プランB 障害の事前排除
回廊を抜け、ベルナデッタとヨグは教室の扉の前に立った。
分厚い木製の扉は長い年月を経て艶を帯び、取っ手には磨き込まれた真鍮が鈍く光っている。
扉を押し開けると、陽光を大きく取り込む窓が左右に並び、石造りの壁に反射して教室全体を明るく染めていた。
列を成す机と椅子は堅牢な木製。
一つ一つが丁寧に造られているが、使い込まれた跡が歴史を物語る。
壁際には黒板と掲示板があり、日々の課題や王立学園の規律が整然と貼り出されていた。
天井は高く、梁には古い紋章が刻まれている。
王家の後援を受ける学園としての誇りと重みが、細部にまで宿っていた。
「ねぇ、ホントに来たわ」
しかし、その荘厳な空気とは裏腹に、室内に満ちる雰囲気は冷ややかだった。
すでに席についていた同級生たちが、ベルナデッタの姿を認めるや、口元に扇子や手を当てて囁き合う。
ある者は金糸の刺繍を施した制服を着こなし、またある者は豪奢な羽飾りをペン立てに差している。同じ学園の制服でありながら、生地の質や仕立ての細部に差があり、その違いが彼らの家の格を雄弁に示していた。
囁き声が連なり、冷笑が空気を伝う。
「……シュルズベリィの没落令嬢か」
「まだ学園に通っているとは、往生際が悪い」
「席に座れば机が泣くわ」
ベルナデッタは一歩も引かず、顎を高く上げて進む。
その気高き姿は堂々としていたが、視線の矢が突き刺さるような圧力は確かにそこにあった。
ヨグは無表情で教室を一巡し、瞬時に全てを観察した。
どの机に細工が施されているか、どの生徒が視線を逸らしたか、どの囁きが敵意を帯びているか、すべて。
ベルナデッタが悠然と席へ向かうその瞬間、後方の机から一人の男子生徒が足を突き出した。
磨かれた靴先が大理石の床を擦り、まるで舞台の仕掛けのようにベルナデッタの歩みを狙う。
ほんの数歩で裾が絡まり、足元の注意を怠った没落令嬢は盛大に転ぶ__その惨めな光景を期待し、卑しい笑みが彼の口元に浮かんだ。
だが……ヨグは音もなく横へ滑り出し、伸びた足の甲を真上から踏みつけた。
硬い靴底が骨を圧迫し、鈍いぎしりという音が男子生徒の靴から洩れる。
「……ッ!」
声にならぬ呻きが喉に詰まり、彼の目が大きく見開かれる。
痛みと恐怖に顔を歪め、血の気が一気に引いていく。ヨグは微動だにせず、ただ冷ややかな瞳で横目に射抜いた。
その無言の圧力に、男子生徒は慌てて足を引き、椅子の上で縮こまった。
ベルナデッタは何も気づかぬまま、優雅に自分の机へと歩みを進める。
その気高さには、背後に渦巻く小細工の気配など一切届いていない。仕掛けた本人だけが、足を押さえて冷や汗を流し、惨めに背を丸めていた。そしてヨグは無表情のまま、主の背にぴたりと控えていた。
ベルナデッタが自分の席を目前に近づいたその瞬間、再び異変に気付いたヨグは迷いなく動いた。
__机の上に置かれたインク壺。
何気ない学用品に見えるそれを、ヨグの視線は一瞬で射抜いた。
白磁のように整った指先が音もなく伸び、壺の縁をすくい上げる。
まるで舞踏の一挙動のような滑らかさで、何の抵抗もなく机から持ち上げられた。
揺れる中身はインクではない。
粘つく光沢とともに現れたのは、ぬらりと身をくねらせるカタツムリ。
淡い殻がきしりと擦れる音を立て、細い触角を突き出す。
学び舎にふさわしくない不快な存在が、黒衣の侍女の掌の中であらわになった。
ヨグは眉ひとつ動かさず、ポケットから新しいインク壺を取り出すと、瞬きするよりも早くそれを取り換えた。確かにそこにあったはずの、カタツムリ入りの壺は手品のように掌の中に溶けて消え、すべてはベルナデッタが腰を下ろすより早く、わずかひと呼吸をする間に終わっていた。
「んなっ……」
その光景を、教室の隅から見ていた者がいた。
仕掛けの主、派手な髪飾りを揺らした女子生徒だ。
彼女は自身の席に着き、旧友と話すフリをして期待に満ちた眼差しで事の成り行きを見守っていたが、結果を目にした瞬間、その表情は見る見るうちに曇った。けしかけた男子生徒は目的を達成する前になぜか席に戻り、インク壺は瞬きをした隙に消滅し、笑いものにするどころか、痕跡すら残らなかった。
主犯格の女子が扇子で顔を覆い、悔しさに唇を噛んでいる間にも、ヨグの動きはなお加速する。
ベルナデッタが席に腰を下ろす、机の上に置かれた教本のページをめくるより早く、ヨグの白磁の指先がすっと伸びた。
その教本はひとたびページをめくれば「貴族の恥」「学園の汚点」と殴り書きされた、悪意のかたまり。
__その次の瞬間。
……いや、その次の瞬間には、何も起きていないように見えた。
ヨグは相変わらずベルナデッタの隣に立ち、姿勢ひとつ崩していない。
だが、主犯格の机の上に置かれた教本がいつの間にか開かれており、そこには目を覆いたくなるような罵倒、侮辱の数々が記されていた。
「……ねえ、これ……あなたが書いたの?」
隣席の生徒が思わず声を上げ、教室にざわめきが広がった。
声をかけられるその瞬間までベルナデッタの席を注視していた主犯格の女子は、ようやくそれに気づき顔を真っ青にする。
「な、なぁんですって……!!わ、私は、確かに、教本をあの没落令嬢の机にッ……!」
その場にいた取り巻きの数人は震え上がった。
仕掛けの細工を一緒に知っていた彼女たちにとって、なぜここにシュルズベリィの教本があるのか理解できない。
理解できないがゆえに、その異様さは恐怖となって迫った。
「あ、ありのまま、今起こったことを話すわ、私は、哀れなシュルズベリィ公爵令嬢の机に落書きをした教本を忍ばせていたと思ったら、いつの間にかその教本が私の机にあったの。何を言っているのかわからないと思うけれど、私も何をされたのかわかりませんわ!魔術だとか超スピードだとか、そんな子供だましでは断じてない、もっと恐ろしいものの片鱗を味わったわッ……!!」
彼女たちの顔は青ざめ、主犯格から身を引くように席をずらした。
当のベルナデッタは気高く顎を上げ、悠然と教本を開いた。その横顔には勝ち誇った笑みこそ浮かばなかったが、周囲の空気を一変させるには十分だった。
そしてその侍女は__お澄まし顔でベルナデッタの後ろから一歩も動いていない。
その沈黙こそが、何より雄弁に、常人には理解不能の出来事が起きたことを語っていた。
教室は重苦しい沈黙に包まれていた。
先ほどまでベルナデッタを笑っていた同級生たちは、今や一様に視線を伏せ、主犯格の女子だけが目を潤ませ、震える手で教本に書かれた落書きの数々をぬぐっている。
嘲笑は完全に潰え、代わりに不可解な恐怖だけが残った。
……教室の緊張がひと息ついたところで、彼女は背後に視線を投げかけ、隣に控えるヨグへ小声を投げつける。
「……メイド。アンタ、なんかした?」
ヨグは微動だにせず、淡々と応じる。
「いえ。私はご息女様の後ろから離れておりません」
「…………」
ベルナデッタは眉をひそめ、声をさらに潜めた。
「こうもなにもないと……調子狂うわね。私は堂々と受けて立つつもりだったのに」
ヨグはわずかに瞬きをし、不可解だとわずかに首を傾げて一礼する。
「……失礼いたしました。では代わりにプランC『私がご息女様を徹底的にいじめ倒す』を提案させていただきますが?」
「ふふっ、面白い冗談ね」
「……」
「……え冗談よね?」
今日この日、初めて目を細めて笑い声を漏らしたベルナデッタだったが、その直後、瞼をじっとりと落とし、少しおびえた表情で教本に視線を落とした。
……結局、言葉にした苛立ちとは裏腹に、かすかな笑顔とともに、彼女の心の奥に芽生えたのは、不思議な安堵だった。
朝の鐘が学園に響き渡り、一日の始まりを告げた。そこへ、扉が重々しく開く。痩せた初老の教師が教室へと足を踏み入れ、ほかのどの持ち物よりも目立つ杖を軽く床に突いた。規律を示すその音が、張り詰めた空気を打ち払う。
「……待たせたね。第一限目、魔術基礎を始める。クラス委員。挨拶を」
クラス委員、そう呼ばれたひとりの男子生徒の号令で、いつも通り魔術の授業が始まる。
ざわ、と小さな吐息が走った。生徒たちは姿勢を整えつつも、その目の先にはいまだベルナデッタの影があった。失敗を待ち望む心根は消えていない。
「……魔術を学ぶ者として、そもそもの歴史を忘れてはならん」
教師は黒板に一本の縦線を引き、そこに名を記した。
「ヴァレンタイン__始まりの魔術師。彼こそが、散逸する魔素を言葉と図式で束ねる術を確立し、人が自然に干渉する道を切り開いた。以来、我らが王国の繁栄も衰退も、文明の発展も破壊も、すべてはこの系譜に連なる者たちの研究の果実による」
教師はさらに線を延ばし、名を連ねていく。
「グリモワール、エラディア……以後登場した世界三大魔術師に連なる1000を超える年月の中で、偉大な術者の足跡は歴史となり、今日に至る基礎を築いた。そして諸君らは、その流れの末に学ぶ後継者である」
生徒たちの胸に誇りを呼び起こすような響きだった。
だが一方で、没落を嘲る冷笑もまた混じり合う。
王国における魔術とは、1000年以上の歴史を持ち遍在する『魔素』を触媒に、術者自身の魔力を重ね合わせ、現象を起こす技である。魔力は火や水のように性質を持ち、式や陣によって形を与えられる。詠唱はその形の指示にあたるものであり、正しく制御できれば狙った現象が生じる。
ただし、過剰な魔力や誤った式は容易に暴走を招き、火花や煙、果ては術者を呑み込む災厄と化す。
だからこそ基礎魔術の授業は重要であり、貴族の子弟にとっては品位と学識を示す試練でもあった。
教師は黒板に花形の魔法陣を描きつけ、静かに告げた。
「本日の課題は……光花の顕現だ。基礎中の基礎にして、品位と制御力を測る試験となる」
そう言いながら生徒たちを一人ずつ見回す目は、品定めをする商人のように冷ややかで、やがて一点に吸い寄せられる。
ヨグはその意地の悪い視線を流し見に、低く囁いた。
「基礎とは聞いていましたが……あまりに初歩的すぎます」
ベルナデッタはそんなヨグを一瞥すると、唇を固く結び毅然と応じる。
「当然よ。私たちの教室は魔術専攻じゃないの。この二学期からようやく基礎に触れるようになったばかりよ」
「納得しました。ですから基礎以前に座学の再確認というわけですね」
ヨグはわずかに眉を寄せ、冷たい目を教師に向けた。
その瞬間、教師は杖の先を軽く床に突き、声を張り上げる。
「__シュルズベリィ。前へ」
明らかに狙いすました指名。
言葉の端に含まれた含み笑いが、静まり返った教室に響く。
周囲の生徒たちは口元を押さえ、互いに小声でささやいた。
「見ものだな……」
「どうせ煙を噴くだけだ」
教師は黒板を軽く叩き、さらに煽るように言葉を重ねる。
「失敗しても構わん。基礎を学ぶ場だ。……もっとも、優秀な生徒たちは皆予習をしてきておるようだからな。恥を曝したくないのであれば、実演に集中することだ」
その声音には、教育者の慈愛など微塵もなかった。没落の名を背負う令嬢を、衆目の前で辱めることを楽しんでいる__そんな下卑た悪意が透けて見えた。
その背後、控えの位置に立つヨグが、かすかに声を落とした。
「数日欠席していたご息女様は、予習の課題も不可能だったのでは……?」
「……」
ぎゅっとこぶしを握り締めるベルナデッタ。その瞳はかつてない不安と、隠しきれない怒りに震えていた。ヨグは数時間にも感じられる一瞬の沈黙をベルナデッタとともに堪能し、ようやっと口を開く。
「……ご息女様。私がお手伝い致しましょうか?」
__ベルナデッタははっと顔を上げ、横目でメイドの顔を見た。
そのどこまでも無感情な瞳には、不可解な冷静さと、不安そうに揺れるベルナデッタ・フォン=シュルズベリィの顔だけが映っていた。
しばし考え、唇を固く結んだまま黙り込む。
誇りが言わせる。これは自分ひとりで成し遂げたい。
現実が囁く。失敗すれば、シュルズベリィの名はさらに笑われる。
「……聞こえなかったか?シュルズベリィ。前へ」
葛藤は数瞬。
やがて彼女は小さく息を吐き、凛とした声で、メイドに命じた。
「……好きになさい」
「御意に」
それは妥協ではない。
他でもない己とシュルズベリィの矜持のため、自身の不足を受けいれた気高き選択だった。
ベルナデッタは席を立ち、杖も持たずに教壇へと歩きだした。




