魔術基礎の実演
赤い髪を朝日が透かし、炎のように揺らめかせながら、ベルナデッタは教壇へと歩み出た。
背筋を伸ばし、一歩ごとに裾を揺らすその姿は、まるで舞踏会の女王のごとき威厳を漂わせていた。
だが、教室に広がるのは尊敬ではなく、嘲笑だった。
「御覧なさい、あの公爵令嬢、杖も持ってないわ」
「まさか素手でやるつもりか?」
「てか休暇明けだろ?そもそも式すら知らないだろ」
ひそひそ声は瞬く間に広がり、忍び笑いが重なっていく。
貴族の子弟たちにとって、魔術の授業で杖を持たぬことは準備不足どころか無能の烙印に等しかった。しかも、光花は初歩の魔術とはいえ予習を重ねて習得する基本にして奥の深い魔術。休暇明けで、まだ触れてもいないベルナデッタにできるはずがないと、誰もが思っていた。
教壇に立つベルナデッタの耳に、当然その声は届いていた。
だが、彼女は一度も振り返らず、毅然と顎を上げる。
「__黙って見ていればいいのよ」
ただその一言で、教室の笑い声がわずかに鈍った。
赤髪を背に流し、堂々と黒板に描かれた魔法陣の前に立つ令嬢の姿には、没落令嬢の影を振り払うほどの気高さが宿っていた。杖を持たぬ彼女の掌が、ゆるやかに前へと差し伸べられる。
それは恥ではなく、挑戦の宣言だった。
「では、始めよ」
教壇の中央に立つベルナデッタの赤髪が、朝日を受けて炎のように輝いた。
その気高い立ち姿にさえ、嘲笑を押し殺した生徒たちの視線が集まる。
「失敗すればいい」「笑いものになれ」__そんな願望が渦巻いているのを、彼女は知っていた。
知ったうえで、毅然と顎を高く上げる。
深呼吸。
胸の奥に残る緊張を、鋭い意志で押し殺す。
掌を前へと伸ばし、杖を持たぬ指先で空をなぞる。
教師は口元にいやらしい笑みを浮かべ、声を潜めて呟いた。
「……杖も持たずに、か」
ベルナデッタは応じなかった。
代わりに、静かに__。
「ルミナ・フロール」
その声は澄み切り、石造りの教室を震わせた。
瞬間、床に描かれた魔法陣が淡く光り出す。
細い線が光脈となり、彼女の足元から脈打つように輝きを放つ。
最初は小さな火花。やがてしてざわめきも巻き起こる。誰もが「失敗だ」と笑いかけた。
だが、その光はしおれず、枝分かれし、粒子となって宙を舞い上がった。
一片、また一片。
光の欠片が花弁の形をとり、幾重にも重なり合っていく。やがて花弁は溢れんばかりに増え、空気を震わせながら教室全体を覆った。
「……!」
誰かが小さく息を呑む。
赤、青、金。
光は色を変えながら絡み合い、花園を描き出していく。教室の床から天井まで光の蔓が伸び、壁にはきらめきの文様が映し出された。星屑が降るように花弁が散り、虹色の雨となって生徒たちの髪や制服に降りかかる。それでも一片たりとも穢れることなく、触れた瞬間に淡く消えていった。
幻想の只中に立つベルナデッタは、掌を掲げたまま微動だにしない。炎のような赤髪が光を反射し、彼女自身が光の女神であるかのように見えた。
やがて、残った花弁が一つに集まり、宙に一輪の光花を形作る。透き通るように輝く花はゆるやかに舞い降り、彼女の掌に落ち着いた。
静寂。
教室に満ちていた嘲笑は、もはや欠片も残っていない。生徒たちは息を殺し、教師でさえも言葉を失っていた。
ベルナデッタは静かに掌を掲げ、光の花を見つめる。その一筋の汗が伝う横顔には、没落を嘲る声をすべて拒む気高さが宿っていた。笑いものになるはずの令嬢は、いまや教室を支配する光を呼び込んでいた。
__そして、その背後に控えるヨグの瞳が、ひそかに細められる。
「……主導権は私にあります」
誰にも気づかれぬ仕草で、暴走しかけた余波を抑え込んだ。常人には決して理解されない、影の支え。だがそれすら、この場では奇跡としか映らなかった。
光花が彼女の掌から零れ切り、落ち着いた時、教室は静まり返っていたそれは、誰もが息を呑み、声を失い、動くことすら忘れた、そんな圧倒的な沈黙だった。
教師の目が大きく見開かれる。
「……ば、馬鹿な……」
喉の奥で押し殺したつもりの声が、裏返った。
基礎術に過ぎぬはずの光花が、ここまで見事に咲き誇るなどあり得ない。
それも杖を持たず、予習もしていない令嬢の手で。
彼の頬を伝うのは冷や汗か、それとも羞恥か。
下卑た笑みは完全に消え失せ、教室の隅で立ち尽くすしかなかった。
生徒たちもまた衝撃に打たれていた。
さきほどまで「失敗しろ」と嘲っていた者たちは、顔を引きつらせ、視線を逸らす。
なかには、ただ見とれて頬を赤らめる者さえいる。
光花の花弁が残した幻影は、彼女を女神のように見せかけるのに十分すぎるほどだった。
「あ、あぁ、あんなの……」
ベルナデッタは何事もなかったかのように掌の花を掲げ、すっと閉じる。
光は静かに消え、教室には再び朝の光が差し込む。
だが残された印象は、誰の目にも鮮烈に刻まれていた。
「__これでよろしいかしら?」
凛とした声が響いた。
それは教師への問いであり、同級生たちへの宣言でもあった。
シュルズベリィの名が、没落の嘲笑だけでは終わらないと告げる一声だった。
背後のヨグは一歩も動かずに控えていた。
だが彼女の深淵を覗く瞳には、わずかな光が揺らめいていた。
***
シュルズベリィ邸の奥にある書庫は、荘厳な貴族の蔵書室というより、紙束と傷んだ本の集積場と化していた。
床には積み上げられた書物の塔が乱立し、倒れたものは山と瓦礫のように散乱している。ここに住むひとりの魔術師は、知識の山を好みこの場所に巣をこしらえた。にも関わらずその知識に対しての敬意はまるで感じられない。
そんな公爵家の書庫では、羊皮紙の切れ端が風もないのにひらひらと舞い、インクの染みた紙束は机の隅からはみ出して落ちそうで落ちない。
壁際の高い書架には収まりきらぬ古書が突き刺すように押し込まれ、革表紙の背表紙は擦り切れ、無惨に剥がれた金文字が埃の中に沈んでいた。
そして部屋の入口には、否が応でも目に入るひときわ場違いな物体が鎮座していた。
床に突き立てられ、ドアを押さえつけている一振りの聖剣。本来ならば由緒正しき神殿だの、精霊の住まう湖のほとりだのに祀られ、伝説として語られるはずの聖剣は、今やこの散らかった書庫のドアノブを抑える、安っぽいドアストッパーとして用いられていた。
差し込む光に刃が鈍く輝くたび、その侮辱めいた使われ方が逆に絶妙に異様な迫力を放っていた。
部屋の中央、ウィルを囲むように数十冊もの書物が宙に浮かんでいた。
彼は椅子に深く腰を掛け、片手で書簡をめくりながら、もう片手で指先をわずかに動かすだけで本の群れを自在に操っていた。
浮遊する本の頁は勝手に開き、走り書きの文字や図表が露わになる。それらを同時に目にしながら、ウィルの瞳はわずかな疲れも見せず、むしろ退屈を紛らわせる遊戯に興じるような光を宿していた。
散らかった書庫を幻想的に舞う紙束、安っぽい扱いを受ける聖剣、宙を舞う、研究者垂涎の古書……。
そのすべてが、この男にとっては一興の価値すらなく、もはや興味も示す様子もない。
「……まったく、相変わらずとっ散らかってやがるな」
部屋が、ではない。強引にスペースを作った机の上に広げられた羊皮紙の魔道具を、目頭を押えながら睨むウィルがそこにいた。
椅子に身を預け、宙を漂う本の群れの中でウィルは鼻で笑った。
「地力が足りない連中は数で押そうとする。まあ悪くはねえ、頭数揃えりゃ盤面は埋まるからな……だが所詮有象無象だな」
指先で羊皮紙を叩き、目を細める。
「逆に、こっちは駒の質は十分なのに使い方がなってない。戦力は宝の持ち腐れ……もったいねえ話だ」
浮かぶ本の一冊をぱらりと開かせ、そこに記された名に小さく笑みを浮かべる。
「……軍神ゴットハルトの娘さん、か。逆に、ベルもなんでこんなのに目をつけられてんだって」
声色は愉快そうでありながら、目だけは鋭さを増していた。
「……あと気になるのは」
意味深に指先で一点を叩き、唇の端を歪める。
しかし、次の瞬間には、にひひ、といたずら子のような笑みにかわり、背もたれに体重を預け体を揺らす。
「ま、俺を勘定に入れてない時点で、三流もいいとこだ……」
肩をすくめ、再び本をくるくると浮かせては弄んだ。ページをめくるとそこは雫を垂らしたように揺らぎ、淡い魔力の膜が紙面を水面へと変えていく。そこには、赤髪を翻して教壇に立つアンスティーユ王立学園に通う女子生徒の姿が映し出されていた。
彼女の掌に咲いた光花が、教室の空間を覆う。
花弁が降り注ぎ、生徒たちの嘲笑をかき消していく様を見ながら、ウィルは頬杖をついた。
「やるじゃん」
口元ににやりと笑みを浮かべる。
だが視線の端、彼女の後ろに控えるメイドの姿が映ると、眉がわずかに動いた。
「……ヨグか、余計なことしやがって」
文句をこぼしつつも、その声音にはどこか楽しげな響きが混じっていた。




