没落令嬢vs悪役令嬢
氷槍の衝撃は胸を貫き、肺の奥まで冷気を残していた。
呼吸をするたびに痛みが走り、膝はがくりと揺らぐ。それでもベルナデッタは倒れ込まなかった。血に濡れた拳を石畳に突き、全身を震わせながらゆっくりと立ち上がる。
「……はぁ……はぁ……」
荒い息を吐きつつ、杖を掲げるマリーヌを真っ直ぐに見据える。
膝が軋み、背筋が悲鳴を上げる。だが、その拳はまだ折れていない。
「あと……1分、とちょっと……」
ベルナデッタは拳を握り直し、構えを取った。体操着は裂け、血が滴り落ち、髪は汗で顔に張り付いている。それでも足を引きずることなく、前へと踏み込む。踏み出すたびに胸の奥で鈍い痛みが響き、呼吸が乱れる。それでも拳を振るう意志は揺らがず、ひとつ、またひとつと距離を詰めていく。
『ダメだな、ベル。ダメダメだ』
ベルナデッタの脳裏に、不遜で人を食ったような笑みが蘇る。
吐き捨てるように心で呼んだその顔__あの性格のひん曲がった、自称魔術師のクソ野郎の声が、はっきりと甦った。
『全力を出す魔術師はいい魔術師だ。だけど、同時にそういうヤツほど早死にだったり、実践では役に立たない。何故かわかるか?……魔術ってのは手札だ』
ベルナデッタは荒い息を整え、拳を握り直す。
体は限界を訴えているが、心の奥底で熱が渦巻く。
『規模の低いものを小出しにすりゃ探りになるし、ここぞって時に出しゃあ鬼札だ。だがな、常に全力でぶん回してるやつは結局、どっかで先に燃え尽きる。派手でキラキラした魔術師ほど、いい見世物はない』
ベルナデッタは血に濡れた拳を握りしめ、胸の奥にふつふつと苛立ちが湧くのを感じた。
頭の中に、あの嫌味ったらしい声を思い出す。__確かその話には続きがあったことも。
『だからこそ全力で全力を偽装する。探りを匂わせないよう、キラキラ、ピカピカと自分という存在を最大限誇張する、これがすべてだと、限界を誤認させる。相手は全力を出させたとほくそえみ、余裕の対処を図る』
「ほんとうに……調子のよろしい時だけ現れて!私に好き勝手言って!なんでこうも傲慢で不愉快な男が……!!」
荒々しく吐き捨てるように言いながら、拳を振り上げ、頭の中のウィルを殴り飛ばすように叫んだ。
脳裏の皮肉げな笑みを粉砕したつもりだった。
だが__残るのは、否応なく沁みつく真実だった。
「……癪に障るけれど……全部、そのとおりね……!」
息を荒げながらも、拳を握り直す。氷と雷を繰り返すマリーヌの動きは、既に読み解ける。派手に輝けば輝くほど、隙も呼吸も浮き彫りになる。ずるいほどに壮大で、壮麗で、美しい魔術の旋律。使い手がマリーヌでなければ、きっと自分も魅了されていた。そう感じずにはいられないほどの、疑いようもない全力。
「なら__ここからは、私の魔術のお披露目よ!」
ベルナデッタは足を踏み鳴らし、痛みを無視して前へ躍り出た。
血に濡れた拳を掲げ、頭の中のウィルを追い払い、その助言を逆手に取って__攻勢に転じた。
「……っ!」
マリーヌの瞳が驚きに見開かれる。
ベルナデッタの腕に、花弁のような光が咲き広がった。
淡い輝きが肌の下から滲み出し、拳を包むように燃え上がる。
それは華やかさと同時に、容赦のない殺気を孕んだ光だった。
「せいやぁぁあ!」
「結局正面突破ね!芸がないのよ!」
左から奔る氷槍の群れ、右から閃く雷撃。二重の刃が襲いかかり、挟み込むようにベルナデッタを呑み込もうとする。
「右か左、選ばせてあげる!」
だが――。
「__下よ馬ー鹿!」
ベルナデッタは寸前で体勢を低くし、床に身を滑らせた。
石畳を削りながらスライディングで突き抜け、氷と雷の挟撃を紙一重で回避する。
一瞬の残像が光花の残滓を散らし、白い火花が床に舞った。
「__!」
凍てつく風が渦を巻き、瞬時に厚い氷壁が立ち上がった。
花弁のような光を纏った拳が叩きつけられるが、砕けるのは氷の破片だけ。
冷気が弾け、視界が白に染まる。
「ここで届くと思った?甘いわ!」
氷の盾に守られたマリーヌが、凛とした声で言い放った。
砕け散った氷片の白い霧の中、ベルナデッタは拳を引き戻した。その腕の先ほどまでの赤い輝きは失われ、肉体からにじみ出ていた闘気はもうない。瞬きをすれば、そこに立っていたのは熟練の拳士でも、勇猛な格闘家でもない。ただ、一人の公爵家の令嬢だった。
「わかっていたわ。身体強化魔術の一つ、筋力増幅ね。誰に教わったのか知らないけれど、付け焼刃なら5分が限界でしょう」
氷片を散らしながら、マリーヌは冷ややかに言い放った。
その声は確信に満ちており、杖を掲げる仕草にも揺らぎはない。
「……ハァ……ハァ」
ベルナデッタの拳はまだかすかな光を纏っていたが、全身を走る違和感は隠しようがなかった。
肩が重い。肺が焼けるように軋む。何より、拳を振るうたびに赤い蒸気が散り急ぎ、筋力強化の魔術の持続の短さを自ら告げていた。
マリーヌの青い瞳が鋭く細まる。
「強化範囲を腕に集中させて持続時間を延ばすつもりね?操作はお見事ですが、悪い使い方を覚えては明日の魔力酔いが大変でしょう、お仕舞いにしてさし上げるわ」
杖先から奔る雷光が床を裂き、蛇のようにうねりながらベルナデッタの足元を狙う。
続けざまに氷の槍が放たれ、左右から鋏のように襲いかかる。
「__アンタは!いつから、私にものを教える立場になったのよ!マリーヌ……!」
ベルナデッタは声にならない悪態をつきながら拳を振り、逃げおおせようと身をひるがえす。
だが、わずかに遅れた。
砕き切れなかった氷片が脇腹を裂き、雷の痺れが脚を鈍らせる。
体勢を崩したベルナデッタを見下ろし、マリーヌは凛然と声を張り上げる。
「どうしたの!その程度で終わりなの!?没落令嬢!!」
彼女の周囲には冷気が渦巻き、雷が奔る。
氷と雷の双流が合わさり、結界全体を揺らすほどの奔流となって押し寄せる。
ベルナデッタは拳を構え直そうとするが、足は重く、呼吸は乱れ、光花の輝きも薄れ始めていた。
その姿は、追い詰められた草食獣のようだった。だが__
「もう、ふわふわ浮かないのかしら?風の妖精、さん」
荒い息を吐きながらも、ベルナデッタの口元には笑みが浮かんでいた。
挑発の言葉に、マリーヌの眉がわずかに吊り上がる。
浮遊魔術__あれだけ鮮烈に披露していたそれを、今は発動できていない。
軍神の娘とはいえ、学生には燃費の悪いであろう上級魔術を重ねたうえ、ギリギリまで使わなかった氷壁なる魔術。結果、既に魔力は限界に近いのだと、ベルナデッタは確信していた。
「強がって……!」
マリーヌは杖を振りかぶり、冷ややかに返す。
「浮遊がなくとも関係ないわ。あなたにはもう強化魔術も残っていない。対抗策はないでしょうに!」
蒼玉が閃光を放ち、雷が奔る。
空気を裂く轟音とともに、蛇のような雷撃が一直線にベルナデッタへ迫った。
決め手となる一撃、そう思わせるほどの鋭さだった。だが、ベルナデッタの瞳は怯むことなく、むしろ爛々と光を宿していた。
「……っ、まだよ!」
雷が直撃する刹那、彼女は膝を折り、床へ身体を投げ出す。転がるように前へ踏み込み、雷光を背後に滑らせる。髪が焼け焦げ、火花が散る。だが致命には至らなかった。
「悪あがきを……!」
上げるマリーヌの目前に、既にベルナデッタが迫っていた。
地を這うような姿勢から起き上がりざま、拳が再び振りかぶられる。
「__引っかかったわね」
勝ち誇った声が響き、マリーヌの杖先が閃く。
目前に迫るベルナデッタを迎え撃つように、再び冷気が炸裂した。
「氷壁!」
轟音とともに、再び白銀の壁が立ち上がる。
たった一瞬で、分厚い氷が幾重にも重なり、鉄壁の盾を形作った。
その厚みは先ほどまでの厚さはないが、突進してきた魔術もないベルナデッタを正面から遮断するには十全の強度だろう。
「……っ!」
拳が叩きつけられ、氷片が弾け飛ぶ。だが壁は容易く砕けない。
拳に走る痛みと共に、表面にひびが奔る。だがそれだけで、突破には至らなかった。
氷壁の背後から、マリーヌの声が凛として響く。
「これで終わりよ、ベルナデッタ!」
氷の冷気が結界に渦を巻き、ふたりの間を完全に隔てていた。
「……えぇっと?なんでしたっけ?引っかかったわね……?」
「……!?」
右手の拳は光を纏ったまま額の前で構え、同時に左手をすっと掲げる。その五指の中央に、淡い光がともる。
花弁のようにちらつく光が凝縮し、やがて弾丸のように脈動を始める。
「__拳だけが私の武器だと思ってたのかしらこの馬ァァァーー鹿ァ!」
「ッ……こんのぉっ!」
白い息を吐きながら笑い、ベルナデッタは氷壁を睨み据える。そのの向こうでマリーヌの眉がわずかに揺れた。ベルナデッタはその一瞬を逃さず、左手の光をさらに強く収束させた。
「必殺ゥ__!!!」
「させない!」
マリーヌは即座に__いや、息の半拍すら置かずに杖を振り抜いた。
肩の上下すら見えない。指先の神経を直に魔力へと接続__雷嵐の修行で鍛えた起動そのもののスピードに、氷槍の修行で磨いた形成のスピードを重ねる。これまで放ってきたどの雷よりも速く、どの氷よりも鋭い。このような無茶な魔力の動かし方をしては、明日のマリーヌの魔力酔いは確実だろう。
杖先は視線を追い越し、蒼の軌跡だけを残して、その穂先から放たれるに選ばれたのは、魔術師であればだれもが扱う、基礎魔術。
「光花!!」
__ぱんっ、と甲高い破砕音。
散った輝きが粉雪のように舞い落ち、その手のひらに突き刺さった鋭い破片が、光を凝縮した魔術の失敗を悟らせる。
「知っていたかしら!光花は魔力の凝縮でわずかに質量を持つのよ!それも未発動の魔術を相殺するには申し分ない、あなたの負けよ!ベルナデッタ!」
マリーヌは凛とした声を張り上げた。
「あら、そうだったの__」
だがベルナデッタは、壊れた光弾の残滓を前にしてもなお、笑みを浮かべていた。
「……なら、さっきのアレ、投げてもよかったのね」
「……!?」
砕け散った左手の光花の煌めきに紛れ、右手の筋力増幅が再起動する。筋肉を補強する赤い魔力の筋が一気に腕を駆け上がり、血に濡れた拳を新たな光で包んだ。
「嘘__さっき確かに」
ベルナデッタは氷片を蹴散らし、一直線に踏み込む。
「途中からわざと強化の出力を控えて光花で偽装してたのよ!」
マリーヌ・ド=フォルジュ。博識な彼女の言っていた通り、本来の筋力増幅の術式は5分が限界とされる。
肉体の許容量を越えた魔力の奔流は、筋繊維を裂き、骨格に過剰な負荷を与えるからだ。だが、今ベルナデッタの身を走るのは常識の範疇を超えたものだということは、博識なマリーヌですら知らない。
ヨグの編んだ補助の術式は、ただの強化ではない。緻密さと精度は至高の領域に等しく、絶えず魔力の流れを均衡させ、負荷と抵抗を最小限まで抑え込んだその魔術は、だいたい3秒くらいなら残滓から再起動させられる。
唸り声を伴い、熱を取り戻した拳が振り抜かれる。
「__ッッッ!!!!氷壁ォ!!」
回数にして3度目。その魔術は、氷壁は決して優秀なものではなかった。魔力の消費量も馬鹿にはならず、範囲も広いわけでもなく、守れる範囲はせいぜい自分ひとり。だがそれは、彼女にとってただの防御手段ではなかった。軍神の血に囚われた自分が、初めて努力で築き上げた「もう一つの自分」の象徴。血筋ではなく、己の意志で会得した最初の魔術だった。
その壁が砕かれるということは__。
積み上げて、固めて、隔ててきた、魔術師の誇りも、努力も、軍神の娘としてではなく、一人の魔術師としての「私」が打ち破られるということ。
「……っ!」
マリーヌは瞳を見開いたまま、一瞬にして理解した。
氷壁の中心に叩き込まれたその一撃は、重なった氷の層を軋ませ、ひび割れを奔らせる。
次の瞬間、轟音とともに壁が粉砕し、吹雪のように砕氷が舞い散った。
「決着、ですわ__!」
ダイヤモンドダスト、その中で瞳に炎を燻らすせたままの二人。没落令嬢と悪役令嬢の二人の目が合う。マリーヌの驚愕が口から漏れたその時には、魔力を伴ったベルナデッタのビンタが頬をブち抜いた。




