舞踏会編 前夜譚 1
王都の中心にそびえる王宮騎士団本部。重厚な石造りの会議室には、燭台の炎だけが揺れ、沈黙の中にかすかなざわめきが混じっていた。
長机を囲む騎士団幹部たちは皆、硬直した表情をしていた。地図の上には教会本部の見取り図と駐屯兵の数が並べられているが、その上に落ちる影は不安と疑念を色濃くしていた。
「……マリーヌ嬢は依然として教会に拘束されたまま。救出の目途は立たず」
報告の声に、ざわめきが広がる。誰もが視線を逸らし、ある者は拳を震わせ、ある者は冷や汗を拭った。
「暴風の槍が……戦死とは……」
小声でつぶやいた壮年の騎士の声は、誰も拾わぬまま会議室に沈んでいく。かつて軍神ゴットハルトの右腕として戦い、この国を守り抜いた槍が倒れた事実は、騎士団にとって敗北以上の意味を持っていた。
さらに別の報告が続く。
「加えて、秘密裏に派遣したエインヘリヤル子息の婚約者シュルズベリィ嬢の暗殺部隊も……消息を絶ちました」
机を叩く音が響いた。
「まさか……教会はどれだけの力を隠し持っているというのだ」
怒声に混じるのは恐怖だった。彼らの脳裏には、神を標榜する者たちが不気味な微笑を浮かべながら人を屈服させる光景が浮かんでいた。軍略では計れない、得体の知れぬ力への本能的な恐れ。
「……しかし、ここで手をこまねいていては王国そのものが教会の手に堕ちる」
苦渋の声が広がる。だが反論もまた飛び交う。
「だが、強行すればこちらの被害は甚大だ! 正面衝突では勝ち目は薄い!」
「しかし時間を与えれば、奴らはますます根を張る!」
「そもそも、舞踏会の最中に突入など正気の沙汰か!」
言葉が重なり合い、会議室は一時騒然とした。椅子が軋み、誰もが互いを睨み合いながら声を張り上げる。
荒れ狂うような議論が飛び交う会議室に、重厚な扉が音を立てて開いた。
「……静まれ」
低く響く声に、騎士たちの喧騒は一瞬にして鎮まった。
入ってきたのは鎧をまとった巨躯の男__ゴットハルト・ド=フォルジュ。
不死身の軍神と謳われる王宮騎士団の将軍にして、戦場で幾度も伝説を築いた最強の兵士。その姿に、場にいた誰もが背筋を正す。
「将軍……!」
敬礼が自然に広がる。ゴットハルトはそれを軽く受け流し、卓の地図へと視線を落とした。
「……暴風の槍を失い、密命部隊も沈黙。さらに__」
言葉が途切れた。声がわずかに揺れる。
「……マリーヌが、事実上の人質となっている」
将軍の顔に影が差した瞬間、会議室の空気は再び重く沈んだ。
最強の兵士でありながら、一人の父でもある男。その苦悩は誰もが理解できる。
「将軍……ここは退くべきかと」
「しかし、奴らを放置すれば王国は……!」
再び口々に意見が飛ぶが、ゴットハルトは手を挙げて制した。
「……恐怖は理解する。私も父として、決断を誤れば娘を失う」
その声は低く、だがはっきりと会議室を支配した。
「だが__騎士団は王国を守る盾であり剣だ。ここで動かねば、教会の力はさらに膨張し、いずれ我らが剣を取る機会すら奪われる」
ゴットハルトは拳を机に置き、赤く印のつけられた教会本部を指差した。
「舞踏会当日、混乱の只中に一気に突入する。それが唯一、奴らを討つ機会だ」
強靭な声に、幹部たちは息を呑んだ。だがその瞳の奥には、父としての迷いが確かに宿っている。
「……娘を、マリーヌを救いたい。それが私の本心だ」
ゴットハルトの言葉に、会議室の空気は凍りついたように沈黙した。
父としての声を聞くことなど、これまで誰も想像したことがなかった。彼は常に戦場に立ち、矢を浴びても剣に貫かれても前に進む、不死身の軍神。その男が、娘ひとりのために声を震わせている。
ゴットハルトは拳を握りしめた。胸の奥から、どうしても抑えきれぬ言葉が漏れ出す。
「……カリオス=トルナードを失った。あの男は、数えきれぬ戦場を共に駆け抜けた我が戦友だった」
重々しい声が卓に落ちる。
「幾千の敵を前にしても背を預けられる唯一の男。常に前を行き、誰よりも軽やかに嵐を切り裂いた……その彼が、教会の手にかかり散ったのだ」
ゴットハルトの眼差しが揺れた。
不死身と謳われる男の胸に、戦友を失った空洞がぽっかりと開いている。
「……我らは、戦友を失い、娘を奪われ、それでも剣を取らねばならんのか」
低く、苦渋を滲ませた言葉。幹部たちは誰も答えられなかった。ゴットハルトの心情は理解できたが、同時に彼にしか背負えぬ責務もまた分かっていたからだ。
ゴットハルトは顔を伏せ、深い息を吐いた。その胸中には、父としての焦燥、戦友を失った悲嘆、そして将軍として王国を守らねばならない宿命が、重石のようにのしかかっていた。
「……だが、剣を取らねばならぬ。そうしなければ、カリオスの死も、娘の苦しみも、無駄に終わる」
静かに、しかし確固とした決意が、その声には宿っていた。
その言葉を吐き終えたゴットハルトは、卓上に両手を置き、ゆっくりと顔を上げた。
鋼のような視線が会議室を貫き、一同を射抜く。
「王宮騎士団よ! 恐怖を抱くのは恥ではない。だが、その恐怖に膝をつくことこそ恥辱だ! 剣を取り、盾を掲げよ! 我らは王国を守護する最前の壁にして、最後の砦である!」
雷鳴のような声が石壁に反響し、兵たちの心を揺さぶった。
沈黙していた幹部たちの胸に熱が走り、やがてひとり、またひとりと立ち上がる。
「おおおおおおッ!」
雄叫びが重なり合い、会議室の空気が一変した。
恐怖と混乱に押し潰されていた兵たちは、将軍の言葉を合図に炎のように立ち上がり、その場を震わせた。
ゴットハルトはその熱を受け止めるように頷き、卓上の地図に手を伸ばした。
「舞踏会当日、教会本部は必ず動く。そこで我らも一気に突入する。第一部隊は正門を制圧、第二部隊は地下回廊から侵入し、内部を混乱させろ。第三部隊は後詰めとして包囲を固め、退路を断つ」
地図の上に将軍の指が走り、突入の矢印が次々と描かれていく。
「__教会を王国から引き剝がす。これは救出と殲滅を兼ねた戦だ。娘を奪われた父としてではなく、将軍として命じる!」
重々しい決断の言葉に、兵たちは一斉に拳を握り、叫んだ。
「応ッ!」
戦いは避けられない。恐怖を超えた覚悟が、今まさに騎士団を突き動かしていた。
「……しかし、将軍。どうしても腑に落ちぬことがございます」
会議室にざわめきが走る。ゴットハルトは眉を寄せ、短く促した。
「申してみよ」
「学校に潜伏していたあの神父__確かに教会側の要人でありましょう。ですが、あの者が殺されたと聞きました。しかも……今朝、発見されたばかりだと」
再びざわめきが広がる。幾人かは視線を交わし、誰もが同じ疑問を抱いた。
「……おかしいではありませんか。シュルズベリィ公爵令嬢の暗殺部隊はおそらく撃退された以上、教会の人間を狙う組織など、我々以外に存在しないはず」
沈黙が落ちた。
燭台の炎が小さく揺らぎ、石壁に伸びる影が長く歪む。
「だが、現に奴は殺された。しかも痕跡は拭い去られ、犯人の影すら掴めない……」
誰かの声が、低く震えながら室内を満たした。
その声に呼応するかのように、空気が冷えていく。
「……まるで、我らの知らぬ何者かが、教会の暗部を先んじて食い荒らしているようだ」
言葉を発した騎士は顔を青ざめさせ、口を噤んだ。
会議室にいる全員が、理解したくない可能性を胸の奥で想像したからだ。
__教会を狙うのは、騎士団だけではない。
そしてその「何者か」は、すでに内部に爪を立てている。
燭台がぱちりと音を立てた瞬間、全員の背筋に寒気が走った。
ゴットハルトは重苦しい沈黙を破り、低く告げた。
「……ならば、なおさら動かねばならぬ。我らが後れを取れば、何がこの国を食らうか分からん」
その言葉には揺るぎがなかった。
だが、父としての苦悩に加え、見えぬ敵の影が彼の胸をさらに重くしていた。
「……ところで、ヴィヴァーチェ領の魔物の活発化についてなのですが」
会議室に緊張が走る。教会との衝突に備えて練られた作戦が、別の危機によって揺さぶられる。
「あちらには王都から魔物専門の銀騎士小隊を派遣したはずだが、まさか全滅したとでも__?」
「あ、いえ……」
報告役の騎士は紙束を見下ろし、信じがたいという顔で続けた。
「逸話級の魔物が、いくつも屍となって発見されております。喰い荒らされたのではなく、明確に殺された形跡があったと」
ざわり、と空気が震える。
逸話級__それは王国でも数えるほどしか存在しない、人知を超えた脅威のはず。騎士団ですら一個中隊を投じてようやく退けるほどの存在が、あっさり屍を晒していた。
「……当事者は?」
ゴットハルトの問いに、報告役は首を振った。
「不明……ですが、報告にさらに補足があります」
読み上げる騎士の声は、今やかすかに震えていた。
「発見された逸話級の魔物の屍……いずれも魔術の痕跡が濃厚に残されておりました。だが、それだけではありません」
会議室の空気が凍りつく。ゴットハルトが低く促した。
「詳細を述べよ」
「……第一の屍はタイラントグリズリーの群れ長、さらに変異種でした。鋼のごとき甲皮を誇った怪物ですが、首から上を吹き飛ばされていました。その断面は……何度も刃を立てられたかのように細切れにされ、ミンチ状になっていました」
幹部たちの顔色が青ざめる。
「第二の屍はテュポーン。森を呑み尽くすと恐れられた大蛇ですが……胴体はその切断面も同様。周囲に肉片が散乱していたとのことです」
「第三の屍、グリフォン。地方では信仰の対象にもなっている有翼の魔物です。翼は炎で焼き落とされ、墜落後に首を断たれていました。ですがその断面もまた__」
誰かが短く吐息を漏らした。
それは恐怖を飲み込めなかった音だった。
「……魔術と刃。どちらか一方ではなく、両方を繰り返し用いた痕跡、か」
「人が……これをやったというのか……?」
囁きが広がり、蝋燭の炎がゆらゆらと揺れる。
壁に映る影は歪み、まるで何か得体の知れぬ存在がすでに部屋に潜んでいるかのようだった。
ゴットハルトは拳を握りしめ、静かに言葉を落とした。
「……逸話級の魔物が屍を晒す。それだけでも異常だ。だが、その殺され方は__正気の者の仕業とは思えぬ」
不死身の軍神のその言葉が、会議室に集う者たちの背筋をさらに冷たくした。
ひとりの騎士が吐き捨てるように言うと、別の者がかぶせるように声を上げた。
「むしろ怪物の仕業だ!いや……人であってはならん」
一斉にざわめきが広がる。
額に汗を浮かべた若い騎士は身を震わせ、顔を伏せた。
「もしその者が教会に与していたなら……王国は、既に……」
恐怖の連鎖は止まらない。
だがその中で、別の声が割り込んだ。
「……いや、逆に考えるべきだ」
重苦しい沈黙が落ちる。声の主は老練の参謀格だった。
「もしその力を持つ者が、人であるなら……冒険者ギルドを通じて接触を図る価値がある。逸話級を斃せる力を味方につけられれば、教会との戦いも覆せるかもしれぬ」
「正気か! そんな怪物じみた者を、この王宮に招き入れるというのか!」
「だが、兵の損耗は限界だ。王国を守るには、血も誇りも飲み込んででも戦力を補わねばならん!」
会議室に再び激論が渦巻く。
恐怖と打算が混ざり合い、誰もが己の声を張り上げながらも、心の奥底では同じものを思い描いていた。
__この国のどこかに、人でも魔物でもない何かが潜んでいる。
そしてそれは、教会以上に恐るべき存在かもしれない。
ゴットハルトは目を閉じ、苦渋に満ちた息を吐いた。
父としての心を砕かれ、戦友を失い、そして今は見えぬ敵の影にまで怯えねばならない。
「……怪物であろうと、人であろうと。利用できるものはすべて利用する。それが戦だ」
力強い声で告げられた言葉に、兵たちは口をつぐんだ。
恐怖は消えない。それでも王宮騎士団は動かねばならない。




