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足を踏んだら勝つゲーム

前回まででキャラ紹介終わり、新章開幕です

 窓辺のカーテン越しに差し込む朝日が、淡く赤みを帯びた部屋を照らしていた。

 小鳥の囀りと、庭園を渡る風のざわめき。公爵家の女子寮に設けられた一室で、ベルナデッタはゆっくりとまぶたを開けた。


 長い赤髪を揺らしながら上体を起こす。まだ寝台の温もりが残るシーツを払い、背筋を伸ばすと、思わず小さく息がもれた。


「……ん……」


 今日は舞踏会そのものではない。だが、避けては通れぬ練習の日だ。

 学園に通う貴族令嬢として、社交の場に備えるのは義務のようなもの。加えて、彼女自身の立場を考えれば、どんな些細な失態も許されない。

 化粧台に向かい、朝の光を浴びながら己自身の赤い瞳を見つめる。昨日までの疲れは不思議なほど抜けていて、頬の血色も悪くない。

 けれど心の奥には、舞踏会という言葉を思い出すだけで小さな棘が刺さるような緊張があった。

 机の上には練習用の舞踏会手引き書。厚い革表紙のその本は、父の家臣からわざわざ取り寄せられたものだ。ページを開けば「淑女の立ち居振る舞い」から「舞曲の手順」まで細かく記されている。

 ベルナデッタは指で文字をなぞりながら、ふっと小さな溜息をこぼした。


「……ああ、相手の足を踏みつぶしたら勝ちってルールにならないかしら」


 そう呟いて椅子から立ち上がる。

 舞踏会の本番はまだ先。だが、今日からは練習の日々が始まるのだ。

 ちょうどそのとき、扉の向こうで足音が小さく響き、無表情の侍女が姿を現す。


「ご息女様。それは武闘会の一種では」


「……やっと来たのね、ダメイド」


 赤い瞳が鋭く細められる。


「昨夜、どこに行っていたのかしら。私が部屋で呼んだのに、影も形もなかったわ」


 ヨグは淡々と一礼する。


「ご息女様のお休みを妨げぬよう、控えておりました」


「嘘をおっしゃい。窓の外から枕の下まで覗いたのよ」


 唇を尖らせるベルナデッタの姿は、普段の気高さを少し崩した少女らしいものだった。

 しかしヨグは眉ひとつ動かさず、話をすっとすり替える。


「お部屋の外に控えておりました……本日の予定ですが、舞踏会に備えて朝から練習を始めてはいかがでしょう。体を慣らすのは早いほどよろしいかと」


「ごまかすつもりね」


 ベルナデッタはじろりと睨んだ。だが、ヨグの声音はあまりに自然で、反論を重ねる気力を削いでいく。結局、彼女は深く息を吐いて肩をすくめた。


「……いいわ。どうせならサボってくれたほうがまだ人間らしくて好感が持てるわ。相手を務めなさい、メイド」


「御意」


 ヨグは静かに一歩進み、眼前に待つ麗しい赤髪の令嬢に手を差し伸べる。

 朝の光が差し込む室内で、舞踏会のレッスンが始まろうとしていた。


「では、まずは基礎から。宮廷式十七種のうち、朝の稽古にふさわしいもの三種を抜粋いたしました」


「……気が遠くなりそうね」


 ベルナデッタは小さく眉を寄せたが、ヨグは変わらぬ表情で淡々と続ける。


「シュルズベリィ家の未来に必要な稽古です」


 答えはいつも通り、感情の波を一切映さぬもの。


「……はぁ。わかったわよ」


 ベルナデッタは諦め混じりに相手の手を握り直し、背筋を伸ばした。


「ならせいぜい、私がつまずいても笑わないことね」


「御意」


 音もなく床を踏みしめるヨグのステップは、まるで機械仕掛けのように正確だった。

 それに対して、ベルナデッタの足取りはぎこちなく、しばしば遅れたり速まったりする。


「……っ!」


 赤い靴先がヨグの足を踏みそうになる。

 しかしヨグは微動だにせず、自然な体の傾きだけでそれを避けた。

 まるで最初からそう振り付けられていたかのように、ダンスは途切れず続いていく。


「っ……」


「……」


 ベルナデッタは歯噛みした。

 それからも同じことの繰り返しだった。彼女がつまずけば、ヨグは支えるようにして滑らかに受け流す。踵がぶつかりそうになれば、影のように一歩下がって寸前でかわす。


「きゃ__」


「……」


 思わずバランスを崩し、激しく転倒しそうになる。しかし次の瞬間、ヨグは二人分の体重を支えくるりと一回転して魅せた。

 結果としてベルナデッタは、何度失敗しても、失敗にならない。


「……っ、だから余計に腹立つのよ!」


「……」


 息を荒くし赤い瞳を吊り上げると、今度は意図的に足を踏み込んだ。次はわざと、ヨグの足を狙って。

 しかし、ヨグは視線すら動かさず、その一歩を受け流す。あまりにも自然すぎて、むしろベルナデッタの方が空を踏んだ格好になる。


「__こ、んのっ!」


 それを何度か繰り返したのち、ヨグはようやく口を開いた。

 低く、しかし確かな響きをもって。


「……ご息女様。確認ですが、これは足を踏んだら勝ちのゲームではありませんよ」


「……わ、わかってるわよ。そんな顔で言わなくても……」


 赤い髪を乱暴にかきあげ、横を向きながら小さく呟く。頬が熱を帯びているのは苛立ちのせいか、それとも恥ずかしさか。

 ヨグは変わらぬ無表情で頷き、改めて令嬢の手を取った。その指先は冷静にして穏やかで、わずかな震えさえも包み隠すようだった。

 ベルナデッタは小さく鼻を鳴らし、背筋を伸ばす。


「……いい?シュルズベリィ家の娘は同じ失敗はしないんだから」


 再び始まるステップ。

 今度の彼女は真剣で、赤い瞳はまっすぐ前を見据えていた。

 音楽もない静かな部屋の中で、二人の靴音だけが小さく響く。

 ベルナデッタの足取りは最初ぎこちなかったが、真剣さを取り戻してからは確かに変わり始めていた。

 一歩、二歩。赤い瞳が床ではなく前を見据え、背筋もぴんと伸びる。

 それに呼応するように、ヨグの手がわずかに力を添え、動きを導いていった。失敗しそうになる瞬間は、まだある。だがヨグのあまりにも自然で、的確な補助は、相対するベルナデッタの動きまで洗練していく。

 __そのことが癪であり、同時にありがたかった。


 旋回の最後、ベルナデッタの足が正しく着地した。

 その瞬間、彼女の赤い瞳がぱっと輝く。


「……できた!今度は完璧よ!」


 頬を上気させ、思わずヨグの両手をぎゅっと握りしめる。


「見たでしょう、メイド!私、ちゃんとやれたのよ!」


 しかし侍女は瞬きひとつせず、淡々と返した。


「ええ、誤差は二歩目で三度、回旋においては角度がわずかにずれました。ただし全体としては許容範囲内です」


「……」


 弾むように喜んでいたベルナデッタは、唖然とした表情でヨグを見つめた。


「ちょっと……!もっとすごいです!とかお見事です!とか、そういう反応はないの?」


 ヨグは微動だにしない。


「……はぁぁぁ……!」


 ベルナデッタはあきれ果て、両手を放して頭を抱えた。


「……せっかく上手くいったのに、どうして水を差すことしか言えないのかしら、このメイドは!」


 ベルナデッタは肩を怒らせ、赤い瞳を細める。


 ヨグはしばし無言で令嬢を見つめていたが、やがて淡々と口を開いた。


「__総じて、お見事でした」


「……!」


 唐突に投げられた短い賛辞に、ベルナデッタの胸が跳ねる。

 思わず赤髪をかきあげ、顔を横に向けた。


「べ、別に……そんなこと、言われなくても……っ」


 声は強がりのようでいて、耳の先まで赤く染まっていた。

 窓辺から差し込む朝日が、二人の影を長く床に落とす。

 庭園では露を含んだ花々が開き始め、遠くからは鐘の音が軽やかに響いていた。

 学園の一日はもう動き出している__けれどその片隅で、令嬢と侍女はひとときだけ練習の余韻に浸っていた。


「__えい」


「……?」


 朝日とヨグだけが見つめるその足元では、赤い靴の踵がヨグの甲を軽く踏みつけていた。


「……あの、ご息女様?」


 ヨグは微動だにしない。痛みを感じているのかすらわからない無表情で、ただ静かにベルナデッタを見下ろすだけだった。


「……痛いとか何とか言いなさいよ」


 ベルナデッタは逆にうろたえ、顔を赤くして声を上げる。


「ではとても痛いです」


 ヨグの返答は涼しいほど淡々としていた。

 ベルナデッタは悔しげに赤髪を揺らし、両手を振り回して叫ぶ。


「ほんっとうに腹が立つわね、このメイド!」


 けれどその顔には、どこか笑みが混じっていた。


 __と、その余韻をかき消すように。

 廊下の向こうから、どたどたと高鳴る足音が近づいてきた。

 軽やかさとは程遠い、まるで突進するイノシシのような勢い。

 ベルナデッタが眉をひそめ、ヨグが無言で扉の方へ視線を移す。

 次の瞬間――


 ばんっ!


 勢いよく扉が開け放たれ、朝の光とともに小柄な影が飛び込んできた。


「クソおはようございますです!お姉さまーっ!」


 栗色の髪を跳ねさせ、頬を紅潮させた少女――エーリッヒ=ヴィヴァーチェが満面の笑みで叫ぶ。

 彼女の声は小鳥の囀りのように弾み、舞踏の余韻に包まれた部屋を一瞬で掻き乱した。


「排除を__」


「ノー排除よ」


「わっ、わわわーーっ!?」


 部屋に飛び込むなり、カーペットをずるりとすべたせたエーリッヒは、派手な悲鳴とともに宙を舞い、床に盛大にすっ転んだ。

 どしん、と大きな音が響き渡り、ベルナデッタは目を瞬かせる。


「あっ、ちょっ……!アナタなにやってるのよ!」


 慌てて身を起こしたエーリッヒは、膝を擦りむいてもまるで気にせず、頬を紅潮させたまま叫んだ。


「お姉さまっ、今日から魔術を教えてもらうです!」


 勢いよく飛び込んできたエーリッヒの言葉に、ベルナデッタは一瞬耳を疑った。


「__は、はぁ!?」


 赤い瞳を見開き、思わず声を裏返す。

 その瞬間、昨晩の大浴場での会話が鮮やかによみがえった。

「わかったわよ! そこまで言うならピンからキリまで教えてあげるわ!」と、そう勢い任せに口走った自分の宣言。エーリッヒの「クソかっけぇです!」と無邪気に称えた声。


「……っ!!」


 ベルナデッタの頬が一気に赤く染まる。

 額に手を当て、視線を泳がせながら後ずさる。


「ちょ、ちょっと待って! な、なんでその話を、ほんとに……あれは、その、雰囲気というか、勢いで……!」


 声は上ずり、言葉はまとまらない。

 普段は気高く凛とした令嬢の姿は影を潜め、今はただ赤面して慌てふためく少女そのものだった。

 パニック寸前の令嬢を前に、エーリッヒはにかっと笑い、床に手をつきながら立ち上がる。


「だって約束したです!今日からエーリッヒは、お姉さまに弟子入りするです!」


 そのまっすぐな瞳に射抜かれ、ベルナデッタは赤い髪を乱暴にかきあげて叫んだ。


「~~ッ!……だからって、いきなり押しかけてくるなんて非常識でしょう!!」


 部屋の隅で控えるヨグは、変わらぬ無表情で二人のやり取りをじっと眺めていた。

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