舞踏会編 前夜譚 2
静まり返った石造りの聖堂地下。灯火はほの暗く、湿った空気が漂う。
そこは、教会の表舞台では決して語られぬ暗部__「十字聖痕」が集う場所だった。
祭壇の奥、十字架を刻んだ仮面で顔を覆った者たちが沈黙の円卓を囲んでいる。
彼らの前には、一枚の報告書が置かれていた。
「……フィアナに付き従わせていた神父が殺害された」
低い声が報告を読み上げる。
瞬間、円卓を囲む空気が重く揺れた。
「舞踏会を前に……か」
「やってくれたな、王宮騎士団めが……」
「いや」
別の仮面の声が遮る。
「……報告では、件の神父は長大かつ鋭利な刃物で両断されていたそうだ」
低く告げられた言葉に、円卓を囲む仮面の者たちがざわりと動いた。
「両断……だと?紙を裂くかのように、骨も臓腑も真っ二つにされていたというのか」
「はい。しかも切断面は異様なまでに滑らかで……とても人間の業とは思えぬ」
沈黙。燭台の炎が大きく揺れ、壁に映る影がひときわ長く伸びた。
「……だが」
ひとりの仮面が低く言葉を重ねる。
「我ら十字聖痕の中に一人だけいるだろう。長大な刃を操り、同じことを成し得る剣術の申し子」
その言葉に、場にいる者たちの呼吸が止まった。
誰も名を口にしない。ただ、その存在を思い浮かべるだけで背筋に冷たいものが走る。
「……まさか。あの者が裏切ったとでも?」
「断言はできぬ。だが、あの神父を両断できるのは……奴を置いて他にはあるまい」
「うろたえるな。奴の裏切りは絶対にない」
低く、だが確信に満ちた声だった。
その響きに、場の空気が凍りつく。
一瞬の沈黙のあと、同じ仮面の口元から、押し殺したような笑いが漏れた。
「それに……奴ならば対処も容易だろう」
その笑みは嘲弄か、信頼か。誰にも判別できなかった。
ただ、燭台の炎が揺れるたび、円卓に座る仮面の奥で、不気味な安堵と恐怖が同時に膨らんでいくのを、全員が感じ取っていた。
「……ならば、あの神父は誰がやったというのだ」
円卓を囲む仮面たちは再び沈黙に沈んだ。
燭台の炎が小さく揺れ、湿った石壁に映る影がじわじわと歪む。
「やはり王宮騎士団の仕業では?」
誰かがそう口にした。だがすぐに、別の声が切り返す。
「あり得ぬ。王宮騎士の剣で、あの芸当をできる者など存在せん。……ただ一人、ゴットハルト卿を除いてはな」
その名を聞いた瞬間、場の空気がわずかに張り詰めた。
不死身の軍神、王宮最強の兵士。
だが、彼が直接学園に潜伏した神父を狙う理由はない。動くとなれば最初の一手は本部への攻撃と愛娘の救出だろう。何より、あの男は目立ちすぎている。密かに行動できる立場でもない。
「ならば……誰がやった?」
「我らの知らぬ剣。知らぬ立場。知らぬ手口」
囁きが連鎖していく。
やがて、ひとりの仮面が静かに言葉を落とした。
「……第三の声」
その言葉に、全員の背筋が冷たく強張った。
王宮騎士団でも、教会でもない。
だが姿を見せることもなく神父を一刀のもとに両断する力を持つ何者か。
「舞踏会は、王と教会の駆け引きの場で終わらぬ。第三の影が潜んでいると見て」
「あぁ間違いない」
仮面の奥からひそやかな笑いが洩れた。
恐怖と好奇心がないまぜになった、不吉な笑み。
燭台の炎がぱちりと弾け、闇の中で十字聖痕の者たちの影が、不気味にうごめいた。
「……奴らもいつまでも影にはいられまい。いずれ姿を現すだろう」
仮面の奥から低い笑いが洩れた。
教会を狙う第三の勢力__その正体は不明のまま。だが、王と貴族、そして教会が一堂に会する舞踏会は、必ずや格好の舞台となる。
「人であれ、怪物であれ。あれほどの力を隠し通せるはずがない。舞踏会の混乱に乗じ、必ずどこかで牙を剥く」
「ならば我らは__」
「二重の立ち回り」
仮面の一人が指を鳴らす。
「表では、従順なる聖堂の守護者として立ち振る舞う。王侯貴族の目に映るのは、あくまで敬虔なる信徒だ」
「……とはいえ」
仮面の一人が低く呟いた。
「舞踏会そのものに手を加えるのは得策ではない。あの場は、公爵令嬢とフィアナが婚約を発表し、教会と貴族の結びつきを強固にする舞台だ。我らが無闇に血を流せば、逆に結束を乱す」
別の仮面が頷いた。
「そうだ。あれは表の舞台、神の祝宴として完遂されねばならん。我らの手が届くのは__舞踏会の後、すなわち教会本部においてだ」
円卓を囲む空気が静かに熱を帯びていく。
「王宮騎士団は必ず動く。ならばその矛先を教会本部へ誘い込み、そこで迎え撃つ」
「だが、騎士団は強硬だ。連中を真っ向から叩き潰すには……何か決定的な縛りがいる」
燭台の炎が揺れた。
仮面の一人が口の端を吊り上げる。
「__舞踏会に集う生徒たちを人質とすればいい」
まさに外道。だが反論はなかった。
「王族、貴族、その娘息子たち。全員が生きた楔となる。人員は既に学園内に配置済み、騎士団が無謀に突入すれば、まずは彼らの命が散ると示せばいい」
「なるほど……。血の恐怖は、剣よりも強い枷になる」
仮面の間に不気味な笑いが漏れた。
「舞踏会は祝宴。教会本部は戦場。そして生徒たちは人質。……これで王も騎士団も、思うように縛れる」
揺れる燭火の下、十字聖痕は冷酷に舞踏会とその後の戦いの構図を描き出していた。
また別の仮面の一人が低く呟いた。
「喜べ」
その言葉に、全員の視線が集中する。
「我らの懐刀は舞踏会には出席せぬと申した」
ざわめきが走った。
彼らの間に息を呑む気配が広がり、次いで押し殺した笑いが漏れ出す。
「……つまり、舞踏会の場では顔を見せず、全力で教会本部の戦場に備える、ということか」
「そうだ。王国騎士団との決戦に、奴を充てられる」
仮面たちの口元が、不気味に綻んでいく。
「はは……これで勝てる」
「不死身の軍神とて、奴を相手にすればどうなるか」
「王国の盾を叩き折る、その光景が目に浮かぶわ」
暗い笑い声が、聖堂の地下に重く響いた。
戦慄すべき“懐刀”の存在が、十字聖痕の背中を確かに押し、彼らの心に冷酷な歓喜を芽生えさせていた。
「__目前の舞踏会こそ、我らにとって最大の転機となる」
ひとりの仮面が、低く語り出した。
円卓の上には舞踏会の座席表と、王侯貴族の紋章が記された羊皮紙が広げられている。
「公爵令嬢ベルナデッタとフィアナ殿下の婚約を公の場で発表すれば、王侯と教会はさらに結びつきを強めるだろう。そして、その余波は必ずシュルズベリィ領に及ぶ」
別の仮面が頷いた。
「……婚約はただの口実だ。本当の狙いはその後だ。支援の名目で、領内の各地に教会の集落を配置する。孤児院、診療所、駐屯地……建前はいくらでも作れる。だが実態は、領を内側から食い破るための繭となる」
「ベルナデッタが学園を卒業した後は、当然フィアナの正妻として王都に越させる。そうして領主は不在となり、実質的にシュルズベリィ公爵家は教会のものとなる」
仮面の奥で、冷たい笑いが漏れる。
「……もしベルナデッタが抵抗するなら?」
「そのときは方法を選ぶ必要はない。言葉での説得に価値がなければ、薬で意志を鈍らせるもよし、聖句で精神を縛るもよし。……洗脳もまた信仰の延長に過ぎぬよ」
「むしろ、信心深い嫁として調整できれば好都合だ。笑みを絶やさぬ善き妻ほど、人は疑わぬ」
燭台の炎がぱちりと音を立てた。
その明かりの下で、十字聖痕の者たちは冷徹に頷き合う。
「舞踏会は祝宴ではなく、領地を丸ごと掌握するためのはじまりに過ぎぬ」
「そして、王宮騎士団が乱れれば、生徒を人質に縛り上げて揺さぶる。王国も領地も、すべては教会の掌の内に落ちる」
仮面の奥から、堪えきれぬ嘲笑が重なった。
その声は、もはや信仰の響きではなく、領土と人心を喰らい尽くす獣の声だった。
仮面たちの笑いが収まりかけたところで、ひとりが声を潜めた。
「……それとだが、別件が」
円卓に再び沈黙が落ちた。
「魔族の魂を封じていた匣が、何者かに持ち出されたとの報せだ」
ざわり、と空気が震える。
魔族__その名が持つ響きは、500年前の戦乱の記憶を呼び覚ます。
かつては人間の国々を蹂躙し、大陸の半分を灰に変えた。
膂力と呪詛に加え、神にすら抗う異形の種族。
長き戦の果てに、人類は辛うじて勝利したが、犠牲は計り知れず、魔族は滅び去ったとされていた。
「……まさか。滅んだはずの奴らが、復活するなど」
「匣はその残滓だ。魂だけを封じ、再び蘇ることがないように封印した。匣それ自体には意味はない……」
そこで仮面の一人が声を潜めた。
「だが、正しき人物が触れたならば別だ。封を解く鍵を持つ者が現れれば……魂は呼び覚まされる」
重い沈黙。
誰もが思った。学園で暗躍する第三の勢力の狙いは、魔族の復活ではないか、と。
「……福音か」
誰かが吐き捨てるように呟いた。
仮面の奥で、全員がわずかに顔を上げる。
「奴らの名を久しく聞かなかったが……この混乱の裏に潜んでいるのなら筋は通る。奴らこそ、滅んだはずの魔族を再び神の器として掲げようとする狂信者どもだ」
「ならば放置できぬ。我らが王宮騎士団と戦う一方で、福音の影も潰さねばならん」
燭火がぱちりと弾け、仮面たちの口元に冷酷な笑みが浮かんだ。
「舞踏会は祝宴……だがその裏で、古き戦乱の亡霊が目を覚まそうとしている。第三の影が何者であれ――我らが十字聖痕の敵であることは変わらぬ」




