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婚約者の秘め事

 保健室にエーリッヒを運び込んだあと、ベルナデッタは教室へ戻った。席に腰を下ろし、黒板に並ぶ術式や教師の声を追おうとしたが、視線も思考も何度も揺れた。

 頭に残るのは袖口から覗いた奇妙な痕と、力なく笑う彼の顔。周囲の生徒が実技をこなし、教員が指示を飛ばす音も、遠くのざわめきにしか聞こえなかった。

 ページを繰る音、椅子が軋む音、ペンの走る音__そのすべてが霞んでいく。授業の時は刻まれているのに、心だけは保健室に取り残されたままだった。

 その日の授業は、ただエーリッヒのことが気がかりで、何ひとつ耳に入らなかった。

 終業の鐘が鳴り、ざわめく教室を後にしてベルナデッタは保健室へと足を向けた。どうしてもエーリッヒの様子を見ずには帰れない。


「お疲れ様です、ご息女様。荷解きが終わりましたので、寮へ帰りましょう」


 だが廊下を曲がった先で、静かな足音に呼び止められる。そこに立っていたのはヨグだった。

 保健室に向かう彼女の意図を見抜いた上で、釘を刺すような声だった。

 ベルナデッタが言葉を探す間もなく、背後から柔らかな声が差し込んだ。


「ベルナデッタ」


 振り返ると、茜色の光を背にフィアナが立っていた。微笑を浮かべるその横には、にこやかな神父の姿も寄り添っている。


「少しいいかい。舞踏会のことで。少し話が」


 思いがけない申し出に、ベルナデッタは足を止めた。視線を伏せ、短く逡巡する。それでもフィアナの瞳には無視できない光が宿り、拒むにはあまりに重かった。

 こうして廊下には、ベルナデッタとヨグ、フィアナと、その背後に控える神父――四人の影が重なった。夕陽に照らされた床の上で交差する影は、どこか張り詰めた空気を孕んでいた。

 ふと、自分の背後から不気味な視線が駆け抜ける。

 振り返ると、ヨグがフィアナに向けて静かに火花を散らしていた。


「寮に戻る時間です」


 ヨグの声は低く、淡々としている。だがその奥に、従者として譲らぬ意志があった。


「いや、彼女と話す。どうしても」


 フィアナもまた、糸目の笑みを崩さぬまま言葉を返す。その声音には、婚約者としての正当な主張がにじむ。


「必要ありません」


「必要だ」


 ぶつかり合う言葉が、茜色の廊下に鋭く響いた。

 ベルナデッタは思わず額に手を当て、二人の間に割って入る。


「もう……子どもじゃないんだから。私はフィアナと一緒に行くわ」


 言い切ると、ヨグは一瞬だけ瞬きをして、やがて静かに頭を垂れた。


「……承知しました」


 ベルナデッタは胸の奥でひそかにため息をつき、フィアナと並んで歩き出した。夕陽に染まる中庭が、すぐそこに待っている。その背を押すように、神父が穏やかな声を添える。


「舞踏会は目前に迫っています。お二人で少し練習なさるのも、よい糧となりましょう」


 説得というより、当然のことを告げる響きだった。ベルナデッタはやがて小さく頷く。


「……分かりました」


 フィアナが安堵の笑みを浮かべ、ベルナデッタの歩みに合わせて中庭へ向かう。

 すぐにヨグが後ろへと付いてこようとするのを感じ、ベルナデッタは振り返って突っ込みを入れた。


「あなたは寮に戻ってなさい」


 一瞬の沈黙。無表情のまま立ち止まったヨグは、いつも通り小さく一礼した。


「……承知、しました」


 ベルナデッタは半ば呆れ、半ば安心しながら踵を返し、夕陽に染まる中庭へと歩を進めた。

 中庭は夕陽に染まり、古い噴水の縁に金色の光が流れていた。花壇には薄紫の花々が咲き、涼しい風がカーテンのように吹き抜ける。

 ベルナデッタは少し歩を緩め、胸の奥に残るざわめきを落ち着かせようとした。噴水の縁に手を置いたフィアナは、しばし黙して夕陽を眺めていた。糸目の笑みは変わらぬままだが、その影はいつもより深い。


 ベルナデッタが何かを問おうと口を開きかけたとき、フィアナがふっと振り返った。


「ベルナデッタ……一曲、踊ってくれませんか」


 唐突な申し出に、ベルナデッタは瞬きをした。ここは舞踏会の会場でもなく、楽団もいない中庭。噴水の水音と風のざわめきだけが流れている。


「こんなところで……?」


 言葉に苦笑を添えるが、差し伸べられたフィアナの手は揺らがなかった。

 夕陽を受けて金糸の髪が光り、優雅な立ち居振る舞いはまるで舞踏の始まりを告げる王子のようだった。

 噴水を囲む石畳の上で、二人の影がゆるやかに重なり合う。

 リズムを刻むのは、風と水音と、互いの鼓動だけ。

 フィアナが一歩導けば、ベルナデッタも自然と足を運ぶ。昼夜ヨグに叩き込まれた練習の成果が、ここでようやく形を結んでいった。


「無音楽の練習も、少しくらいやっておけばよかった……かしら」


 夕陽に照らされ、二人の舞は静かな庭をひとときだけ舞踏会へと変えていった。

 フィアナの導きは迷いなく、ベルナデッタの足取りを自然と軽くさせた。石畳を踏む靴音と噴水の水音が重なり、二人の影が夕陽に長く揺れる。


「……思ったよりずっと上手いな」


 休符の合間、フィアナが口元を緩めた。


「決闘のあと療養で練習の時間なんてなかっただろうに。少し心配してたんだ」


 ベルナデッタは胸を張り、軽やかにステップを返す。


「ご心配なく。わたくしには優秀な侍女がいるもの。昼も夜も、文句も言わずに全部つき合ってくれたわ」


 ベルナデッタは頬に熱を帯びながらも笑みを返し、スカートの裾を翻す。

 噴水の水滴が夕陽に光り、舞う二人を包み込むように散った。


「いい侍女なんだね」


 その言葉に、ベルナデッタの表情がぱっと明るくなる。


「そうでしょう?彼女、本当に優秀なの。……ダンスも、魔術も、挨拶も。お父様が亡くなってからはお屋敷の管理もしてくれて。私の知らないことも、知ってることだってそれ以上に知っていて、本当に、敵わないわ」


 声が次第に弾み、調子が上がっていく。


「それに家事も完璧。料理なんて変なヒモに付き合わされて、じゃがアリゴまで作らされたのに文句ひとつ言わないんだから!」


「じゃ……?」


 勢い込んで言ったあと、ベルナデッタは少し眉を寄せ、息を吐いた。


「……でも、そこがまた腹立たしいわ。いつも無表情で、何を考えてるのか全然分からないし、私がどんな無茶を言っても承知しましたってひとことだけ。もっと困った顔をしてくれたらいいのに!」


 フィアナは肩を揺らし、心底楽しそうに笑った。


「気に入ってるんだな、本当に」


 ベルナデッタはむっとしつつも、どこか照れたように口をつぐみ、ステップを続けた。だが、ここは綺麗に準備された舞踏会の会場ではない。均された公園とはいえ、石の一つも落ちている。不意な凹凸に足を取られ、ベルナデッタの足取りがほんの少し乱れた。

 そのわずかな狂いを、フィアナは受け止めきれず、二人の足が絡まる。


「きゃっ……!」


「おっと__!」


 次の瞬間、二人の体は噴水のそばの芝へと倒れ込んだ。柔らかな草の感触と、夕陽に照らされた熱が背に広がる。

 しばし呆気にとられた沈黙ののち、ベルナデッタとフィアナは顔を見合わせ、思わず同時に吹き出した。


「ふふっ……もう、最悪!」

「はは、踊るどころじゃないな、これじゃ」


 芝に寝転びながら笑い合う二人。

 ベルナデッタの頬は夕陽以上に赤く染まり、砕けた笑顔で悪態を吐き出すその唇すら確かに柔らかさを帯びていた。

 フィアナの胸に、ほんの少し甘酸っぱい痛みを伴った喜びが灯る。手を伸ばせば届く距離にいる彼女と、同じ芝の上で笑い転げている__それだけで、何よりも尊い瞬間に思えた。

 ベルナデッタは草を払いながら身を起こし、呆けた顔をしたフィアナを睨むようにしてまた笑った。

 その笑顔は、フィアナの何気ない失敗すら、宝石のようにきらめかせていた。


 笑いの余韻がまだ残る中庭に、長い影が落ちていた。

 夕陽はすでに傾き、噴水の水面は茜色から群青へと変わりつつある。花壇を揺らす風もひんやりとしてきて、日暮れの訪れを告げていた。

 ベルナデッタは草のついたスカートを払いながら、軽く息を吐いた。


「……そろそろ、寮に戻らないとね」


 フィアナも立ち上がり、伸ばした手でベルナデッタを起こす。


「そうだな。夜は冷える」


 二人は並んで歩き出した。芝を踏む音が静かに響き、噴水の水音が背に遠ざかっていく。

 やがて校舎へ戻る小径に差しかかったとき、フィアナが不意に口を開いた。


「ベルナデッタ……ひとつ、話しておきたいことがある」


 ベルナデッタが足を止め、横目で彼を見る。

 フィアナの笑みは糸目に隠れて変わらぬままだが、声の調子には微かな影が落ちていた。


「マリーヌのことなんだけど_」


 沈みかけの夕陽が二人の顔を照らし、赤と青が交わるように暗い影を落とした。


「君は、軍神の娘、マリーヌを怒ってるかい?」


 その問いに、ベルナデッタは足を止める。

 風が髪を揺らし、影が長く伸びる。心に浮かぶのは、あの日の鋭い視線と、浴びせられた言葉、そして決闘の結末。

 怒っているのか、と問われれば__胸の奥は確かにちくりと痛む。

 けれどそれだけではない。挑発の裏にあったもの、見え隠れするあの表情、笑顔。三度の氷壁を砕き、終幕の刹那見えた、敗北を受け入れた彼女の瞳。彼女の思考は絡まり、結論を結ばない。

 ベルナデッタは小さく息を吐き、視線を伏せた。


「……わからない」


 それが正直な答えだった。

 怒りとも、憐れみともつかない感情が胸に残り、言葉にするにはまだ形を持たなかった。

 フィアナは短く頷き、その答えを受け止めるように歩を進めた。


「実を言うと、決闘の結末は建前だ」


 ベルナデッタが顔を上げる。フィアナの糸目の奥には、笑みの影に隠れた深い色が潜んでいた。


「マリーヌは重傷で運ばれた、ってことになってるけど……実際は違う。あいつは確かに怪我はした。けど、むしろお前の方が消耗は大きかったはずだ。少なくとも剣も杖も握れないほどじゃない」


 ベルナデッタの心臓がどくりと鳴る。

 その後の展開を知るのが怖くて、言葉を挟めなかった。


「……教会が彼女を連れて行った」


 フィアナは低く続けた。


「理由は“枢機卿子息である僕の婚約者に危険行為を行った”から、というもの。実際はただの決闘だったのに、あの場で教会にとって都合よく処理された」


 ベルナデッタは立ち止まり、強く唇を噛んだ。

 目に焼きつくのは、あの鋭い眼差しと、ぶつけられた言葉の数々。だが、そんな彼女が教会の手に落ち、戻ってこない現実は、勝利の余韻よりも重く胸にのしかかってきた。


「まって、それじゃあマリーヌは……?」


 フィアナの声には悔しさが混じっていた。

 ベルナデッタの胸には、怒りとも憐れみともつかぬ感情が渦を巻いている。


「怪我なら、とっくに癒えてるはずだ。だが、現在の彼女の所在は僕にもわからない」


 頭では理解できても、心は反発していた。あれはただの決闘。勝者と敗者が決まっただけで、それ以上でも以下でもないはずだった。それを「枢機卿子息の婚約者への危険行為」と言い換えられるだけで、誰かの人生が握りつぶされてしまう。


「アイツがこんなことで教会に連行される?いいわけがないでしょう!だってアイツは、私の……わたしの__」


 怒っているのか、悲しんでいるのか、はたまた喜んでいるのか。ベルナデッタ自身も分からなぬまま、着地点のない言葉を叫び、その先の言葉に詰まる。

 彼女は、マリーヌ・ド=フォルジュは。ベルナデッタにとって何者なのか。

 息を震わせ、視線を伏せたベルナデッタの横で、フィアナは黙って歩を合わせている。彼もまた、板挟みの中で答えを出せずにいるのだと感じられた。

 夕陽は完全に沈み、残照が空の端で細く燃えていた。


「……そろそろ門限ね」


 夕陽は完全に沈み、夜の帳が学園を覆い始めていた。

 風は止み、草のざわめきも途絶える。いつからか、フィアナの胸中には不穏な気配がにじんでいた。


「……早く帰ろう」


 ベルナデッタの隣へと寄り添い、フィアナが小さくつぶやいた。

 ふたりが耳を澄ますと、気づけば中には荷は虫の鳴き声すら聞こえない。さっきまで確かにあった夜の、世界の気配が、丸ごと切り取られたように消えている。


 直後、生垣から影が滑るように広がった。

 全身を布で覆い、無言で剣を抜く複数の人影。ただ冷たい殺意だけを漂わせながら、石畳にじわりと広がっていく。

 刃が月光を受け、鈍い輝きを放つ。

 ようやくそれの存在に気づき、ベルナデッタの心臓が跳ね上がった。


「ベルナデッタ!」


 フィアナがベルナデッタの腕を強く引いた。

 次の刹那、銀の軌跡が目の前を薙ぎ払い、ベルナデッタの頬をかすめて月光が反射する。

 間一髪。あと一歩遅ければ、肩口から胴を裂かれていたに違いない。


 ベルナデッタの心臓が跳ね上がる。

 襲撃者の視線はフィアナに向けられることなく、ただひとり、ベルナデッタだけを正確に射抜いていた。


(狙われているのは……私一人)


 冷たい確信が胸に刻まれる。

 襲撃者たちは一言も発せず、まるで感情を持たぬ影のように、次の刃を彼女に振り下ろそうとしていた。

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