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舞踏会編 前夜譚 3最後のお仕事

 石畳を覆う夜の闇は、深い水の底のように濃かった。

 中庭には誰の気配もなく、風さえも息を潜めている。


 噴水の水音は途絶え、月光は雲に隠れ、花壇の花弁はひとひらも揺れぬ。

 ただ闇だけが庭を満たし、時間の流れそのものが凍りついたかのようだった。

 蝋燭の灯りも、靴音も、遠い笑い声も届かない。

 そこは学園の中庭であるはずなのに、まるでこの世から切り離された空間。

 __静かに、静かに、時だけが過ぎていく。

 だがその「時」ですら、誰かに弄ばれているかのように歪み、輪郭を失っていた。

 闇は深く、そして重い。

 誰にも気づかれぬまま、まるで夜そのものから切り出されたかのように。

 無言のまま膝を折り、石畳に指先を伸ばす。

 そこには乾きかけた黒い染み――血の跡が、ひそやかにこびりついていた。


 彼女の白い指が、その上にそっと触れる。


 瞬間、空気が軋んだ。

 止まっていたはずの時間に、わずかなひびが走る。

 見えぬ過去が、闇の底から泡のように浮かび上がり、彼女の感覚を濡らしていく。焼け焦げた魔力の残滓。氷のように冷たい気配。刃で細切れにされた肉片の断面。そこに確かにあった死の痕跡が、まるで呼吸を取り戻すかのように蘇っていた。

 ヨグの瞳はわずかに光を帯びたが、その表情には何の感情も浮かばない。

 ただ、血が語る声を静かに受け取り、闇に沈めていく。風もなく、声もなく、ただ彼女の指先だけが、凍った時をわずかに動かしていた。


 ヨグは振り返らずに瞳を細めた。


「……やはり、あなたでしたか」


 その冷ややかな声に応じるように、長身の女が月明かりに姿を現した。

 長い黒髪を腰まで流し、無駄のない身のこなし。制服の裾は正しく整えられているが、その立ち姿には鋭さが滲んでいた。

 彼女は腕を組んだまま、表情をほとんど動かさず、わずかに口を開く。


「……こちらのセリフだ」


 声は低く、不愛想な響き。余計な感情を削ぎ落とした冷たい視線が、ヨグを射抜いた。

 止まったような時の中庭に、ふたりの影が向かい合い、ひときわ濃い緊張が降りてきた。

 夜の中庭を震わせる、重く不吉な気配。

 ヨグは口を開く代わりに無言で右腕を腰の後ろに回す。

 その指先からは黒い影のような裂け目が広がり、何もない空間から、身の丈の倍もある白銀の大斧が姿を現す。

 鉄塊とも見まごう異形の刃は、月光を受けて鋭く光り、周囲の闇をさらに払った。


「メイド★十徳・薪割り棟梁」


 牡牛数頭分ほどもあるだろうその鉄塊をヨグは表情ひとつ変えず、軽々と振り回す。

 轟音とともに石畳が砕け、生け垣が薙ぎ払われる。破片と土塊が宙を舞い、庭は瞬く間に荒れ果てた戦場へと変貌した。


 対するイズモは、一歩も退かず立ち尽くしていた。

 静かな呼吸ののち、腰に差した刀の柄に手をかける。


 ――鞘走る音が、夜気を裂いた。


 抜き放たれた白刃は、冷ややかな死をまとった月光を映し、流麗な弧を描く。


「……醒めよ、寂滅」


 斧と刀、重と軽。

 巨躯を裂く破壊の力と、命を断つためだけの鋭利な一閃。

 月光に照らされた中庭。

 互いの役割を暴き合った沈黙の後、空気が一段と張り詰めた。

 ヨグは人形のような無表情のまま、ウィルに教えられた「決め台詞」を言祝ぐ。


「冥途の土産。包ませていただきます」


「笑止!」


 ふたりの刃が夜の中庭で交錯した瞬間、轟音と閃光が弾け、学園の闇を揺るがした。

 轟音が夜空を裂いた。

 石畳の下に潜んでいた魔力が逆流し、閃光とともに爆ぜる。

 破片と炎が四方へ散り、衝撃波が庭全体を揺さぶった。


「重……っ!」


 生け垣は根こそぎ吹き飛び、噴水の水盤は粉々に砕ける。

 衝撃は校舎の壁へと伝わり、窓硝子が次々と割れて夜空に飛び散った。

 ヨグは両腕で大斧を振り回し、軌跡ごとに空間が歪む。

 それを受け止めたイズモごと地面は陥没し、石畳は爆ぜるように砕け散った。

 残光がほとばしり、飛び散る破片さえ次々と打ち砕かれていく。


「――ッ!」


 両者の刃が再び交錯した瞬間、さらに大きな爆発が起きた。

 眩い閃光と衝撃が中庭を包み、近くの建物がぐらりと揺れる。

 崩れかけた壁が軋みを上げ、悲鳴のように夜空へ響いた。

 舞踏会を控え、華やかな学園に潜んでいた闇は、今や爆ぜる炎と轟音に晒されている。

 斧と刀__破壊と斬撃。互いに一歩も退かず、激突のたびに夜そのものが震えていた。

 爆煙が漂い、砕けた石畳から熱気が立ちのぼる。

 中庭は見る影もなく荒れていたが、周囲の建物は辛うじて形を保ち、学園内に大きな動揺はまだ及んでいなかった。


 ヨグは肩で大斧を支え、無表情のまま立っていた。

 対するイズモは寂滅を構え、わずかに細めた目で相手を射抜く。


 沈黙が一拍。


「……この威力、王宮騎士の比ではない……お前、何者だ」


 冷たく、不愛想な声音が夜気を震わせた。

 イズモの眼差しは一切の揺らぎを許さぬ刃のよう。

 ヨグは淡々と返した。


「__私は、シュルズベリィ家付きの侍女、ヨグと申します」


 それ以上でも以下でもない、感情を欠いた口調。

 だが、その瞳には言葉と裏腹に、何ひとつ侍女らしからぬ異質な光が宿っていた。


「あくまでシラを切るか……!」


 ヨグは答えない。ただ、大斧を少しだけ持ち直し、再び夜気を裂く気配を纏わせた。

 言葉よりも行動で、己の存在理由を語るかのように。


「鳴れ寂滅、光芒!」


 瞬きをするほどのわずかな時間の中に斧と刀が幾度もぶつかり合い、火花が散るたびに中庭はさらに荒れ果てていった。

 吹き飛んだ石畳の破片が宙を舞い、ひしゃげた生け垣が剣閃に照らされ、夜の闇を赤く染める。

 イズモは踏み込み、寂滅を振り下ろす。

 ヨグは大斧をわずかに傾け、最小限の力で受け止める。

 そのまま反撃はせず、淡々と次の一撃を待つ。


「……っ」


 鍔迫り合いの中で、イズモは息を吐きながら気づいた。

 __ヨグは追わない。決して無理に攻め込んでこない。


 彼女はただ、自分の動きを受け止め続けている。

 振り下ろす力、斬り抜ける速度、込められる魔力の波。

 そのすべてを測り、確かめ、そして――待っている。


(……私が削られるのを、黙って見ている……!)


 焦燥が胸を焼いた。

 魔力を荒く流すたびに刀身の残光が揺らぎ、制御の粗さが露わになる。

 ヨグはそれを冷徹に見抜き、凛とした姿勢のまま受け止めているのだ。


「貴様」


 交錯の刹那、イズモは低く吐き捨てるように呟いた。


「最初から……」


 ヨグの瞳は揺らがない。

 ただ冷たく、夜空の月光を映しながら、無言の肯定を返していた。

 息を切らしながらも、イズモは一歩退き、寂滅を下段に構えた。

 刀身に魔力が注ぎ込まれ、白刃は灼けるような赤光を帯びていく。

 空気が軋み、周囲の夜気が熱を帯びた。


「__灼けろ寂滅、西方ノ虎」


 低く囁くと同時に、地を蹴った。

 刀身は炎を裂く獣のごとく迸り、炎を纏った虎の幻影が夜空を駆け抜けたかのように、ヨグへと迫る。

 ヨグは即座に大斧を構え、防御の姿勢を取る。

 その身は微動だにせず、凛として立ちはだかった。


 次の瞬間__。


 轟音とともに、爆風と閃光が爆ぜた。

 黄金と白銀の魔力の奔流が渦を巻き、石畳が割れ、中庭を完全な更地へと変えていく。

 防御を固めていたはずのヨグの大斧が火花を散らし、無防備を曝す。


 __ひらり。


 爆煙の中で、布切れが宙を舞った。

 ヨグのスカートの裾が鋭利に裂かれ、夜風に散っていったのだ。


 ヨグは無表情のまま、かすかに視線を落とした。

 切り裂かれた布地が燃え尽きるように落ちるのを見届け、再び冷たい瞳をイズモへ向ける。


 イズモは肩で息をしながらも、刀を構え直していた。

 その目にはまだ衰えぬ闘志が燃えている。


「……まだ立つか」


 夜の中庭に、ふたりの影が再び向かい合う。

 寂滅を握るイズモの声が、夜を切り裂く。


「……フィアナの付き人を殺したのも、お前だろう」


 その言葉には怒りも苛立ちもなく、ただ冷えた確信だけが込められていた。

 ヨグは大斧を肩に担ぎ直し、わずかに顎を傾ける。表情は変わらず、声も揺らがない。


「えぇ。あなたを誘い出すために」


 淡々と、しかし一片の迷いもなく告げられたその返答に、夜気がさらに冷え込む。

 イズモの眉がわずかに動く。


「……あの手紙も」


「えぇ、そうすればあなたが必ず動くと分かっていましたから」


 ヨグの冷徹な告白に、イズモの胸中で何かが弾けた。

 寂滅を握る手に力がこもり、静かな闇を裂くように踏み込む。


「__やはり、ここで斬る!」


 鋭い一閃が夜気を裂いた。

 寂滅の切っ先が、真っ直ぐにヨグの胸を狙う。


 だが__。


 ヨグは一歩も退かず、踏み込みと同時に左足を高く跳ね上げる。

 乾いた衝撃音が響き、寂滅の切っ先が蹴り上げられた。


「……っ!」


 刀身が夜空に弧を描き、イズモの体勢がわずかに崩れる。

 その隙を逃さず、ヨグは大斧を振りかぶった。

 巨刃がうなりを上げ、破壊の軌跡を描きながら振り下ろされる。


 ヨグの表情は依然として無表情。

 だがその姿勢は揺るがぬ凛としたもの、戦場の主導権を確かに掌に収めていた。

 大斧が振り下ろされ、轟音とともに石畳を粉砕した。

 爆煙が立ち込める中__そこにいるはずのイズモの姿は、跡形もなく消えていた。

 ヨグは崩れた石の上に立ち尽くし、無表情のまま視線を巡らせる。闇が濃く、風が止み、ただ中庭の影だけが妙に深く蠢いている。


「……生命感知バイタルサイン


 大斧を構え直しながら、ヨグは小さく呟いた。

 その声は冷ややかで、しかしわずかな警戒を孕んでいる。

 彼女の瞳に、鳥や虫のわずかな生体反応までもが光の点となって浮かび上がる。

 だが、肝心のイズモの気配はどこにも映らない。

 冷ややかな声が夜気に沈む。影は深く蠢き、そこに潜んでいるのは間違いないのに、術はまるで無力だった。

 ヨグはの底に意識を集中させる。凛とした姿勢のまま、次に訪れる一撃を待ち受けていた。


 次の瞬間、背後から風が裂ける。


「__撫でろ寂滅、竜の鱗削ぎ」


 寂滅の切っ先が、ヨグの背後影の中から矢のように突き出される。

 ヨグは振り返らず、大斧を肩から降ろし背後へと薙ぎ払った。

 火花と衝撃。鋼と鋼がぶつかり合い、爆ぜる音が中庭に響く。


「……統計的に」


 ヨグは淡々と告げる。


「探知を振り切ったエネミーの背後からの奇襲確率は87%。背後は最優先警戒事項です」


 冷ややかな分析を口にしながらも、その瞳は寸分の油断もなく寂滅を押し返していた。

 だが__。

 押し込まれたままの体勢で、イズモはふっと口元を歪める。


「……なら、残りの13はどうなんだろうね」


 意味ありげな笑みが闇の中で浮かび、ヨグの背筋にわずかな冷気を走らせた。

 背後で押し合っていたはずの寂滅が――ふっと重みを消した。

 ヨグがわずかに目を細めた瞬間、影が裂け、気配が正面へと奔る。


「__浚え寂滅、隠形流浪」


 低く囁く声とともに、イズモの姿が背後から正面へと滑るように出現した。

 その動きは空気の流れにさえ紛れるほど自然で、まるで最初からそこに立っていたかのようだった。

 光を映した寂滅の切っ先が一直線に突き出される。

 ヨグの胸元を狙った刃は、狙いを外さず、無慈悲に腹部を貫いた。


「……」


 布が裂け、冷たい鋼が肉を抉る。

 ヨグの身体が一瞬のけぞり、大斧の柄が石畳にめり込む。

 しかし、その瞳は相変わらず凛と揺るぎなく、わずかな苦悶すら表情に出していなかった。


「……統計だの確率だの、偉そうに語っておいて、このザマ?」


 ヨグは貫かれた腹部から血を滴らせながらも、眉ひとつ動かさず答えた。


「ええ。すべて計算通りです」


 無機質な声音。

 だが、その瞳は氷のように冷たく、痛みを拒絶するように凛としていた。

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