第2話 川の向こうから来た人
どちらを棚に残して、どちらを手元に置くか。
階段を降りるあいだじゅう、わたしはそのことを考えていた。
結局、一階に着くころには、あまり深い理由もなく決めていた。
――棚にあったほうを、そのまま棚に戻す。
返却ポストから出てきたほうを、カウンターで預かる。
返却された本のほうが、紙の色がほんの少しだけ新しい。
きょう起きた「唯一なこと」は、たぶんこっち側にある気がした。
カウンターの横のワゴンに、本をそっと置いたところで、裏口の自動ドアが小さく開いた。
「おはよう」
館長の声は、いつも同じ高さで、いつも少しだけ眠たそうだ。
もう定年を過ぎているはずなのに、「人が足りないから」とそのまま残っている。髪は白く、目だけが若い。
「おはようございます」
わたしは笑ってあいさつを返す。
館長はタイムカードを押し、カウンターをひとまわり見渡すようにしてから、とくに何も言わずに自分のデスクに向かった。返却ワゴンの上に、淡い青の本が一冊乗っていることにも、気づいていないようだった。
開館時間になると、ガラス扉の外に、いつもの顔ぶれがぽつぽつと現れはじめる。
新聞を読みに来るおじいさん。
保育園の送りの帰りに、絵本を借りていくお母さん。
学校の図書室だけでは足りないらしく、毎週のように歴史の本を借りていく中学生。
ガラス扉を開ける音と、貸出カードのすれる音と、人の足音が、ゆっくりと図書館の空気に混ざっていく。
わたしはカウンターの椅子に座ったり立ったりしながら、いつもどおりに本を受け取り、本を渡した。
間に、あの青い本を何度か見た。
返却ワゴンの上で、ただ静かに待っている。
誰もその背表紙に目を留めない。タイトルを声に出す人もいない。
午前中のいちばん忙しい時間が過ぎると、図書館はいったん空気を薄くする。
わたしはカウンターの中で小さく伸びをしてから、さっきの本を手に取り、貸出記録をもう一度確認することにした。
画面に表示された名前は、「向井」とあった。
住所欄の一行目には、川をはさんだ反対側の地名が打たれている。
『川の向こうで読む本』というタイトルと、その住所の並び方は、ちょっとできすぎているようにも思えた。
貸出日は、一週間前の雨の日。
返却日は、昨夜の閉館後の時間。
ポストのガコンという音を、だれも聞いていないはずの時間。
わたしは貸出カードに書かれた会員番号と名前をメモして、画面を閉じた。
名前を見たところで、向井さんという人の顔が浮かぶわけでもない。
それでも、何かひとつ情報を手に入れた気がして、少しだけ胸が落ち着いた。
昼休みには、館長と交代で休憩をとる。
職員用の小さな休憩室で、おにぎりをひとつ食べ、インスタントのコーヒーを飲んだ。コップのふちをなぞりながら、わたしはついさっきの本のことを考える。
――同じ番号の本が二冊ある。
――貸した記録は、一冊ぶんだけ。
こういうとき、本当なら誰かに相談するべきなのだろう。
館長に、とか。市の図書担当の職員に、とか。
でも口に出した瞬間、この出来事がただの「管理ミス」や「システムの不具合」に変わってしまうような気がして、わたしは何も言わなかった。
どこかでそうなってしまうのは、たぶん仕方のないことだ。それでも、いまこの瞬間だけは、まだ「よくわからないこと」のまま手の中に置いておきたかった。
ちいさな不思議は、誰かに説明したとたん、たいていの場合ただの事務になってしまう。
午後一番。
ガラス扉の向こうに、見慣れない人影が立った。
黒い傘をたたみながら入ってきたのは、四十代くらいの男性だった。
仕事帰り、というには少し時間が早い。
背広ではなく、襟のついた薄いコートを着ている。川風に少しだけ晒されてきたような、湿った匂いがした。
「こんにちは」
カウンターに近づいてきたその人は、わたしを見るなり、きちんと頭を下げた。
声は低く、よく通る。
「こんにちは」
わたしも同じようにあいさつを返す。
男性はカウンターの端に立ち、わたしの胸元あたりにある名札をちらりと見た。
――井辺杉。
胸の上で、クリップ留めされた名札が、すこしだけ重く感じられた。
「あの」
男性が口を開いた。
言葉を探すように、視線が空中を泳ぐ。
わたしは手元の貸出機の電源を確かめながら、「はい」と短く答えた。
「変なことを聞くようなんですが」
変なこと。
きょうは、そういう言葉に敏感な日かもしれない。
「きのうの夜、『川の向こうで読む本』という本を返却ポストに入れたんですが」
わたしの背中を、小さな電気がびり、と走った。
さっき画面に表示されていた名前。向井。
この人が、たぶんその本人だ。
「はい、確認しました。返却されています」
なるべく普通の声で、そう答える。
男性はほんの少しだけ、ほっと息を吐いたように見えた。
けれど、その安心は最後まで落ち着く前に、どこかで引っかかったらしい。
「それでですね」
彼は言いにくそうに、言葉を足した。
「その本、今は……一冊、ですよね?」
一冊。
その言葉が、カウンターとわたしのあいだに、すこしだけ長く滞在した。
わたしは、返却ワゴンの上の青い本を見た。
それから、二階の窓際の棚の位置を頭の中で指さした。
「……どうして、そう思われるんですか?」
質問に質問で返すのは、本当はよくないのかもしれない。
でも、先にこちらが聞きたくなってしまった。
男性は少しだけ目を伏せ、それからまたわたしのほうを見た。
その目は、何かを確かめに来た人の目だった。怒っているわけでも、疑っているわけでもない。ただ、自分の中の答えと、外の世界の答えが同じかどうかを見に来たような目。
「……二冊になっている気がしたので」
「気がした、というのは?」
「すみません。うまく言えないんですが」
彼はポケットから、折りたたんだ紙を一枚取り出した。
白いメモ用紙。その端に、細い字で何かが書かれている。
「これ、あの本から出てきたものなんです」
わたしは紙を受け取り、そっと広げた。
そこには、万年筆のインクで、こう書かれていた。
――この本は、本当はここには一冊しかない。
それだけだった。
日付も、名前も、他の説明もない。
ただ、その一行だけが、紙の中央にまっすぐ立っていた。
「どのページから?」
「最後のページを閉じたときに、ぱらっと落ちてきました」
男性は、記憶をなぞるように言った。
声には嘘の気配はなかった。少なくとも、わたしにはそう聞こえた。
「それで、返そうと思って鞄に入れておいたんですが……返却ポストに本を入れたあとで、なんとなく気になって」
彼は図書館の天井を見上げるようにして、小さく肩をすくめた。
「もし君が、この紙の意味を知っているなら教えてくれ、と言われているような気がしたんです」
君、という言葉が誰を指しているのかは、書かれていなかった。
けれど、こうして向井さんがここに立っている以上、その「君」は、いまのところわたししかいないように思えた。
わたしは紙から目を離し、返却ワゴンの本を見た。
川の向こうで読む本。
淡い青のカバー。雨粒の跡。
「……こちらの本、今ここに一冊あります」
わたしはそう言って、ワゴンから本を取り上げた。
向井さんは、その背表紙をじっと見た。
何かを数えるように、ゆっくりとまばたきをした。
「もう一冊は?」
その問いは、知っていて聞く質問のようにも聞こえた。
わたしは一瞬だけ迷ってから、正直に答えることにした。
「二階の棚に、同じ番号の本が一冊あります」
向井さんの喉が、小さく鳴った。
驚いた、というより、やっぱりそうか、と納得したような音だった。
「そうですか」
彼は静かに息を吐き、その息の上に言葉を乗せた。
「やっぱり、増えてしまったんですね」
増えてしまった。
その言葉の選び方が、わたしの耳にひっかかった。
「……前にも、あったんですか?」
「ええ」
彼は図書館の外のほうを、ガラス越しにちらりと見た。
外には、灰色の川と、対岸の家々。その向こう側には、たぶん彼の生活がある。
「あの本は、もともと向こう側のものなんです」
「向こう側?」
自分の口から出たその言葉が、返ってきて宙に浮く。
彼は少しだけ笑った。自分でも変なことを言っていると自覚している人の笑い方だった。
「川の話です」
向井さんは、カウンターに指を一本だけ置いた。
その指先は、まるで見えない地図の上をたどっているようだった。
「本当は、川の向こうの図書室に一冊だけあるはずの本なんです。なぜか、ときどきこっち側に増えてしまう。増えたぶんだけ、どこかが少しだけおかしくなる」
少しだけおかしくなる。
わたしは、朝の返却ポストの感触を思い出した。
金属の冷たさ。紙の重み。二冊分のはずのない、ひとつの音。
「でも、図書室は……」
わたしは言いかけて、言葉をのみこんだ。
川の向こうに、図書室なんてあっただろうか。
子どものころからこの町に住んでいるのに、その記憶がはっきりしない。
「信じなくていいですよ」
向井さんが、先回りするように言った。
「ただ、お願いがひとつあります」
「お願い?」
「どちらか片方だけでいいので」
彼はわたしの手の中の本と、見えない二階の棚とを、交互に見ているような目をした。
「できれば、きょう中に決めてください。ここに残す本と、戻す本を」
「戻す本、というのは?」
向井さんは答えなかった。
代わりに、わたしがさっき受け取った紙を指さした。
「その紙は、君にあげます。たぶん、そのほうがいい」
そう言って、彼は会員カードをカウンターに滑らせた。
「きょうは別の本を借りて帰ります。……普通のほうを」
普通のほう。
わたしはその言葉を胸の内側で転がしながら、貸出機にカードを通した。
向井さんが借りていったのは、まったく別の小説だった。
著者名にもタイトルにも、「川」も「向こう」も入っていない、ごくありふれた本。レジ袋の代わりに布のバッグにそれをしまい、彼は丁寧に頭を下げて帰っていった。
ガラス扉が閉まる。
傘立ての横に残された水滴が、ゆっくりと床にしみていく。
カウンターには、青い本と、一枚の紙が残った。
――この本は、本当はここには一冊しかない。
きょうの「唯一」は、ひとつだけでは足りないのかもしれない。
そんなことを思いながら、わたしはメモ用紙をそっとたたみなおした。
川べりの図書館の午後は、何も知らない顔をして静かだった。
けれど、その静けさのどこかに、ごく薄いひびが一本だけ入ったことを、わたしははっきり感じていた。




