご挨拶することができました。




さしあたってのお願いは、ひとつだけです。




「唯一」であることを求めてくる本を見つけたときには、どうか、そちら側の判断で残すべき場所を選んでください。




あなたが「ここだ」と思う場所が、おそらくその本にとっての正しい棚になります。


それは、わたしたちにとっても、とても都合がよいのです。




 そこで、また行が空き、最後の段落が現れた。




追伸


川のこちらとそちらは、いくつかの「唯一な日」で、ゆっくりとつながっていきます。




もしよろしければ、明日の午前十一時、川べりのベンチで本を一冊ひらいていてください。


どの本でも構いません。




こちら側の誰かも、同じ時間に、同じように本をひらいています。




それは、挨拶のかわりのようなものです。




川向市立図書室


 司書  向井




 最後の行を見た瞬間、わたしは思わず息を止めた。


 「向井」という苗字は、きのうカウンターに立っていた男性と同じだ。


 けれど、この手紙の文体は、あの人の話し方よりも、もう少し整っていて、どこか遠くから届いているような感じがした。




 館長が裏口から入ってくる音がして、わたしはあわてて紙をとじた。


 厚手の紙は、折り目をつけるには惜しくて、そのまま封筒に戻す。




「おはよう」




「おはようございます」




 いつもと同じ挨拶を交わしながらも、胸のどこかで、さっき読んだ最後の一文がまだ熱を持っていた。




 ――明日の午前十一時、川べりのベンチで本を一冊ひらいていてください。




 明日。


 午前十一時。


 川べりのベンチ。


 どの本でもいい。




 図書館の窓から、川べりの遊歩道が小さく見える。


 そこにあるベンチは、古い木製で、少しだけ斜めに傾いている。


 雨の日には人気がなく、晴れた日には子どもたちがアイスを食べ、夏にはすこし熱くなる。




 あのベンチに座って、本を一冊ひらく。


 ただそれだけのことだ。


 誰かに見られても、不自然ではない。


 逆に、期待しすぎると、何も起きないような気もする。




 きょうの「唯一」は、まだ決まっていない。


 返却ポストから出てきた手紙は、たぶん予告編みたいなものだ。




 わたしは封筒を引き出しにしまい、ふたを静かに閉めた。


 明日の十一時に、あのベンチでどの本をひらいているか。


 それを決めるのは、きっときょう一日のどこかの瞬間になるだろう。




 川べり図書館の朝は、いつもどおりに始まり、いつもどおりに人が出入りをはじめた。


 けれどわたしの頭の片隅では、明日の十一時のベンチが、まだ誰も座っていないまま、静かに用意されている気がしていた。

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