始まりの魔術師と聖剣の逸話
三人で校門をくぐり、そのまま廊下を抜けて教室へ向かった。磨き上げられた石床が靴音を返し、窓からは夏めいた光が差し込んでいる。
教室の扉を開けると、まだ授業には早く、机に腰掛けて談笑している生徒や、開いた本に目を落とす生徒の姿が目に入った。
白壁には魔術式の図が整然と貼られ、天井から吊るされた魔術灯は弱い光を灯している。長机には磨かれた蝋の光沢が残り、窓辺には淡く風に揺れるカーテン。
ベルナデッタが一歩足を踏み入れると、いくつかの視線がこちらに向いた。以前なら敵意を含んでいたその眼差しも、今はどこか探るような静けさを帯びている。
エーリッヒが元気よく「お姉さま、こっちです!」と声を上げると、張りつめかけた空気は和らぎ、アメリアが「こちらへ」と柔らかく微笑んで示した席へ三人は並んで腰を下ろした。
その正面、教壇の上には立派な肖像画が掲げられている。長衣を纏い、厳かな眼差しで前を見据える男__魔術師ヴァレンタインの姿だ。
「確か、始まりの__」
アメリアがふと視線を上げ、隣のベルナデッタに囁いた。
「そう、ベルナデッタ様。あの方こそ、始まりの魔術師ヴァレンタイン。生涯を魔術の研鑽に捧げ、何千という試行錯誤を積み重ねて、たった一代で魔術という概念を学問へと高めた方ですの。しかも後には、あの聖剣の設計と鍛造にも関わり、魔族の王を打ち滅ぼす一助となった__まさに全ての魔術師のあこがれですわ」
頬を紅潮させ、まるで熱に浮かされたように早口で語るアメリア。その横顔は、学園の噂話をする少女ではなく、敬愛する人物を語る愛好家そのものだった。
「へ、へぇ……詳しいのね」
ベルナデッタは苦笑しながらも、少しだけ感心して肖像画を見上げた。
その一言に火がついたかのように、アメリアの頬はさらに紅潮し、机の上に手を置いて身を乗り出す。
「当然ですわ! ヴァレンタインは生涯を魔術の探求に捧げた御方。王都の中央大図書館にある彼の日誌には、一日に二百回以上も術式を組み替えては失敗し続けた痕跡が残っているのです。普通の人間なら三度も失敗すれば匙を投げるところを、彼は数え切れないほど繰り返した……その勤勉さが魔術を学問へと昇華させたのです!」
ベルナデッタは「そ、そう……すごいわね」と曖昧に頷いたが、アメリアは止まらない。
「それに、聖剣の逸話をご存知ですか?十の古竜、百の巨人、千の人類種、そのすべての力を束ねて鋼に宿し、平和を願う種族たちの意思を乗せ、ひと振りで魔族の王をも滅ぼすに至った__まるで神話のようなお話ですわ。鍛冶師でも神官でもなく、ただひとり魔術師としてその場に加わり、世界を救う剣の設計を助けた。それこそがミスター・ヴァレンタイン!」
周囲の生徒がざわりと振り返るほど、熱を帯びた声。アメリアは気づいて小さく咳払いし、すぐに姿勢を正した。
「……ともかく、勤勉で誠実、求道をやめなかった方。わたくしにとっても、全ての魔術師にとってもあこがれなのです」
ベルナデッタは呆れたように苦笑しつつも、肖像画をもう一度仰ぎ見た。
__誠実で勤勉な魔術師。アイツとは大違いね。
心の中で小さく毒を漏らす。書庫に籠もり、顔を見せれば皮肉や冗談ばかりの「ヒモ」と、肖像の中の偉大な魔術師は正反対。ベルナデッタは頭の中に浮かんだだらしない男のふざけた顔を、黒板消しで殴打し霧散させる。
「正確には__」
突然、低く通る声が教室に響いた。
気づけば、教壇の前に教師が立っていた。黒い外套の裾を揺らし、腕を組んだまま鋭い目で肖像画を見上げている。
「魔族の長、魔王を打倒した聖剣の祖となる原盤を作り上げたのは、ヴァレンタインただひとりだ」
ざわり、と教室に小さなどよめきが走る。アメリアは一瞬驚いたように目を見開き、次の瞬間には照れ笑いを浮かべつつも勢いよく言葉を継いだ。
「そうですの!王家に保管されている平和の象徴たる聖剣は、他の種族の代表者たちが、その原盤を元に作り出した模造品に過ぎません。そして、その最初の聖剣は__およそ百年前、何者かによって盗まれ、行方をくらましてしまったのです!」
拳を握りしめ、頬を紅潮させたアメリアの声が教室を震わせる。
「聖剣泥棒などという蛮行……いかに卑劣か! 歴史の輝きを泥で汚すなど、断じて許されません!」
教室のあちこちから同意の声やため息が漏れる中、ベルナデッタは眉をひそめ、そっと視線を逸らした。
__聖剣泥棒。
その言葉は耳に痛く、背筋に冷たい汗を落とす。アメリアの憤慨が続く間、ベルナデッタはただ気まずげに窓の外へ目を向けるしかなかった。
アメリアの熱弁に教室が静まり返ったあと、小さな声が感嘆を漏らした。
「ホントに詳しいんですね……」
エーリッヒだった。目を丸くしてアメリアを見つめ、その声には子どものような純粋な尊敬がこもっていた。
アメリアはわずかに胸を張り、頬を染めながらも澄ました表情で答える。
「当然ですわ」
教師もまたゆっくりと頷き、言葉を重ねた。
「当然だろう。彼女の家系は、王国で最も聖剣に縁の深い家だ」
教室に再びざわめきが走る。アメリアは一度視線を下げ、それから静かに告げた。
「……わたくしの家系、ラヴァリエールは、かつて始まりの聖剣を保管していた大図書館を代々運営している者です。当然このアメリアも、幼いころから、その伝承と記録に囲まれて育ちましたの」
言葉に誇りがにじんでいた。ベルナデッタはその横顔を見やり、歴史の重みを背負っているのだと感じさせられた。
「__よろしい。歴史の話はここまでだ。授業を始めるぞ」
短く鋭いその言葉に、生徒たちの背筋が一斉に伸びる。
空気が改めて張り詰め、ざわめきは完全に消えた。
「本日の実技は三課題。ひとつ、触媒を用いない光花の展開と安定保持。ふたつ、魔力糸の展開と制御。みっつ、障壁の高速展開と持続。どれも基礎に過ぎんが、基礎で差がつく。手を抜けばすぐに見抜かれるぞ」
言葉と同時に、教師は掌を掲げて手本を示した。
「__以上だ。では、列ごとに始めよ」
声が落ちると同時に、生徒たちは一斉に立ち上がり、緊張と期待を胸に魔力を練り上げはじめた。
ベルナデッタも共に静かに席を立ち、掌を上に向ける。
魔力を練ると、淡い光が指先に集まりはじめた。輪郭はぶれず、花弁の形も思い描いた通りに開いていく。__だが胸の奥に、不意に奇妙な感覚が走った。
(……これ、知っている)
光花は言わずもがな。魔力を編んで作られた、自在に伸縮する繊維。障壁……の展開は知らなかったが、これをどうすれば破壊できるのかがわかる。
初めての実技であるはずなのに、体の奥が勝手に応えを覚えているような、くっきりとした既視感があった。
教師はベルナデッタの手元を見やり、薄く目を細める。
「……気づいたか」
「え?」
思わず聞き返すと、教師は声を抑えて続けた。
「これら三課題は、先日の決闘で用いられた技術の基礎だ。フォルジュとシュルズベリィ__両者が披露した高度な魔術を、実技に落とし込みたいという声が生徒たちから強く上がってな。急遽、課題に組み入れられた」
ざわめきが教室に広がる。隣のアメリアは息を呑み、後ろの席からも「やっぱりか」という囁きが漏れた。
ベルナデッタは胸の奥のデジャヴが腑に落ちるのを感じた。あの日、全身で受け止めた光と衝撃の残響が、まだ自分の中に刻まれているのだ。
ベルナデッタが納得しかけたその時だった。
「え!?それってつまり、お姉さまはエーリッヒたちよりもクソ有利な課題って事じゃないですか!」
唐突な叫びに教室の空気が一変する。しんと張り詰めていた空気がぷつりと切れ、次の瞬間には生徒たちの間から「確かに!」「ズルいぞ!」と笑い混じりの声が飛んだ。
「おいおい、決闘経験者はハンデだろ!」
「シュルズベリィさん教えて〜!」
「ずるい~! お姉さまだけ有利!」
わっと広がる声の波。アメリアが思わず口元を押さえて吹き出しそうになり、ベルナデッタは顔を赤くして机を叩いた。
「ちょ、ちょっと待って! 別に有利だなんて思ってませんわよ!」
しかしエーリッヒは椅子から半分立ち上がり、両手を振り回しながらさらに声を張る。
「エーリッヒ、クソ悔しいです! お姉さまだけ一歩先を行ってるなんて!」
教師が額に手を当て、深いため息を漏らした。
「……静かにしろ。課題の公平性については考慮してある。文句があるなら結果で示せ」
それでも教室はしばらく笑いとざわめきに包まれ、緊張していた空気は見事に霧散していた。
***
順番が回ってきたベルナデッタは、椅子を引いて立ち上がり、教室の視線が集まるのを感じながら前へ進む。掌を胸の高さに掲げ、静かに息を吸った。
まずは光花。
魔力を集めると、指先から淡い光がほとばしり、円環を描いて形を成す。花弁が一枚、また一枚と開いていく。__八拍の保持を終えるまで崩れず、光の花は静かに咲き続けた。
「ふむ。形も安定している。だが、以前授業で見せた時と比べれば見劣りするようだが。不調か?」
「……あ、え、えぇ。アレは、その。運もよかったといいますか」
「……そうか」
続けて魔力の繊維。
ベルナデッタは肩を落とし、指先から細い糸を伸ばした。教師のつぶやく拍ごとに端点を揺らし、伸縮させる。糸は濁らず絡まらず、切り替えの瞬間もわずかにきらめきを放った。最後まで乱れはなく、静かに消えていく。
「平均以上。拍の取り方は正確だ」
教師の評価に、ベルナデッタは小さく息を吐いた。だが最後の課題、障壁。
号令とともに魔力を弾けさせる。透明な球がベルナデッタを覆うように広がるが、膨らむ過程で僅かに歪み、衝撃弾を受けた瞬間には表面がざらつくように揺れた。完全に防ぎきったものの、粗ははっきりと残った。
「……展開速度は悪くないが、強度に粗があるな」
短い評価が落とされる。成功には違いない。だが完璧ではない。
ベルナデッタは唇を結び、深く一礼して席へ戻った。
教室には小さなざわめきが残り、隣のアメリアは「見事ですわ」と囁き、エーリッヒは子犬のように「クソすごいですお姉さま!」と声を弾ませていた。
「もういいわよ、そういうのは。エーリッヒ、次はアンタでしょ」
「あ!ハイです!お姉さま!」
満面の笑みを浮かべ返事をすると、エーリッヒは教壇に駆け上がり、掌を上げて光花の術式を展開した。
……だが、彼女の指先に集まったのは頼りない光の粒だけ。円環を描くどころか、白い煙がしゅうっと立ち上る。
「……あれ?」
小さく呟き、額に汗が滲む。慌てて二課題目、魔力の繊維の創造。
集中の仕方は完璧だ。拍の取り方も正確。けれど指先に現れたのは、たった一本の細すぎる糸。心許ない光はすぐに絡み合い、ばちん、と音を立てて消えた。
「……ヴィヴァーチェ」
教室に苦笑が漏れる。エーリッヒは唇を噛み、気力で三課題目へ進んだ。
「……展開!」
叫んで魔力を弾けさせる。透明な球が膨らみかけた瞬間、ふらりと膝が折れる。障壁は形を結ぶ前に霧散し、エーリッヒの体はそのまま床へ崩れ落ちた。
「エーリッヒ!」
ベルナデッタが椅子を蹴るようにして立ち上がり、駆け寄る。小さな体を抱え起こすと、呼吸は浅く、顔色は紙のように白い。
「だ、大丈夫です……エーリッヒ、ちょっと疲れただけ、です……情けない……です」
無理に笑う声が震えていた。
教師は険しい目を細め、短く命じる。
「保健室へ運べ。ラヴァリエール、付き添え」
アメリアがすぐに駆け寄り、ベルナデッタと共に両腕を支える。
生徒たちのざわめきが背に突き刺さる中、ベルナデッタはただ唇を結び、エーリッヒを抱き起こす腕に力を込めた。彼女の体を支えながら、ベルナデッタはふと袖口の隙間に目を留めた。
布地がずれ、白い手首が覗く。その内側には、幾何学的な線が淡く浮かんでいた。輪と直線が噛み合う複雑な模様が、呼吸のたびにかすかに明滅している。
「……これは?」
思わず小声が漏れる。だがエーリッヒは気づいた様子もなく、かすれた声で繰り返した。
「大丈夫です……エーリッヒ、……まだ、やれます、です……」
「無理を言わないで」
ベルナデッタは声を強めた。アメリアが横目でベルナデッタを見る。彼女の瞳には同じものを見た驚きが宿っていたが、すぐに何事もなかったように伏せられる。
「歩けますか?」
「……はい、です」
弱々しくも頷いたエーリッヒを支え、二人は足早に保健室へと向かう。
背後では、なおざわめきが続いていた。だがベルナデッタの耳には、袖口に覗いた奇怪な痕が焼きついて離れなかった。




