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ブレックファーストはジャンクフード

 __暁の訪れ。


 東の空に朱と黄金が交じり合い、世界が再び呼吸を始める。

 これ以上ないだろうほどに豪奢な邸宅の奥、かつて王侯の舞踏会をももてなした広間、それに匹敵する寝室に、ひとりの令嬢が立っていた。シュルズベリィ公爵家が一人娘、ベルナデッタ・フォン=シュルズベリィ。

 度重なる財政難と活発化した魔物から領民を守るための防衛費とで財力の7割を失い、没落貴族と嘲られながらも、その姿はなお威厳を帯び、気高き血筋の輝きを宿していた。

 長い睫毛に宿る朝露の光は、まるで宝石のように瞬き、整った横顔は古の彫像を思わせる冷たさと優雅さを兼ね備えていた。

 彼女は水差しを持ち上げた。

 その動きひとつにすら、宮廷舞踊の型のような規律と流麗さがあった。流れ出る水は光を受けて銀糸となり、洗面器に落ちるたび、水面が鏡のように煌めく。

 鏡に映るのは、疲労も絶望も許さぬ、完璧に作られた貴族の貌。

 指先に香油をまとわせ、燃えるような赤髪へと櫛を通す。一筋一筋が朝日に溶け込み、室内を照らす炎のヴェールとなる。櫛の軌跡は吟遊詩人のチェロの旋律、毛先の流れは踊り子の裾さばき。

 その光景は、もし誰かが目にしたなら、詩人は百篇の詩を編み、画家が千枚の肖像画を描き、楽師が万の音楽を奏でるに違いなかった。

 衣桁に掛けられたアンスティーユ王立学園の制服へ歩み寄る足取りもまた、舞踏のワンシーン。

 深い藍を基調とした上着は、格式ある学園の象徴であり、袖口や襟元に施された金糸の刺繍は、貴族の子息にふさわしい気品を誇っていた。


 彼女が布に触れた瞬間、制服は喜びの歌をあげ、青の色彩が朝日に燃え立つように輝く。深藍の袖を通し、金色のボタンを留め、指先でリボンを結ぶ――。その一連の所作は、王国史に記されるべき儀式と錯覚させるほどに荘厳であった。

 しかし、それらは本来すべて侍女の手で整えられるはずの仕事であった。


「今日も気を引き締めなければ……」


 その囁きは祈り。

 その姿は女神。

 その心は烈火。


 __しかし、そこに侍女の姿はない。


 袖に腕を通そうとして逆に裏返しに突っ込み、ボタンの位置を間違えて歪に留め、リボンの結び目は左右で大きさが揃わない。

 靴下を引き上げれば片方は膝上、もう片方は踝で止まり、コルセット代わりのベルトは腰骨の上でくるくると回転した。


「……ぐ、ぐぬぬ……!これくらい、令嬢としてッ!当然ん……!!」


 帯代わりのリボンをきつく締めようと、ぴょんぴょんと野ウサギのように跳ね回り、そのたびにスカートのプリーツが無惨に乱れていく。


「……っ、し、しつけの授業では、侍女が、やって、くれてたのに……!」


 やがてして、鏡の前に映る姿は確かに堂々とした公爵家の令嬢。しかし、その直前まで全力で飛び跳ね、悪戦苦闘していたことを知る者はいない。

 やがて最後のリボンを結び終えたとき、彼女は胸を張り、堂々と鏡に微笑んだ。


「__完璧。これで、誰にも恥じない、シュルズベリィ公爵家の一人娘よ、ベルナデッタ」


 ただし、背中のボタンは二つ開いたままであった。

 その瞬間、扉のほうからバァァァァァン!と雄弁な破砕音が飛び込む。木片。粉塵。優雅なる静寂は、粉々に砕けた。


「…………」


 ベルナデッタは一瞬まばたきもせず、宙を見た。

 扉の残骸の向こうから、長身の影が現れる。


「おはようございます、ご息女様。朝食、お持ちしました。」


 その光の中に立っていたのは、この屋敷に寄生するヒモ__その従者、ヨグであった。


 朝露のごとき髪は陽光に透け、オパールの艶を帯びて流れる。

 無駄のない姿勢、吸い込まれるように白い肌。

 輪郭は滑らかな大理石を削り出したかのようで、表情ひとつ揺らがぬその横顔は、絵画の女神像を思わせた。彼女の纏うメイド服は決して華美ではない。だが、淡い朝日に縁取られると、布の皺ひとつすら計算されたかのように美しかった。


「……不愛想メイド」


 ベルナデッタは、その美しさに思わず息を呑みかけ__、次の瞬間、銀盆の上にある奴隷階級のおやつを見て我に返った。


「……朝食?」


 朝日に包まれ優雅に立つその姿が、神々しければ神々しいほど、盆に乗る粗末な品の落差は凄まじかった。


「干し肉と、芋を薄く切って油で揚げたやつです」


「………………」


 ベルナデッタの笑顔が、一瞬だけぴくりと引きつった。


「メイド」


「はい」


「それは……なにかしら?」


「ですから、朝食です。干し肉と、芋を薄く切って油で揚げたやつです」


「この……薄く切った芋は?」


「ご主人様考案の朝食、ポテトチップスです。うす塩味です。無限に食べられる。野菜だから太らない。人類最高の発明」


「この……干からびた……肉の切れ端は?」


「異国で親しまれる朝食をご主人様がアレンジしました。香辛料をふんだんに使った干し肉、ビーフジャーキーです。発泡酒との相性も抜群、たんぱく質豊富。歯ごたえ最高」


 ベルナデッタは、ひとつ息を吸った。

 深く、深く。

 気圧が下がるほどに。


「…………なるほど」


「お口に合わなかったでしょうか?」


 そのとき、部屋の隅から、妙に誇らしげな声がした。


「ふっ……その朝食、オレのチョイスだぜ」


 振り返れば、椅子の上でふんぞり返るウィル。

 腕を組み、ドヤ顔。

 全身から「センス良くね?」という自信がにじみ出ていた。


 ベルナデッタは振り返らず、ただ静かに言った。


「メイド」


「はい」


「前の侍女が残しておいてくれたレシピの書置き、見たかしら」


「はい」


「朝食、なぜレシピ通りに作らなかったの?」


「あ、それオレ。パプリカのサラダだとかウサギ肉とキノコのテリーヌだとか、気持ちわりぃ料理ばっかだったから俺流の素晴らしいメニューに改良してやったぜ!」


「……そう」


 ゆらりと立ち上がるベルナデッタ。

 その姿は、舞踏会でパートナーを指名する女王のように優雅だった。

 だが——。


「ウィルうううううううあああああああああああッ!!!!!」


 豹変した。

 椅子が倒れた。

 ウィルが悲鳴を上げた。

 そして、残骸と化した扉の向こうへ__


「あんぎゃあぁぁぁ!!?」


 二人分の朝食とウィルの身体が同時に吹っ飛んだ。


 ヨグは静かに銀盆を回収し、粉塵を払いながら言った。


「……失礼いたします」


 ベルナデッタは髪の乱れをそっと整え、深く、深くため息をついた。


「お父様……」


赤い宝石のような瞳は潤み、見上げた朝日と、その向こうで手を振る誰かに助けを乞うていた。


「……わたくし、今日という一日を乗り越えられる気がいたしませんの」


 とはいえ、彼女は今日も美しい。

 美しく、そして……空腹であった。



 ***



 馬車は朝の石畳をゆっくりと進み、窓外の街並みが揺れて流れていく。

 ベルナデッタは腕を組み、眉をひそめて吐き捨てた。


「……アイツってば、見送りもなし。ほんっと居候のくせに失礼にもほどがあるわ」


 ヨグは小さく頷く。


「……無礼、ですかね」


「そうよ!何から何まで無礼なの!働かない、寝てばかり、お菓子ばかり。最高級のヒモですって、笑わせるわ」


「……正確には、“極上のヒモ”と自称していました」


「確かに正しくはそうね。何もかも間違っていることに目を瞑ればね」


 ベルナデッタは額に手を当て、ため息をつく。


「それによ、勇者の聖剣だか盗品だかを、ドアのつっかえ棒にしてるのよ?普通なら畏れ敬うものを!」


「……ドアを固定するという目的だけ見れば、最適解です。聖剣は頑丈ですから」


「そういう話をしてるんじゃないの!」


 声が馬車に反響する。

 しかしヨグは揺るがず、少し首を傾げて問いかけた。

 ヨグはわずかに瞬きし、無感情に締めくくった。


「……理解できません」


「……っ。お互い様ね!」


 ベルナデッタの苛立ちとヨグの無表情な応答が交錯し、馬車はぎしぎしと揺れながら学園へと進んでいった。街を超え、腰に悪い振動をじっくりと味わいながら、そのキャビンの中では物々しい静寂がじっとりと空気を支配していた。


「……まったく、私の悩みを、悩みの種のメイドに言っても仕方ないわよね」


「はい。私は43分前からそう感じておりました」


 ヨグは無感情に応じ、それ以上の言葉を挟まなかった。小さな沈黙が、馬車のきしむ音に飲み込まれていく。

 ベルナデッタは背筋を伸ばし、己を取り戻すように顎を上げた。


「__いいわ。どうせもう着く頃でしょう。」


 そうして馬車は街の大路を抜け、緩やかな坂を上る。

 やがて視界の先にそびえ立ったのは、王国の栄光を象徴する壮麗な学び舎……アンスティーユ王立学園であった。その尖塔は雲を突き、白亜の外壁は朝日に輝き、幾重にも重なるアーチとステンドグラスは荘厳なる大聖堂を思わせる。

 王家の紋章を戴いた門扉には古の魔法文字が刻まれ、近づく者に畏怖を抱かせるほどの威容を誇っていた。

 ここは、王都に名を馳せるすべての貴族子弟が集い、社交と教養を磨く場。歴史は数百年に及び、過去には宰相や元帥、王妃すら輩出したとされる。貴族社会の縮図にして、未来を決める舞台、それがアンスティーユ王立学園である。


 没落を目前にしたシュルズベリィ家の令嬢ベルナデッタにとって、ここは希望と試練の場の両方を意味した。

 栄光を失った家の名を背負い、嘲笑浴びるのも覚悟のうえで、それでも歩みを止めることはできない。

 窓越しに尖塔を見据えながら、彼女は拳を固く握りしめる。


「……負けるわけにはいかないのよ」


 馬車は石畳を鳴らし、アンスティーユ王立学園の正門へと近づいていった。


「__提案。必要であれば私にその敵の情報を提供いただけば速やかに撃滅いたします」


「たわごと言ってんじゃないわよ馬鹿メイド」


 馬車が門前に止まり、扉が開く。

 ベルナデッタは裾を持ち上げ、堂々と石畳に降り立った。

 朝の光に赤髪が揺れ、毅然とした姿は誰が見ても絵画のように美しい。

 だが、彼女が集める注目は、羨望でも憧憬ですらもなかった。同じく門前にいた学生たちの視線が一斉に集まり、押し殺した笑い声が走った。


「……あら、戻ってきたのね」


「よく顔を出せるわ。あの家の娘が」


「あんな無様を晒して気丈なものですこと」


 嘲りと憐れみが入り混じった囁きが、さざ波のように広がる。

 それは共通認識、もはや定番の反応だった。

 シュルズベリィ家の没落令嬢、学園での彼女の呼び名は、それ以上でもそれ以下でもない。


 ベルナデッタは耳に入っていながら、一瞥すら与えずに背筋を伸ばす。

 赤い瞳には氷のごとき気高さが宿り、その歩みにはひと欠片の揺らぎもない。


「笑うがいいわ……わたくしは決して下を向かない」


 ベルナデッタは笑い声の渦を振り切るように顎を高く上げる。

 彼女にとって、この視線と嘲笑はすでに日常。

 そして、校門前に差しかかった瞬間、ざわめいていた生徒たちの中から、ひときわ澄み渡るような鮮やかな声が響いた。


「まあ……シュルズベリィの令嬢ではなくて?」


 振り返ったベルナデッタの視線の先に立っていたのは、深い青を基調とした王立学園の制服に身を包んだ少女だった。

 同じ制服であるはずなのに、彼女が纏えばまるで仕立て上げられた舞踏服のよう。

 磨き抜かれたボタンの金具は朝日に眩しく輝き、スカートの裾の一振りですら計算された優雅さを漂わせていた。


「噂は聞いていたわ。あなたの侍女が、体を壊したんですって?……まあ、かわいそうに__」


 だが次の瞬間、突然現れたその令嬢の視線はふと横に滑り、固まった。

 侍女が体調不良で休暇を取った、確かにそう聞いていたはずの哀れなベルナデッタの隣には、小綺麗な黒衣に身を包んだ、無表情の馬鹿メイドが立っていた。ざわめく人垣の中、ベルナデッタの隣に立つ侍女は一歩前へ出た。

 黒曜石の瞳が冷ややかに周囲を掃き、吐息すら揺るがぬ声が響く。


「__わたくしは、シュルズベリィ公爵家付きの侍女、ヨグと申します」


 ベルナデッタの、雄弁な鼻息が静寂によく響いた。

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