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灼火と蒼海はなお相容れず

 放課後の教室は、もう人影もまばらだった。

 夕陽が窓越しに差し込み、長く伸びた机の影が床に交差している。遠くで椅子を引く音や、廊下を駆ける足音がかすかに響くばかり。

 ベルナデッタは自分の席に腰掛け、頭を抱えていた。


「……ほんと、あなたって便利すぎるのよね」


「お褒めの言葉と解釈させていただきます」


 吐き捨てるような言葉だったが、声にはわずかに柔らかさが混じっていた。

 ヨグは主人の外套を取り、埃を軽く払って差し出す。その仕草にベルナデッタは小さく頷き、外套を肩に掛けた。

 昼の授業、もしヨグがさりげなく差し伸べた助力がなければ……と、それを思い出すと胸の奥がちくりと疼く。ベルナデッタは視線を横に滑らせ、黙って控える侍女の横顔を見やった。


「その、授業のことだけど……」


 赤髪を指で払うようにして、彼女はわずかに口ごもった。


「あなたのおかげで助かったのは事実よ。だから、こう言っておくべきなのかもしれない。その__」


 夕焼け色に染まるベルナデッタの頬が紅潮し、ヨグは無言で主の言葉を待つ。感情を見せぬ深淵の瞳が、ただ真っ直ぐにベルナデッタを映していた。

 その一瞬の静けさを、甲高い声が乱暴に打ち破る。


「まだ帰ってなかったのね、シュルズベリィ!」


 扉が勢いよく開かれ、声が教室を満たした。

 そこに立っていたのは、朝、落書きされた教本を机に送り返された主犯格の女子生徒と、その取り巻きたちだった。


 「あなたたちは__」


 怒りに燃えた目が真っ直ぐにベルナデッタを射抜いていた。


「今朝はよくも私に恥をかかせたわね!」


 彼女は机を乱暴に叩き、ベルナデッタを睨みつける。取り巻きたちも口々に嘲笑を重ねる。


「そうよ、没落令嬢のくせにいい気になって」


「舞踏会で恥をかくのは目に見えてるわ」


 ベルナデッタは立ち上がり、鞄を机の上に置いたまま毅然と答える。


「……私は、何もしていないわよ。貴方が勝手に転んで鼻っ柱をくじかれただけではなくて?」


 凛とした声に、一瞬取り巻きが息を呑む。だが主犯格は引き下がらず、再び声を荒げた。


「……ッ!没落令嬢が偉そうに!どうせ誰も味方なんてしてくれないわ!」


 ベルナデッタは静かに立ち上がった。

 赤髪が夕陽を受けて揺れ、瞳は毅然と輝いている。


「……私の家がどうであろうと、あなたたちに蔑まれる筋合いはないわ。まずは自分の成績や振る舞いを気にしたらどう?」


「強がらないで!肩書だけの令嬢が偉そうに!この学園にあなたの居場所なんてないのよ!」


 ベルナデッタの胸に怒りが込み上げたが、彼女は深く息を吸い、声を荒らげずに返した。


「私の居場所を決めるのは、あなたじゃない」


 凛とした返答に、主犯格の顔が歪む。

 そのとき、ベルナデッタの隣に控えていたヨグが、微かに動いた。冷たい瞳を主犯格の令嬢へと向け、問いかけるように主人を見やる。

 __こちらで処理しますか?と。

 再三の注意を経てなおも、ヨグはその目を殺意にぎらつかせている。だがそれも仕方の無いことだろう。彼女もまた、身勝手で無法、傍若無人を体現したような男に仕え、長い時を過ごしていたのだ。一朝一夕で取り払える慣習でもない。

 だが、ベルナデッタはすぐにその意図を察し、瞳で制した。


「……駄目よ。メイド」


 張り詰めた空気が教室を支配する。

 主犯格はその緊迫を勘違いし、勝ち誇ったように笑った。


「ほら見なさい! 侍女に頼らなきゃ何もできないのよ!」


 瞬間__ヨグの身体がゆらりと前へ傾いた。

 従順なはずの、そうでなければならないはずの侍女が、制止を振り切って動き出そうとする。


「だめ、ヨグ!」


 ベルナデッタは低く強い声で制止し、その肩を押さえた。


「これは私の戦いよ。ここで私が彼女に手を出せば、私と共にシュルズベリィの品位が地に落ちるわ」


 なおも拮抗。ヨグは身じろぎ一つでベルナデッタの手を振り払う。この中でただ1人笑みを浮かべた主犯格のひとりが口を開けたその時。


「……ふむ、これはずいぶんと賑やかだな」


 落ち着いた低い声が扉口から響いた。

 夕陽を背に、長身の影が立っている。切りそろえられた、神秘的な漆黒の長髪、琥珀色の瞳__男子と見まがうほどの凛々しい姿。

 東国からの留学生にして生徒会書記、イズモ・エトワール・カグツチの登場だった。


「数でひとりを囲んで……これが王立学園に通う者の品格か?」


 落ち着いた声が、しかし鋭く響いた。


 主犯格の少女は唇を引きつらせ、取り巻きたちは顔を青ざめさせる。


「な、何のつもりでしょうか……私たちは礼節のなっていないこの没落令嬢を教育しようと……!」


 イズモは微動だにせず、その言葉を冷ややかに受け止めた。


「生徒会書記として見過ごせるわけがない。__特に、財政難とはいえ公爵家の息女を相手にしているのならなおさらだ」


 その一言に、教室の温度がさらに下がったように感じられた。

 取り巻きのひとりが慌てて口を挟む。


「わ、私たちはただ……」


「言い訳は結構だ」


 イズモは言葉を切り、彼女らを順に見渡した。


「君たちの名前も顔も、すべて覚えさせてもらった。以後、学園の規律に背く行為をすれば、そのまま風紀委員に報告することになる」


 「見つけたのが私でよかったな」と、優しく静かな宣告だった。

 主犯格の肩が小さく震える。取り巻きたちは互いに視線を交わし、足をすくませる。

 やがて、主犯格は声を搾り出した。


「……覚えてなさいよ」


 その言葉も、空虚な響きしか残さなかった。

 彼女は取り巻きを連れて退き、扉を乱暴に閉めて去っていく。

 残された教室には、夕陽と静寂だけが満ちた。


「……助けていただいて、感謝しますわ。イズモ・エトワール=カグツチ様」


 ベルナデッタはわずかに頬を赤らめ、丁寧に礼を述べた。その紅潮は照れではなく、自分が一日で同じ人物に二度も助け船を出されたということに屈辱を覚えていた色だった。

 イズモは首を軽く振る。


「礼ならいらないと言ったはずだ。これは生徒会として当然の務めだ」


「今回のような、学内風紀の乱れを矯正するのは生徒会風紀委員の仕事であると存じております。二度も手を貸していただいたのは、カグツチ様のご厚意であると私は考えます」


「……そうか。では私の厚意への礼の代わりに一つ、質問に答えてくれ」


 彼女の琥珀色の視線が、今度はベルナデッタの背後に控える侍女へと移った。


「その侍女。立ち方、呼吸の置き方、間合いの取り方……そして二人の会話。どうにも今の主に仕えて染みついたものには見えない。以前は別の主に仕えていたのではないか?」


 教室の空気がぴんと張り詰める。

 ベルナデッタは反射的に息を呑み、ヨグは一歩前に出ることもなく淡々と答えた。


「否定させていただきます。私は生涯、シュルズベリィ家にのみ仕えております」


 ヨグの声は水面のごとく澄み切っていた。揺らぎも逡巡もなく、完璧な答えだった。ベルナデッタはわずかに安堵しつつも、目の前の異国の少女が口にした問いかけに苛立ちを覚える。


「……どうしてそのようなことを聞くのでしょうか?」


 ベルナデッタは声を強め問い返した。

 イズモは肩を竦め、口元にかすかな笑みを浮かべる。


「深い意味はない。ただ__初めて見る侍女が、あまりにも隙のない立ち居振る舞いをしていたからな。学園のざわめきにも動じず、目も揺れなかった。少々、気になっただけだ」


「……何が言いたいんですの?」


「ほんの興味本位だ」


 淡々とした声だったが、その瞳には探針のような鋭さが残っていた。


「それ以上の意図はない。だが、名家の令嬢にとって、侍女一人の手綱も握れないというのは大きな欠点だ。覚えておいて損はない」


 ベルナデッタは言葉を飲み込み、やや強い口調で返す。


「……っ!余計なお世話ですわ」


「そうか」


 イズモはそれ以上は追及せず、静かに踵を返した。

 夕陽を背にした長身の影が廊下へと消えていく。教室に再び静けさが戻る。

 ベルナデッタは大きく息を吐き、机に手をついた。苛立ち混じりのその仕草に、ヨグは何も言葉を差し挟まなかった。ただ、消えていったイズモの背を、じっと目で追っていた。

 静寂を切り裂き、残された教室でベルナデッタが口を開く。


「……ところでメイド。さっきのことだけれど」


「ご息女様の危険を察知し、即応したまでです」


 その言葉に、ベルナデッタは椅子の背に手を置き、眉をひそめる。陽射しの中で、彼女の赤い髪が揺れ、張り詰めた感情を映し出していた。


「即応なんて言葉、学園で聞きたくなかったわ」


 微かに声を震わせる彼女に、ヨグは一歩も引かず続ける。その瞳は深淵のように感情を映さない。


「しかし、ご息女様の尊厳を損なう行為は__」


「私の尊厳を守るのは、わたし自身よ!」


 ベルナデッタは振り返り、声を強めた。響いた声が虚ろな教室の壁に反響し、張り詰めた空気が一層冷たくなる。廊下から聞こえる遠い靴音さえ、この場をよけるように消えていった。

 ヨグは変わらぬ無表情で一礼した。まるで感情を隠す幕が厚く下ろされたように、その姿勢は揺らぎもしない。


「承知いたしました」


 その従順さが、かえってベルナデッタの胸の奥に小さな苛立ちを芽生えさせる。無機質な返事が自分と彼女との決定的な隔たりを際立たせるように感じられるのだ。彼女は唇を噛みしめ、机の上に置いていた鞄を乱暴に手に取った。


「帰るわよ、駄メイド」


 背を向けたベルナデッタの声は冷たく、そこには先ほど一瞬だけ垣間見えた温もりはもう残っていなかった。夕陽が二人の影を長く引き延ばし、その間に横たわる、見えない距離をなお一層広げていった。

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