第4話 川の真ん中
橋の手すりに指をかけたまま、わたしはずっと同じ場所に立っていた。
右足を一歩でも前に出せば、いつもの帰り道になる。
左足を一歩でも引けば、何もなかったふりをして図書館に戻る道になる。
でも、今はどちらにも動けないでいる。
メモ用紙には、さっき増えたばかりの文字がある。
『あなたのいるほうに残してください
ただし、「戻す本」は水の上でしか開いてはいけません』
――水の上でしか開いてはいけません。
それはつまり、「ここで開きなさい」と言っているのと同じだ。
橋の真ん中。
見下ろせば、川は思ったよりも遠くまで続いている。
この町の地図にはちゃんと端っこが描かれているけれど、夜の川には終わりがないみたいだ。
わたしは本を胸に抱えなおし、ゆっくりと手すりのほうへ近づいた。
靴の裏が、アスファルトの小さな石を踏む音を立てる。
それだけが、この場面に自分が居合わせている証拠みたいだった。
深呼吸をひとつする。
冷たい空気が肺に入って、胸の内側をなぞるように通り抜けていく。
「……分かったよ」
誰に向かって言っているのか自分でも分からないまま、そうつぶやいた。
声は川の音に混ざって、あっという間にどこかへ流れていった。
欄干に両肘を預けるようにして、わたしは本を開いた。
ページの白さが、街灯の光をうっすらと返す。
紙の端は、さっき図書館で読んだときよりも、少しだけ湿っているように見えた。
最後の章まで、一気にめくる。
川向市立図書室の「わたし」が、橋の真ん中に立っている場面まで。
そこには、さっきまでの自分とよく似た姿が描かれていた。
川の上に架かった小さな橋。
水面に揺れる街灯の光。
胸に抱えた、一冊の青い本。
違うのは、ほんの少しの言葉遣いだけだ。
文章の中の「わたし」は、わたしよりも少しだけ決心が早い。
――わたしは、本を開く。
その一行のあとに続く文を、ゆっくりと目で追う。
そこには、「わたし」が見ている景色が描かれていた。
欄干の錆の色。
夜風の温度。
川べりの道を、遠くで自転車が通り過ぎていく音。
どれも、今この瞬間の自分の周囲と、ほとんど区別がつかない。
違うのは、ほんの小さなところだけだ。
文章の中では、橋の向こう側に、低い建物の影が見えている。
街灯の数が、こちらとは少しだけ違う。
対岸にあるはずのコンビニが、そこにはない。
わたしは顔を上げ、現実の向こう岸を見た。
いつも見慣れた看板が、ちゃんとそこに光っている。
それだけで、少しだけ安心する。
視線をページに戻す。
物語の「わたし」は、本をもう一段階開いていく。
そこにあるのは、図書室の見取り図みたいな一節だ。
――川の向こう側にある小さな図書室は、
こちらと同じ本棚を持っている。
ただし、そこに並ぶ本は、こちら側で読み終えられなかった言葉ばかりだ。
読み終えられなかった言葉。
わたしは自分の読書歴を早送りで思い出そうとした。
途中でやめてしまった本たち。
ブックカバーをしたまま貸出期限を過ぎた小説。
読みたいと思いながら、背表紙をなでるだけにしてきた本。
水の音が、少しだけ大きく聞こえた気がした。
ページの下のほうに、小さな段落がひとつ増えていた。
さっきまで読んだときには、なかったような気がする。
――橋の真ん中でこの本を開いた人へ。
そこで、わたしの指が止まった。
紙の手触りが、急に現実の皮膚とぴったり合ったような気がした。
文字は続いている。
――あなたがいま見ている水面は、
こちらからも、よく見えています。
もし、この本を戻すつもりがあるなら、
ページを閉じずに、そっと手を離してください。
そうすれば、この本は、
あなたのいるほうとは違うほうへ沈みます。
呼吸が、少し浅くなった。
ページの端をつまんでいる右手の指先に、自分の体重の一部が集まっているような感じがした。
ページを閉じずに、手を離す。
それはつまり、落とす、ということだ。
川の向こう側へ沈む、という表現は、少し不思議だ。
川に「こちら側」と「向こう側」があるのは分かるけれど、水の中にそんな境目があるのかどうか、想像が追いつかない。
それでも、文章はそう書いてある。
そしてこの本は、今日一日に限って言えば、わたしの予想よりも、文章のほうが正確に世界を説明してきた。
メモ用紙の感触を、もう一度たしかめる。
最後のページと裏表紙のあいだに挟まった紙は、風に揺れて、かすかにカサカサと音を立てていた。
――あなたのいるほうに残してください。
さっき読んだその一文が、頭の中でまた浮かんでくる。
わたしがいるのは、いまこの橋の上だ。
足は、こちら側と向こう側のちょうど真ん中にある。
わたしのいるほうは、どちら側だろう。
そんなことを考えているうちに、足元からじわじわと冷えが上がってきた。
橋の上の空気は、わたしと本と川だけで、十分にいっぱいだ。
「……分かった」
今度は、さっきよりも小さな声でそう言った。
誰に聞かせるわけでもないのに、言葉に出さずにはいられなかった。
わたしは両手を欄干の外側に伸ばした。
本は、川の上に突き出される形になる。
夜風がページを揺らし、紙が一枚だけひらりとめくれた。
その一瞬、わたしは水面に視線を落とした。
暗い川の中に、なにか形のようなものが見えた気がした。
棚。
窓。
机の上に積まれた本。
それは、うちの図書館の二階を、ぼんやりと水の底から覗き見ているみたいな光景だった。
そこにいる人の姿までは、はっきりとは見えない。
ただ、一つだけ、わたしと同じように橋の上から水面を覗き込んでいる誰かが、水の向こう側に立っているような気がした。
その誰かが、こちらを見ている。
わたしが、あちらを見ている。
眼と眼が合ったような気がした瞬間、わたしの指先から力が抜けた。
青い本が、ゆっくりと空中を移動していく。
落ちる、というよりは、誰かに受け渡すみたいな速度だった。
水面に触れた瞬間、音はほとんどしなかった。
薄い紙が水を受けるときの、くぐもったような気配だけが、手のひらの上に残った。
本はすぐには沈まなかった。
表紙を上にして、水の上に浮かんだまま、街灯の光をうっすらと映している。
メモ用紙が、その隙間から一枚だけ飛び出した。
風に煽られた紙は、水の上を滑るように少しだけ移動してから、静かに沈みはじめた。
本もゆっくりと、そのあとを追うようにして、青い背表紙を見せたまま、川の中に吸い込まれていった。
わたしは、なにも言えなかった。
ただ、欄干を握る両手に、自分の体重が戻ってくるのを感じていた。
水面には、すぐに何も残らなかった。
さっきまでそこにあった青い色も、紙の輪郭も、すべて水の底に回収されてしまったようだった。
ただ一つ、変わったものがあった。
川の向こう側に、灯りがひとつ増えていた。
さっきまで暗かったはずの場所に、小さな四角い光がぽうっと灯っている。
それは、誰かが読みかけの本の上にスタンドライトを点けたときみたいな、弱いけれどはっきりした光だった。
わたしはしばらく、その光から目を離せなかった。
コンビニの看板とは違う色。
家の窓とも少し違う位置。
あのあたりに、なにか建物があっただろうか。
考えてみても、はっきりしない。
ふと気がつくと、両手はもう震えていなかった。
かわりに、胸の真ん中がすこしだけ空いたような、軽くなったような、不思議な感じがしていた。
――あなたのいるほうに残してください。
わたしは橋の上で、自分の足元を見下ろした。
靴のつま先は、ちゃんとこちら側の舗装道路の上にある。
でも、さっきまで本を支えていた指の感覚だけは、どこか別の場所に置いてきてしまったみたいだった。
家に帰る道を歩きながら、何度か振り返って川を見た。
川面には、もう何も浮かんでいない。
向こう岸の小さな光だけが、そこにあるもののすべてのように見えた。
その夜、寝る前に、本棚の前に立った。
部屋の隅にある小さな棚には、わたしが昔から持っている本が並んでいる。
タイトルをひとつずつ目で追っていく。
そこに『川の向こうで読む本』という題名は、もちろんない。
当たり前だ、と自分に言い聞かせる。
あれは、図書館の本だったのだから。
ベッドに横になり、目を閉じる。
まぶたの裏側に、水面が揺れている。
橋の上から覗き込んだ川と、水の底から覗き返してきたような図書室の影。
もしも、あのとき手を離さなかったら、どうなっていただろう。
そんな問いが、何度か頭をよぎった。
でも、そのたびに、「それはきょうの『唯一な日』の外側の話だ」と思い直すことにした。
きょうの「唯一」は、あの橋の上で終わった。
明日になれば、また別の「唯一」がどこかで待っているのだろう。
わたしはそう自分に言い聞かせて、深く息を吐いた。
暗闇の中で、川の音は聞こえない。
代わりに、自分の心臓の音だけが、枕の中で小さく響いていた。




