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優雅なテルマエの侵略者

 夜。就寝時間をまもなくした女子寮の大浴場は広く静かで、磨かれた石の壁に明かりが反射して淡い金色の輝きを散らしていた。大きな浴槽から立ちのぼる湯気は天井にまで届き、白い靄となって辺りを覆っている。外の冷えた空気と隔絶されたその空間は、柔らかな熱気に包まれ、別世界のような安らぎを漂わせていた。

 ベルナデッタは制服を脱ぎ、赤髪をほどいてゆっくりと湯に身を沈めた。白磁のように滑らかな肌が水面に映え、熱に染まった頬が薔薇色を帯びる。湯が彼女の肩を覆い、紅玉のような瞳がゆらりと湯気の向こうで光を宿した。長い指先が水面を撫でると、波紋が淡く広がり、光を散らして艶やかな曲線を描いた。

 濡れた赤髪は肩から胸元へと貼り付き、艶やかに光を反射している。華奢でありながらも女性らしい肢体の線は湯の中で柔らかに揺れ、湯面に浮かぶ小さな水滴が、鎖骨を伝い、白い肌を一筋の光のように流れ落ちる。そのたびに、彼女はひとつ、深く息を吐いた。

 温もりが全身を包み込むにつれ、先ほどまで胸を締め付けていた苛立ちや怒りが少しずつ溶けていく。けれど完全には消えない。赤い瞳はまだ陰を宿し、湯気の向こうでかすかに揺らいだ。ベルナデッタは膝を抱えるように身を寄せ、己の弱さを隠すように小さく身を縮めた。


「……情けないわね、わたし」


 吐息と共に漏れた言葉は湯気に溶け、誰の耳にも届かない。ここには彼女しかいない。だからこそ、ようやく見せることができる顔があった。強がりを脱ぎ捨てたその姿は、湯気の中に淡く滲んでいった。

 温かな湯に包まれながらも、ベルナデッタの胸は重さを抱えていた。瞼を閉じれば、先ほどのヨグの姿が思い浮かぶ。冷ややかな青の瞳、変わらぬ無表情、そしてただ「承知いたしました」と告げる従順さ。

 彼女は湯の中で指先をぎゅっと握りしめた。守られるのは嫌なのに、ヨグの存在に少なからず救われている。その矛盾が胸の奥で絡まり合い、苦しくてたまらなかった。

「強くあらねばならない」と思うたびに、「弱さを隠したい」と願うたびに、ヨグの影がついて回る。あの無表情は自分を突き放す壁なのか、それとも支えとなる柱なのか。赤い瞳に浮かんだ迷いを消そうと、ベルナデッタは湯気に紛れる吐息をひとつ落とした。


 そのとき、浴場の戸口から軽やかな足音が響いた。跳ねる水音とともに、小柄な影が現れる。

 栗色の髪を揺らし、明るい瞳で辺りを見回すその少女は、ひとり湯に浸かるベルナデッタを見つけて目を輝かせた。


「あ、ベルナデッタさんじゃないですか!エーリッヒ、クソちょうどいいところに来たです!」


 彼女の名はエーリッヒ=ヴィヴァーチェ。子爵家に生まれた令嬢で、小柄な体躯と快活なおしゃべりで知られる少女である。栗色の髪を軽やかに揺らし、笑みを絶やさぬその姿は、楽譜に刻まれた速度記号のように「生き生きと」した印象を周囲に与える。


「……あなたは?」


 隣に腰を下ろした少女へ、ベルナデッタが視線を向ける。


「エーリッヒです! エーリッヒ=ヴィヴァーチェって言います。ヴィヴァーチェの八人兄弟の末子で、一番上の兄がここで教員をしているんです。要するにタダのコネ入学ってやつで。だからただのおしゃべり好きと思ってくれて構わないです」


 栗色の髪を湯気でふわりと広げ、小柄な体をお湯に沈めながら、エーリッヒは弾む声で続けた。


「ベルナデッタさん、今日の光花ルミナ・フロールの授業、クソかっこよかったです!花びらみたいに光が重なって、まるで王宮の庭園を見ているみたいで。エーリッヒ、目が離せなかったです」


「……物好きね」


「はい!エーリッヒ、いつか立派な魔術師になりたいのです。光花ルミナ・フロールだって、もっと上手に使えるようになって、人を助けたり、みんなを驚かせたり……小さい頃からずっと夢見てきたです……」


 その言葉に、ベルナデッタはわずかに瞬きをした。

 ――魔術師。

 その一瞬瞼に浮かんだのは、書庫に居座るひとりの青年の姿だった。

 華奢で細身の体つき、色の白い肌。黒髪は少し乱れて肩にかかり、同じ赤い瞳が本の陰から時折こちらを覗く。見た目だけなら繊細で儚げにすら見えるのに、実際にはとんでもなく図太く、ずる賢い、自称魔術師。

 ベルナデッタは無意識に口端を歪める。


「……魔術師なんて、ろくな奴じゃないのに」


 湯気に紛れるように小さく苦笑した。

 エーリッヒは首をかしげ、不思議そうにこちらを見ている。けれどその瞳には、まだ憧れの光がまっすぐ燃えていた。

 エーリッヒの眩しい笑顔を受け止めながら、ベルナデッタはふと胸の奥に小さな違和感を覚えていた。魔術を学ぶと言った彼女だが、その在り方にはどこか歪みがあるように見えた。


「……ひとつ、気になっていたのだけれど」


 赤い瞳を細め、ベルナデッタはゆっくりと問いかける。


「なぜ魔術専攻ではなく一般科に進んだの?そんなに熱心に魔術を語るくらいなら、迷わず専攻を選ぶものだと思っていたわ」


 その問いに、エーリッヒは一瞬きょとんとした顔をした。すぐに、湯気に紛れるように目を逸らし、栗色の髪を耳にかけながら小さく肩をすくめる。


「それは、その……エーリッヒには、才能がなかったからです」


「才能……?」


「はい。呪文を覚えても、魔力を込めても、うまく発動しないです。光花ルミナ・フロールなんて、芽を出すことすら難しいです。先生や家族からもクソ向いてないって言われ続けて……だから、家族の意向で魔術専攻には進めなかったです」


 明るい口調の端々に滲む自嘲。湯に沈んだ小柄な肩は、彼女の笑みとは裏腹に小さく震えている。


「でも……それでも諦められなかったです。エーリッヒ、やっぱり魔術師になりたいです。たとえ才能がなくても、……どうしても夢を捨てられないのです」


 真っ直ぐで、痛々しいまでの言葉に突き刺され、胸の奥で、何か硬い殻がひび割れるような感覚がした。


「あの……ベルナデッタさん。今日も、ベルナデッタさんの光花ルミナ・フロールの授業を見て……思ったです。ベルナデッタさんみたいになりたいって。だから『お姉さま』って呼んでもいいですか?」


 湯気の中で向けられた無垢な眼差しに、ベルナデッタは一瞬言葉を失った。


「……お、お姉ぇ……?」


 思わず繰り返してしまう。耳の奥が熱を帯び、頬も湯の熱とは違う赤みを増していく。

 紅玉の瞳が泳ぎ、視線は落ち着かない。細く嘲るような視線は慣れっこの彼女だが、こんなふうに真っ直ぐ憧れをぶつけられることに慣れていないのだ。


「わ、私は……そんな大した人間じゃないわ。あなたが思っているほど立派でもないし……」


 胸の奥に、ヨグの影が過った。今日の光花ルミナ・フロールの発動も、実際は彼女が背後から何もかも助力してくれたから成功した。自分ひとりでは、どこまでできるのかすら知らないのだ。

 本当のことを打ち明けようか、そう迷いがよぎる。だが、目の前の少女が真っ直ぐに向けてくる憧れの眼差しを壊す勇気は、どうしても持てなかった。

 困惑と気恥ずかしさに頬を赤らめながらも、ベルナデッタは小さく息を吐いた。


「……で、でも……あなたがそう呼びたいなら……その、勝手にしなさい」


 最後の言葉はどこか投げやりで、それでいて否定にはならなかった。


「ありがとうございます!じゃあ、これからはお姉さまって呼ぶです!」


 栗色の髪を揺らしてぱっと笑みを咲かせるエーリッヒの声は、湯気の中に鈴の音のように響いた。

 ベルナデッタは視線を逸らし、湯面の揺らめきに目を落とす。頬はまだ熱く、胸の奥はくすぐったいような気恥ずかしさでいっぱいだ。

 けれどその呼びかけが、どうしようもなく心を支えてくれているのを感じていた。

 その事実が、今の彼女には救いとなった。

 赤い瞳を伏せ、唇をきゅっと結びながらも、ベルナデッタはほんのわずか、表情を緩めた。


「それでですね……お姉さま!」


 エーリッヒは勢いよく湯をかき分け、身を乗り出す。燃えるような真紅の瞳と淡い空色の瞳が、湯気越しにまっすぐぶつかった。


「エーリッヒに、魔術を教えてほしいのです!光花ルミナ・フロールの咲かせ方でも、お姉さまのようなかっこいい炎の魔法でもなんでもいいです。エーリッヒ、どうしても上手になりたいんです!」


 ベルナデッタの胸がずきりと痛んだ。__教える? 自分が?

 あれはヨグの補助がなければ、到底できなかったものだ。自分は手本になれるような存在ではない。

 赤い瞳を泳がせ、返事に窮する。けれど、憧れに満ちた視線を正面から突きつけられると、否定の言葉は喉の奥に詰まってしまった。


「わ、私が……?」


「はい! お姉さまだからこそ、お願いしたいのです!」


「でも……魔術のことなら、きちんとした教師に聞くほうが確実よ。私なんかより、よほど正しく導いてくれるわ」


 必死の言い訳にも似た提案だった。自分がヨグの助けで体裁を保っているだけだなんて、口が裂けても言えない。教師に任せるのが一番正しい、そう信じたかった。


 けれど、エーリッヒは一瞬の間もなく首を横に振った。


「それは違うです!先生に教わるのと、お姉さまから教わるのは、全然違うです!」


 紅玉の瞳が驚きで揺れる。


「ど、どう違うのよ」


「お姉さまは、エーリッヒの憧れだからです! だから、お姉さまに教えてもらうことに意味があるです!」


 力強く言い切られ、ベルナデッタは言葉を失った。勢いに押され、湯気の中で背を壁に寄せる。


「……わ、私は……別に……」


 戸惑いと気恥ずかしさが頬を熱く染める。


「そ、そう……じゃあ、図書館に行けばいいじゃない。本に答えは全部__」


「文字ばっかりで眠くなるです! エーリッヒ、三行で寝るです!」


「なら……毎日自主練をすれば、いつか必ず__」


「努力はしてるです! でも芽が出ないです! だからお姉さまが必要です!」


「……くっ」


 ベルナデッタは湯面に視線を落とし、赤い瞳を泳がせた。必死に別の道を探そうとするが、ことごとく一刀両断。逃げ場などどこにもない。


「で、でも……私、そんなに教えられることなんて……」


「お願いです!エーリッヒ、絶対にお姉さまから魔術を学びたいのです!」


 小柄な身体でぐっと湯の中から詰め寄ってくるエーリッヒの瞳は、真っ直ぐで一片の迷いもなかった。

 ベルナデッタは湯面に目を落とし、長い沈黙の後、小さく肩を落とす。


「わかったわよ!! そこまで言うなら教えてあげるわ!魔術の真髄ってやつをね!」


 ばしゃん、と湯が大きく跳ねる。

 赤髪を背に流しながら勢いよく立ち上がったベルナデッタの姿に、エーリッヒは目を丸くしてから、次の瞬間にはぱあっと顔を輝かせた。


「クソかっけぇです! お姉さま、今の宣言クソしびれるです!」


「……そそ、そうでしょう!?私だってやるときはやるのよ!ピンからキリまでぜんぶ叩き込んでやるんだから!」


 また湯を跳ね上げ、腰に手を当てて堂々としたポーズを取る。

 紅玉の瞳は妙にぎらぎらと光り、赤髪の先から水滴が滴り落ちるたびに、舞台に立つ役者のような気分に酔いしれていた。


「クソ頼もしいです! お姉さま最高です!」


「ふふん! わかればいいのよ! 私に任せておけば、どんな魔術だって……その……クソ完璧に教えてあげるんだから!」


 言いながら内心では必死に冷や汗をかいていたが、表情だけは見事に堂々たるたたずまいであった。

 エーリッヒは湯船の中でぱしゃぱしゃと水を弾かせながら、きらきらした瞳で頷き続ける。


「いやっほーい!エーリッヒ、クソやる気出たです! 明日からクソ楽しみすぎて寝られないです!」


「よ、よし! その調子よ! 大船に乗ったつもりでいなさい!」


 声を張り上げると同時に、胸の奥の不安も湯気の中に紛れて消えていった。結局、ベルナデッタは完全におだてられたままテンションを上げ、この場を勢いで乗り切ってしまったのだった。

 消灯時間をまもなくしてなお、二人の少女の歓声と高笑いが女子寮の大浴場に響き続けていた。

一学年一学末魔術基礎理論 総合成績(500点満点)

2位 フィアナ=エインヘリヤル 491点

5位 マリーヌ・ド・フォルジュ 476点

16位 ベルナデッタ・フォン=シュルズベリィ 466点

125位 エーリッヒ=ヴィヴァーチェ 3点


やる気以前の問題。三学年だとイズモ・エトワール=カグツチは498点で二名同率3位。

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