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公爵令嬢の婚約者

 昼鐘が鳴り響くと同時に、アンスティーユ王立学園の大食堂は熱気に包まれた。

 天井まで届くアーチ窓から陽光が降り注ぎ、白いクロスのかかった長机を照らす。銀食器が並び、磨き込まれた燭台が燦然と輝いている。

 貴族の子弟にふさわしいこの場は、同時に彼らの社交の舞台でもあった。笑い声と噂話が飛び交い、時折ワインを掲げる仕草が小さな演説のように響く。

 その賑わいの中で、一角だけ不自然な静けさがあった。没落公爵家の令嬢、ベルナデッタ・フォン=シュルズベリィの席である。

 彼女の周囲には空席が広がり、距離を取るように生徒たちは背を向けていた。笑い声はそこだけ避け、ざわめきの渦にぽっかりと穴を開けている。

 だが、ベルナデッタは赤い髪を揺らし、優雅に腰掛ける。背筋は糸のように真っ直ぐで、孤立を恐れる素振りは微塵も見せない。

 パンと羊乳のバターが置かれた皿を前に、ベルナデッタは小声で吐き捨てるように言った。


「……やりすぎよ。バカメイド」


 ヨグは無表情のまま、ナイフを差し出しながら答える。


「好きにしろと仰ったのはご息女様です」


「全部やれとは言ってないわよ……!」


 ベルナデッタはパンをちぎり、荒っぽくバターを塗る。


「ではご息女様は、基礎魔術の実演に失敗し、シュルズベリィ家の名誉を地に落としたかったのですか?」



「……屁理屈よ」


 赤髪を揺らし、ベルナデッタはむっと横を向いた。

 ヨグはそんな主人の反応も気にせず、淡々とスープ皿を整える。


「……まったく、メイドのくせに口が減らない」


「滅相もございません。私の口は生まれてこの方1つです」


「面白くないわよ!」


 声を荒げたベルナデッタに、周囲の生徒がちらりと視線を投げた。

 しかし彼女はそれを意にも介さず、背筋を伸ばしたままパンを口に運ぶ。

 食堂の空気が微妙にざわつく中、ヨグはただ静かにカップを整え、主人の前に置いた。

 ベルナデッタがスープを口に運ぼうとした、そのときだった。


「ベルナデッタ!」


 朗々と響く声が、食堂全体を揺るがした。

 入口に立つのは、糸目がちの金髪を陽光に輝かせた青年。晴れやかな笑みを浮かべるその姿に、周囲の生徒たちが一斉にざわめく。


「フィアナ=エインヘリヤル……!」


「教会の枢機卿の子息よ、間違いないわ」


 囁きは瞬く間に広がった。

 王国でも屈指の大貴族エインヘリヤル家。その血筋にして、教会に絶大な影響力を持つ権力者の直系の子息。それが彼、フィアナだった。


 彼はためらうことなく歩み寄り、孤立した空席の島へと真っ直ぐ進む。

 その背後には、黒衣の神父が一人控えていた。

 銀の十字架を胸に揺らし、常に柔和な笑みを絶やさぬその人物は、教会がフィアナの学園生活を監督するために派遣した世話役だった。


「聞いたよ!君が授業で誰よりも綺麗な光花を顕現させたって!ああ、なんという信心だろう!まさに導きに違いない!」


 ベルナデッタは静かに首を振り、背筋を正した。


「……ありがとう。けど、私はただシュルズベリィの誇りを守るために精一杯やっただけよ」


 声にはいつもの張りがなく、わずかに陰りを帯びていた。だが、それを聞いてフィアナはぱっと顔を輝かせた。


「それこそが尊い!努力もまた神の導きの一部だと僕は思うよ!」


 後ろに控える黒衣の神父は、終始にこやかに立っていた。銀の十字架が胸元で揺れ、柔和な微笑を浮かべながら、ただ静かに二人を見守っている。

 ベルナデッタは姿勢を崩さず、だがしおらしく口を開いた。


「……神の加護ではなく、私自身の意志よ」


 ベルナデッタの声音は揺るがない。


「そう、君のような強い意志にこそ、神は正しく導きを采配するのだろうね」


 フィアナは力強く言葉を重ねる。

 だが二人の言葉は交わらず、どこまでも平行線を描いていた。

 __そのやり取りを、黒衣の神父はにこやかに見守っていた。

 柔和な微笑は崩さぬまま、ふと口を開く。


「シュルズベリィのご令嬢」


 その声は低く穏やかだが、冷たい水滴が背を伝うように空気を変えた。


「ご家門が補助金の打ち切りにより困窮していることは、すでに耳に入っております。ですが……どうかご安心を。教会の御心ひとつで、それらは再び潤うのです」


 ベルナデッタはわずかに息を呑む。

 神父は笑みを崩さぬまま、続けた。


「さらに、枢機卿ご子息のフィアナ様とのご縁談が成立すれば、シュルズベリィは教会の庇護下に戻られる。そうなれば財政難など、たちどころに解消されるでしょう。領民を救い、家を再興することこそ、神の御心に適うことかと」


 柔らかな言葉に隠された意味は誰の耳にも明白だった。


「ですから、あまりご無体を仰らないよう、私からもお願い申し上げます」


 ベルナデッタはナイフを握る手に力を込め、ほんの少し伏し目がちになった。

 やがて唇を噛みしめ、か細い声で言葉を紡ぐ。


「……そうですわね。私がこうしてここにいられるのも、神の導きのおかげ……感謝いたします」


 フィアナはぱっと表情を輝かせた。


「やはり君は素晴らしい! ベルナデッタ、君が神に感謝を忘れない限り、必ず道は拓けるよ!」


 その無邪気な歓喜と、背後の神父の柔らかな笑み。

 同じ笑顔でありながら、その重みはまるで正反対だった。フィアナは胸に手を当てて続ける。


「ベルナデッタ、君とこうして語らえること自体が喜びだが……さらに嬉しい知らせがあるんだ」


「……嬉しい知らせ?」


 ベルナデッタはわずかに眉をひそめ、問い返す。

 フィアナは誇らしげに頷いた。


「今度の学園舞踏会で、僕たちの婚約を正式に発表することになった。教会も、学園も承知の上だ。皆の前で君を僕の婚約者として紹介できる、それ以上の喜びはないよ!」


 その言葉に食堂中がざわめく。

 学園最大の社交行事__舞踏会での発表は、噂話や中傷を一気に封じる最も確実な手段だ。


「君が学園で理不尽な中傷を受け、孤立を強いられていることは知っている。僕はそれが許せないんだ。だが安心してほしい、舞踏会の日が来れば、そんな日々は終わる」


 しかもそれを公にすることで、シュルズベリィ家は名実ともに教会と強く結びつくことになる。

 ベルナデッタは一瞬だけ視線を落とし、硬い声で答えた。


「……そう。異論はありませんわ」


 その姿勢の奥に苦味を隠す彼女をよそに、フィアナは満面の笑みで続ける。


「ありがとう、ベルナデッタ!君の勇気と信仰があれば必ず領民も救われる。僕は神に誓って、君と共にその道を歩むよ!」


 その背後、神父は静かに一歩進み出る。


「舞踏会という晴れの舞台で、婚約の発表をなさる。これ以上の証明はございますまい。学園に、王都に、そして王国全土に、神の加護の下にある新たな結びつきを示せるのです」


 彼はあくまでにこやかに微笑みながら、銀の十字架を胸元で揺らした。


「その日をもって、シュルズベリィ家の再興は始まるでしょう」


 ベルナデッタは胸に重くのしかかる言葉を受け止め、静かに頷いた。


「……承知しました。寛大な神の御心に感謝致しますわ」


 満足そうな顔をしてフィアナと神父がその場を去ると、食堂のざわめきも次第に落ち着いていった。

 残されたのは、遠巻きに羨望、そしてなおも滲む嘲笑の視線を寄越す生徒たちと、広い空席の島に座るベルナデッタとヨグだけだった。


 ベルナデッタはグラスを卓に置き、小さく吐息を漏らす。


「……悔しいわ。あんな言葉、口にするつもりはなかったのに」


 ヨグは隣で淡々とナプキンを整え、静かに答えた。

「ご息女様の御言葉は、場を収めるに最適でございました」


「場を収める? 私が折れただけじゃない」


 ベルナデッタは唇を噛み、ナイフを強く握りしめる。


「……家のため、領民のためと調子のいい事言って、あれではまるで従順な駒じゃないの」


 ヨグはわずかに首を傾げ、表情を崩さぬまま言葉を続ける。


「駒と呼ぶならば、盤上に必要とされている証拠でもございます」


「……メイド。あなたってばほんとに言葉の選び方が気に障るのよ」


 ベルナデッタは肩を震わせ、苛立ち混じりに返す。


 ベルナデッタはわずかに口角を上げ、すぐ真顔に戻る。


「さっきの青年について伺ってもよろしいでしょうか」


「フィアナ=エインヘリヤル。教会で発言力のある家の子息、本人は真面目で穏やか。人を疑わない。……私のことを案じてくれているのも……多分本心だと思う」


「背に控える神父殿は」


「その彼の世話役よ。教会から派遣された神父。それ以上のことはよく分かっていないわ。ただ、フィアナ以上にシュルズベリィとエインヘリヤルの婚約に執着している。謎の多い、いけ好かない男よ」


 ベルナデッタはそこまで言うと、ふと思い出したかのように顔を上げ、ヨグを一点に睨みつけてナイフを置く。


「そうそう、バカメイド。授業での補助は控えめに。あれはやりすぎよ……!」


「好きにしろと仰せでしたので」


「全部やれとは言ってない。手は貸しても、私を引きずらないで。私の足で立つ練習をしているの」


「承知致しました。以後、魔力制御の補助を2割ほど削減し調整させていただきます」


「数字で言われてもわかんないわよ」


 小さくため息をつき、ベルナデッタは視線を落とした。

 卓上のグラスの水面に、自分の顔が淡く揺れて映る。そこに浮かぶのは、まだ少女の弱さを残した横顔だった。


「……でも、現実は待ってくれないわ。実際問題、家は今にも沈みかけている。舞踏会で婚約が発表されれば、目前の資金繰りは安定する。領民だって救われる。……理屈は分かってるのよ」


 彼女の声音にはわずかに疲労が滲み、それでも背筋を保とうとする強さがあった。

 ヨグは主の横顔を見つめ、変わらぬ調子で口を開いた。


「ご決断は必ず実を結びます。ご息女様の選択こそが、家を支える柱となるでしょう」


 ベルナデッタはかすかに笑った。


「ええ。選ばなければ、何も守れない」


 その声はしおらしくも、どこか烈しさを孕んでいた。


「だからこそ、舞踏会で恥はかけない。立ち振る舞いも、所作も、視線の一つすら乱してはならないわ」


 ヨグは静かに頷く。


「採寸、歩幅、ターン半径、全て本日中に取得可能です。稽古は一日三枠、朝、放課後、就寝前。体力配分を鑑み、負荷は逓増式に」


「まるで王国軍のトレーニングね……それと踊りは」


「宮廷式十七種、地方式七種、無音楽対応二種、すべて可」


「無音楽って何用よ」


「誰かが嫌がらせで楽団を止めた場合です」


「先回りしすぎよ、バカメイド」


 赤髪の令嬢は立ち上がり、背筋を正した。


「……舞踏会まで、忙しくなるわね。誰に笑われても恥をかかない準備を整える。それがシュルズベリィの娘としての務めよ」


 その言葉は、ささやかな自嘲を含みながらも、確かな決意を帯びていた。

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