幕間1 ある辺境での些細な一幕
王宮騎士団。王国の安寧を守護する最精鋭の武力。その名は国境の彼方まで轟き、周辺諸国にすら畏怖を抱かせていた。
「教会に巣食う闇を白昼の下に引きずり出す」__それは疑う余地なき大義であり、王都を揺るがす不穏を鎮める最優先の使命だった。
その先鋒として選ばれたのが「暴風の槍」の異名を持つ男、カリオス=トルナードである。冷徹な眼差しと理知的な判断力、そして軍神に並び立つ槍術の冴え。彼に率いられる部隊は、王国において最も信頼される矛だった。
「……残り半刻もすれば見えてくるだろう」
先の会議から3日後、夜明け前に王宮を発った一行は、すでに山あいの道を登っていた。鳥のさえずりと清流のせせらぎ、そして木々を抜ける風。表向きは、どこにでもあるのどかな自然の風景だった。
だが、カリオス=トルナードは槍の石突を軽く土に突き、眼鏡の奥の瞳を細める。
「__旧教会跡だ」
部下たちは互いに顔を見合わせる。緊張に固唾をのむ者もいれば、肩透かしを食らったような者もいる。彼らの想像していた教会の暗部、十字聖痕とやらの本拠地は、もっと深山幽谷の底か、血の匂い漂う要塞じみたものだったのだ。
だが実際は、緑に包まれた緩やかな山腹。農夫が麦を干していてもおかしくない、平凡な風景の中にそれはあった。灰色の石造りの廃墟。屋根の半分は崩れ落ち、窓枠には蔦が這い回り、扉も失われて久しい。一見すれば、ありふれた廃教会のひとつ。事故や災害で主人を突然失った建物が、こんな風に取り壊されず残っているのも不思議ではない。
だがカリオスは冷徹に告げる。
「十字聖痕が拠っているのはここだ。偽りの安寧に油断するな」
その声音は風の音よりも冷たく、部下たちの背筋に静かな寒気を走らせた。
厚い木扉はとうに失われていた。錆びた蝶番だけが虚しく揺れ、突入の合図も不要だった。
カリオスは槍を地に立て、低く呟いた。
「__ 各種生命察知」
空気が静かに震えた。無色透明の波紋が彼を中心に広がり、教会の廃墟を包み込む。
この魔術は、感覚さえつかんでしまえばだれでも習得が可能なほどに式が簡略化されており、にもかかわらず最上級の探索魔術とされている。
魔力の流れはもちろん、鼓動、呼吸、体温、皮膚の静電気、筋肉の弛緩や緊張、ありとあらゆる生物の兆候を拾い上げる。
アプローチの多角さにより隠蔽や幻惑の術の多くを貫通し、魔術の干渉を越え、生命そのものの音を探り出す究極の超感覚。
兵たちはそれを知っていた。だからこそ、彼らは息を潜めて結果を待つ。やがて、カリオスは眼鏡の奥の瞳を細め、短く告げる。
「……生体反応なし。内部には十数匹のネズミ、ヘビが関の山だ。魔物はもちろん、人一人すらいない」
兵らの緊張がわずかに緩む。最上級の魔術が告げるのなら、それは絶対の保証に等しい。
「__突入」
鋼鉄の靴音が石畳を踏み鳴らす。緊張に喉を鳴らす兵もいたが、誰ひとり列を乱さない。王宮騎士団の名を背負う彼らにとって、恐怖を抱くことと前進することは両立しうるものだった。
内部は……静まり返っていた。
崩れた天井から漏れる陽光が埃を照らし、乱れ落ちた瓦礫と砕けた椅子が床に散らばっている。かつて祈りの声で満ちたであろう空間には、今はただ風が吹き込むばかりだった。
兵の一人が息を呑み、槍を震わせる。
中央に立っていたはずの神像__その姿は無残に砕かれていた。
特に頭部は跡形もなく破壊され、床に散らばっている。磨き込まれていたはずの石肌には、斧で刻んだような鋭い裂傷が走り、血にも似た黒ずんだ染みがこびりついていた。
「……臭い、な」
カリオスの声は淡々としていた。感情の揺らぎは一切なく、ただ事実を記録する学者の報告のように。だがその冷たさは、兵らの背筋を凍りつかせるには十分だった。
光の射し込む聖堂の中央。砕けた神像の残骸が影を落とすその場所に、空虚でありながらもなお「何か」が立っているかのような圧があった。
兵たちは散開し、崩れた椅子や祭壇の残骸を調べ始めた。
「……隊長、これは」
一人が拾い上げたのは、焼け焦げた羊皮紙だった。何らかの魔術式が刻まれていたらしいが、文字の大半は熱で炭化し、解読は叶わない。
別の兵が声を上げる。
「こちらには蝋燭が。芯が黒く煤けている……今朝か昨夜に火が入れられたばかりです」
カリオスは近づき、屈んで蝋を指先で擦った。まだ柔らかい。
「……人が居た気配は、確かにある。これはただの廃墟ではないな」
床石には複数の痕跡が刻まれていた。半円状に並ぶ線、重なる円環、そしてところどころに残る焼け焦げ。祭壇の周囲を取り囲むそれは、明らかに儀式の痕跡だった。
「魔術痕、いや、それよりも強大な……儀式陣の残骸か」
カリオスの眼鏡の奥で光る瞳は、冷ややかに痕跡を測る。
「形は崩れているが、闇の属性に通じる要素が混じっている。十字聖痕の手口と見て間違いない」
兵らはごくりと唾を飲み込み、武器を握り直した。
もぬけの殻のはずの廃墟に、確かに残された生活と儀式の痕。
不気味な空虚さの中に、かえって濃密な気配が充満していく。
「……今、なんか言ったか?」
誰かのつぶやきがふと過ぎった。その瞬間だった。
石畳に影が揺らぎ、次の瞬間には血飛沫が宙を舞っていた。
「__あ?」
列の中央にいた若い兵士が、呻く暇もなく胸から腰へと斜めに断たれる。鎧ごと切り裂かれ、肉と鉄片が床に散る。さらに、彼の隣で何かを拾い上げようとかがみこんだ兵士は、腰から上を切り離され、その場に無様な格好で崩れ落ちる。
剣の軌跡を見た者はいない。ただ「斬られた」という結果だけが残っていた。
「ッ……敵影!?」
兵らが慌てて周囲を探る。しかし、どこにも人影はない。
カリオスは眼鏡の奥で冷然と瞳を光らせた。
「……不可能だ。あの生命察知をすり抜ける存在など……」
彼の槍が床を突き、硬質な音を響かせる。
「全員、陣形を組めぇい!これは……常識で測れぬ敵だ」
それでもなお、冷静さを失わぬその声音は、兵らの背筋を余計に冷やした。
それぞれが背を預けあうように剣と盾を構え、続いて三人目の兵士が、声もなく喉を裂かれ崩れ落ちた。それは稲妻より速く、風より鋭い。
目で追おうとした瞬間には、すでに結果が生じている。剣を振るう影は視界の端を掠めることすらなく、ただ屍という証を残して去っていく。
「ひっ……!」
悲鳴を洩らした兵が盾を掲げる。しかし鋼の盾は、次の瞬間には紙のように斜めに裂かれ、持ち主もろとも血に沈んだ。
まるで斬撃そのものが独立した意思を持ち、無差別に命を刈り取っていくかのようだった。
「全員、後退せよ!」
カリオスの号令が響く。
だがその冷徹な声音の最中に、視界を裂く閃光が走った。
__風すら置き去りにする剣の一撃。
カリオスは反射的に槍を横薙ぎに振るった。
鋼と鋼が火花を散らす。
「ぬぅ……!」
男の肉体を鎧ごと両断するほどの斬撃を、彼は辛うじて防いでいた。槍の穂先から石突までに走る衝撃が腕を痺れさせ、眼鏡のレンズに亀裂が走る。
「……!なんという、膂力ッ!」
それは音よりも速く、常人の認識を許さぬ域に、重さは、かつて王宮の修繕を手伝った時に抱えた梁の支柱のようだ。
__だが確かに、そこに剣を振るう存在がいた。
血に濡れた聖堂に、ようやくその輪郭だけが浮かび始めていた。
「……む、無理だぁ!」
叫びとともに、一人の兵が槍を放り出した。鎧の留め金も外しかけ、逃げるように入り口へと駆け出す。
「ダメだ!戻れ!」
カリオスの腕にかかっていた雄馬の数百倍はあるであろう重圧がフ、と消えた。
しかしそれは、崩壊の合図に等しかった。恐怖は瞬く間に伝播する。秩序は霧散し、列は乱れ、兵らは蜘蛛の子を散らすように出口へ殺到した。
次の瞬間、彼らの背を追い抜くように斬撃が走る。逃げ惑う背中がひとつ、またひとつと弧を描いて飛び散り、石畳を赤く染めた。
聖堂の中は、瞬く間に屍と絶叫に満たされていく。
「愚かな……ッ!」
カリオスは冷然と呟いた。
槍を構え、眼鏡の奥の瞳を細める。残されたのは彼ただひとり。未だ全容もつかめぬ敵、散乱する屍、吹き荒ぶ血風。
その中心に、孤高の暴風の槍が立っていた。聖堂の空気を震わせるように、影が消える。それは音速すらとうに超えた斬撃。視認すら困難な閃光が、一直線にカリオスへ迫る。
「__ッ!」
カリオスの握る槍が疾風のごとく振るわれる。暴風の槍と呼ばれた所以を示す、鋭く正確な一撃。
竜巻の如き薙ぎが閃光と衝突し、刃と穂先が火花を散らした。
一瞬、拮抗したかに錯覚した。
__だが。
「私の、槍より疾く……」
視界が揺れ、次の瞬間には熱と痛みが奔っていた。
「……二手、までも、か」
カリオスの鎧腹部が十字に裂かれ、けたたましく血潮が噴き出す。
反射的に後退したが、その場に鮮血が線を描き、赤黒い滴が石畳を叩いた。
「……速すぎる」
眼鏡の奥の瞳が冷静に戦況を測る。
槍は届かない。斬撃は視認の限界を超えている。
己の理知も、技も、勇も、すべて圧倒的な速度の前では意味を失っていた。
「これが……教会に、潜む__魔」
低く吐き出した声は、冷徹でありながらも血泡と混ざっていた。膝をつくカリオスの前で、剣士は未だ姿を現すことはない。
「ごぼぁ__!」
血が止まらない。腹の裂傷は深く、わずかに身じろぐだけで視界が赤黒く滲んだ。
それでも、カリオス=トルナードは槍を支えに立ち上がった。
「……情報を」
冷徹な声が途切れ途切れに漏れる。
生命察知の魔術さえもすり抜け、単独で部隊を殲滅する剣士__その存在を王宮に伝えねばならない。
震える指先で腰の鞄から羊皮紙を引き出し、血に濡れた手で震える字を刻む。
『剣士……単独で……生命察知を……』
そこまで書いた瞬間、冷気のような殺気が背後から迫った。
__閃光。
紙と共にカリオスの手首が弾け飛ぶ。羊皮紙は空に舞い、赤い雨に濡れながら床に落ちる。
「……っ!」
残る左手で槍を握り直そうとした刹那、再び閃光が走り、胸を貫く痛みが心臓を灼いた。
膝から崩れ落ちたカリオスの眼鏡が石畳に砕け散る。床に転がった羊皮紙を見やった。
だがそこには__血に濡れ、滲み、判読不能となった文字しか残っていなかった。
全てが、無に帰す。
「……ゴットハルト……すまない。先に__」
その最後の呟きは誰にも届かず、ただ風に掻き消された。
その地に残されたのは屍と、血に染まった白紙だけ。
不死身の軍神の右腕にして暴風の槍、王宮騎士カリオス=トルナードの生涯は、唐突に終わりを告げた。




