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吠える一刀と人形の体温

 襲撃者たちは無言のまま、影のように間合いを詰めてきた。

 ベルナデッタの背後へ退路を断つように立ち回り、まるで彼女だけを標的とする獣の群れのようだった。


「ベルナデッタ、走れ!」


 フィアナの声が響く。腕を突き飛ばされ、よろめきながら数歩下がった瞬間、刃の閃きが闇を裂いた。

 金属の鈍い音。次いで、鉄の匂いが夜気を満たす。


「……ッ!」


 フィアナの肩から肘にかけて、鮮血が奔った。右腕が剣を持つことも盾を構えることもできなくなるほど深く、鋭く斬り裂かれていた。

 ベルナデッタは声を失った。

 普段の穏やかな糸目の微笑しか知らない彼が、苦痛に顔を歪めながらも、なお自分を庇って立ちはだかっている。


「行け!」


 歯を食いしばり、片腕を押さえたまま、フィアナは再びベルナデッタの背を押した。

 襲撃者の剣先はなお、彼女だけを狙って揺れている。


「なんで、なんで……」


 胸の奥で混乱と恐怖が渦を巻く中、ベルナデッタは足を前へ踏み出すことすらできない。ダンスのような複雑なステップも、小気味の良いリズムに乗る必要もない。ただ早く、寮に戻って助けを呼ぶ。それだけなのに、踏み出せずにいる。


「早く、逃げるんだ!」


「いや、フィアナ!」


 ベルナデッタの足は石畳に縫いとめられたように動かなかった。

 逃げようと頭では理解しても、恐怖に絡め取られた体は震えるばかりで一歩も踏み出せない。


 襲撃者たちは無言で迫る。

 刃がわずかに揺れるたび、月光が反射して冷たい光を放つ。


「……だれか……!」


 絞り出すような声は、やがて震える叫びとなった。


「だれか、助けてよ!」


 その瞬間、風が夜空を裂く。


「瞳術・虎ノ眼(トラノメ)


 月明かりを背にした影は、静かに天より降り立った。

 長身のその腰には、異国の造りを思わせる一本の刀が帯びられている。その琥珀色の瞳は月よりも強くぎらつき、捕食者の貫禄を隠さず解き放っている。漆黒の鞘は夜気と同化し、鍔に刻まれた模様だけが淡く光を受けていた。


「賊は十か」


 次の瞬間、鞘走りの音とともに橙色の軌跡が闇を裂いた。ただの斬撃ではない。刀身を走る光が空気を震わせ、きらめく刃文からは無数の魔力文字が浮かび上がる。

 ベルナデッタは目を見開いた。

 そこに立っていたのは__三学年、生徒会書記 イズモ・エトワール=カグツチだった。


「吠えろ寂滅、大殺界」


 低く呟くイズモの声と同時に、揺らめく霧のような魔力が刀身から噴き出した。

 それは疑似的な斬撃となって周囲に広がり、襲撃者の姿を曖昧に呑み込んでいく。

 霞に踏み込んだ瞬間、敵の影は刹那のきらめきに切り裂かれ、呻き声もなく崩れ落ちた。


「魔力が斬撃に……?」


 それを見たフィアナは力が抜けたようにその場にへたりこむ。

 それはただの剣技ではない。刀を触媒にした、極めて緻密な魔術――異国から来た彼女だけが扱える、戦場に舞う幻術のような剣だった。


 琥珀色の瞳を細めたイズモは、一切の感情を見せず、次の影へと刀を構えた。


「次」


 残る襲撃者たちが一歩、二歩と退く。

 無言のはずの仮面の奥から、押し殺したような息遣いが漏れた。

 規律正しく動いていた群れが、目に見えぬ裂け目を作ったのは初めてだった。


「……何者だ」


「こちらのセリフだ」


 イズモはその様子に眉ひとつ動かさず、刀を払った。

 血もつかず、霞だけが尾を引いて夜空に溶けていく。


「速い__!」


 そう口にしたときには、すでに襲撃者は首をはねられる。琥珀色の瞳が細まり、次の影を見据える。

 刹那、刀身の周囲に再び光の霞が集まり、揺らめく霧が足元を這うように広がった。

 襲撃者の一人が動揺に駆られて飛び出したが、踏み込んだ瞬間、刀身が閃光に変わり、呻き声ごとその影を切り裂いた。


「……まさか、きさ、ま__」


「黙れ」


 襲撃者たちは断末魔すらあげる猶予もなく切り伏せられ、残る者たちは剣の握り方すら忘れ、硬直する。

 静寂は続くが、その沈黙はもはや規律ではなく、恐怖に変わっていた。


「__目的を忘れるな、公爵の娘を切れば我らの勝利だ!」


 リーダー格らしきその男の言葉で、恐怖に足を縫い止められていた襲撃者たちも、やがて死を覚悟したように刃を振り上げる。

 イズモの背後、怯え後ずさるベルナデッタへと、残る5人が一斉に飛びかかった。


「浚え寂滅・燈幻響__!」


 その瞬間、視界が白く弾けた。


 刀を振るうイズモの姿はほとんど残像にしか見えない。

 霞が光の軌跡となり、襲いかかった影を次々に飲み込んでいく。刃が触れたのか、それとも影そのものに斬られたのか__判別もできないほどの速さ。

 石畳に、重い音を立てて一人、また一人と崩れ落ちていく。

 やがて、再び静寂が訪れた。

 ただ立ち尽くすイズモの黒い長髪だけが、月明かりを受けて淡く揺れている。


「……王宮騎士団。ここまでやるか」


 ベルナデッタは息を呑んだまま、一歩も動けなかった。

 恐怖に固まった自分を狙っていた者たちが、ほんの数刻のうちに、全員、跡形もなく切り伏せられていた。

 刀身を振り払い、鞘に収めると同時に、イズモはすぐさまフィアナの傍らに膝をついた。

 彼の右腕から溢れる血を見るや、イズモは素早く衣服の裾を引きちぎり、縛り上げ圧迫止血を施す。その手際は迷いなく、戦場での経験を思わせるほど確かだった。


「フィアナ。今はしゃべるな。これ以上の出血は命に関わる」


 フィアナは苦痛に顔を歪めながらも、かすかに頷く。


「それよりも、彼女は、ベルナデッタは……?」


「……」


 イズモはその反応を確認すると、ゆっくり息を吐いた。

 そのとき、イズモはふと背後の気配に目を向ける。震える足で立ち尽くしているベルナデッタの姿が月明かりに映っていた。琥珀の瞳が細められ、静かな声が落ちる。


「怪我はないか」


 短い問いかけに、ベルナデッタは喉が詰まったまま必死に頷いた。

 息は荒く、心臓は早鐘を打っていたが、それでも自分が無傷であることを伝えるしかなかった。

 それを聞いたイズモはそれ以上追及せず、再びフィアナの体を支え直した。


「ベル、ナ……」


「聞こえなかったのか。喋るなと言った」


 イズモは血に濡れた布をもう一度確かめ、しっかりと結び直した。

 そのまま迷いなくフィアナの体を抱え上げる。長身の彼に担がれたフィアナは小さく呻いたが、気を失うことなく唇を噛んで堪えていた。


「あ、あの、フィアナをどこに__」


「決まっている。保健室だ」


 低く呟いた後、イズモはベルナデッタへ視線を向ける。

 月明かりを受けた琥珀の瞳は、冷静さと共にわずかな険しさを帯びていた。


「お前は寮に戻れ。……ここはもう安全じゃない」


 その声音は有無を言わせぬ強さを持っていた。

 ベルナデッタは一瞬言い返そうと口を開きかけたが、震える喉からは言葉が出なかった。

 全身を巡る恐怖と、目の前で流れた血の赤さが、彼女の抗議を押し込めてしまう。


「は、はい」


 ただ頷くしかなかった。

 イズモは背を向け、負傷したフィアナを抱えたまま静かに歩み去る。

 月光に照らされた黒い長髪が揺れ、やがて闇に溶けていった。

 残されたベルナデッタは、心臓の高鳴りを必死に抑えながら、その場に立ち尽くしていた。


 ***


 教室棟の時計塔――学園で最も高いその場所に、ひとつの影があった。


「……ご息女様。ご無事で何よりです」


 言葉は誰に聞こえることもなく夜闇に攫われて消える。

 月光に照らされた髪は、銀を越えて極光を帯びていた。淡い輝きが風に揺れ、まるで夜空に落ちた光そのもののように揺らめく。

 その下に覗く瞳は、海の底を思わせる深い青。光を反射しながらも、どこまでも沈んでいくような冷ややかさを湛えていた。

 白磁のように透き通った肌は、夜気の冷たさを受けてもなおひび割れることなく、完璧な滑らかさを保っている。


「……やはり。あなたは」


 その言葉にすらに感情はなかった。

 だが瞳だけは__鋭く、強く、睨むように眼下を捉えていた。

 賊の出現、フィアナの負傷、ベルナデッタの恐怖、そしてイズモの介入。

 全てを、俯瞰し、冷ややかに見下ろす視線。鐘の針が夜を刻むたび、その眼差しは一層鋭く光り、やがて音とともに影は塔の闇に溶けていった。


 ***


 寮へ戻る頃には、学園はすっかり夜に沈んでいた。

 ランプに照らされた廊下を歩くベルナデッタの足取りは重い。鼓動はいまだ落ち着かず、背筋に残る冷気も消えていなかった。

 扉を押し開け、自室へ戻ると、そこにヨグがいた。

 机の上の蝋燭に照らされた彼女は、変わらぬ無表情で立ち尽くしていた。


「……おかえりなさいませ」


 いつもの抑揚のない声。

 だがベルナデッタの胸は小さく震えた。

 彼女の深い青の瞳が、自分の全てを見透かしているように思えたからだ。


「……っ」


 言葉を探そうとするが、喉はこわばり、出てきたのは途切れた息だけだった。

 あの恐怖、あの血の匂い、あの光景を伝えるべきなのかどうか__。

 ヨグは一歩も動かず、ただじっと見ていた。

 白磁の肌に映える冷ややかな輪郭は、まるで彼女自身が全て知っていると告げているかのようだった。

 ベルナデッタは思わず視線を逸らし、深く息をついた。


「……ただいま」


 小さな声でそう返すのが精一杯だった。

 そんな彼女に、ヨグは一歩も動かず、いつも通りの抑揚で口を開いた。


「本日は……ダンスのお稽古はお休み致しましょうか」


 ただそれだけ。


「……え」


 ベルナデッタは返事をしようとして、ふと頬を伝う冷たい感触に気づいた。

 指先で触れると、微かに濡れていることに気づいた。


「……なんで」


 声にした瞬間、胸の奥で堰が切れたように、熱いものが溢れ出していく。

 ベルナデッタは自覚せぬまま流していた涙に、ようやく気づいたのだった。


「……なんで、なんで、いつも__そんなふうに」


 それでも、ヨグは何も言わなかった。

 ただ静かに彼女を見守り、揺らめく蝋燭の炎だけが、二人の影を壁に揺らしていた。

 ベルナデッタは涙を拭いながら、震える声を無理やり張り上げた。


「……そういうとしていられるところがムカつくのよ!」


 青の瞳に射抜かれながら、胸の奥に溜まった感情が爆ぜる。


「いっつも、知ったような顔して……!」


 次の瞬間、自分でも抑えられずにヨグへ飛びついていた。理不尽な怒りのまま、強く抱きしめ、顔を押しつける。


「私が馬鹿みたいじゃない!何も知らずに振り回されてばかりで!」


 ヨグは一切抵抗しなかった。

 硬直もせず、驚きの色も浮かべず、ただ受け止める。

 氷のように冷たいその存在が、今は逆に安らぎの柱のように思えた。だからこそなのだろう。


「私だけ何も知らないまま、私だけ怖い思いばっかりして……ムカつくのよ!」


 ベルナデッタの肩は震え、嗚咽が漏れる。

 彼女が子どものようにすがるたび、ヨグの無表情な横顔は蝋燭に照らされ、影の中でなお揺らがなかった。


「ムカつく……マリーヌのことも知っていたんでしょう!私が傷つくからとか勝手に考えて、気を遣ってるフリして!」


 目を閉じたヨグのその表情はまるで、親が子の泣き顔を無言で受け止めるような静かな抱擁だった。

 慰めの言葉も、諫めの声もなく、ただそこに在ることだけで支えていた。


「今日だって、誰が来て、何が起きて、どうして狙われたのか……私だけ知らない!」


 ベルナデッタは涙に濡れた声を漏らしながら、なおも強くしがみついた。


「……あのヒモだってそう、書庫にこもって偉そうに笑って、何も……」


 嗚咽混じりに怒りをぶつけ、力いっぱい抱きついたまま、ベルナデッタはようやく不安や恐怖を溶かし、次第に声を弱めていった。

 理不尽な言葉ももう続かず、肩で荒く息をしながら、ただヨグにすがりついている。

 長い沈黙ののち、ヨグが静かに口を開いた。


「……ゆっくり休んでください。ベルナデッタ」


 無表情な横顔に、わずかな温もりだけを滲ませた言葉。それは慰めにも叱責にもならない、けれどベルナデッタの胸にだけはきちんと届く一言だった。


「様をつけなさいよ……侍女なんだから」


 ベルナデッタはまた小さく鼻をすすり、胸の奥で悔しさと安らぎがせめぎ合うのを感じていた。

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