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幕間 会議も踊るしゃばどぅびな夜

「また明日からよろしくお願いしますです!」


 廊下の曲がり角で、エーリッヒがぱたぱたと振り返る。栗色の髪はまだ濡れていて、滴る雫が廊下の明かりにきらめいていた。

 小柄な身体に不釣り合いなほどの熱意を宿し、その瞳はまっすぐベルナデッタを射抜いている。

 ベルナデッタは思わず足を止めた。湯気の残り香とともに、先ほどまでのおだてられた高揚感が胸の奥に残っている。だが、今こうして冷えた廊下に立つと、熱は急速に引いていく。


「……っ」


 紅玉の瞳を伏せ、胸の奥を掻きむしられるような感覚に襲われる。自分は嘘を抱えたまま「お姉さま」と呼ばれることに甘えた。その期待を裏切る日が来るかもしれない。

 けれど――


「絶対に頑張るです! お姉さまに追いつきたいです!」


 そう言って輝いたエーリッヒの瞳を前にすると、ベルナデッタは否定の言葉を返せなかった。

 頬をわずかに赤くしながら、そっぽを向き、肩をすくめる。


「……そう、楽しみにしているわ!」


 精一杯の強がりだった。けれどその言葉を聞いたエーリッヒは、ぱっと笑顔を咲かせ、小さな手を振って自室へと走り去っていった。

 廊下に一人取り残されたベルナデッタは、力が抜けるように背を壁に預ける。湯気がしゅるしゅると消えるように、先ほどの高揚は跡形もなくしぼんでいた。


「どうしてこうなったのよぉ、私ぃ……」


 夜の静寂に包まれた廊下を、ベルナデッタはタオルを握りしめながら歩き出した。

 足取りは重く、けれど胸の内はただ一つの結論に至っている。ヨグに相談するしかない。

 寮の自室に戻り、そっと扉を開ける。


「メイド、いるんでしょう? ちょっと話があるの」


 しかし部屋の中は静まり返り、侍女の姿は見えなかった。


「……は?」


 ベルナデッタは小さく眉をひそめ、部屋の隅を覗き込む。ベッドの下を覗いてみても、カーテンの影を払っても、机の下にも、ヨグの影はない。

 最後に窓を開け、夜気を受けながら外を確かめてみる。だが当然、月明かりに照らされる中庭にもそれらしい気配はなかった。


 肩を落とし、赤い瞳を半ば閉じる。


「ほんっと、肝心な時に限って……」


 悪態をこぼしながらも、心のどこかで安堵していた。

 もし今夜ここにいて、大浴場の一件を話してしまったら。きっとあの気遣いができないメイドは何も考えずにウィルに伝えてしまうに違いない。そして、あの下劣で性格の悪いヒモ野郎に笑われる……。

 その想像だけで、眉間がしわを作り頬が熱くなる。


「フン……考えるだけでも腹立たしいわね」


 苦々しく呟き、タオルを椅子に投げるように掛けると、ベルナデッタはベッドへ身を沈めた。柔らかな寝具に包まれた途端、浴場での高揚も、廊下を歩いた冷えも、すべてがとけていく。

 赤髪を枕に広げ、瞼を閉じる。耳に残るのは、湯気の中で弾む声――「お姉さま」と呼んだあの声音。

 胸の奥がくすぐったく、けれど温かい。


「__お父様」


 小さな吐息を最後に、ベルナデッタは静かに夢の底へと沈んでいった。



 ***



 __深夜。

 王都の軍本部にある石造りの会議室には、燭台の火が揺れ、重苦しい空気が充満していた。

 卓上の地図に手を置き、将校の一人が声を上げる。


「報告いたします。ヴィヴァーチェ領西の山間部で魔物が活発化しております。各村からの避難民も増え、先日には逸話級の魔物の目撃例まで……」


 どよめきと沈黙が同時に場を包む。

 逸話級……それは手練れの冒険者や王国軍が総力を挙げてようやく撃退できる等級。単独の小隊では到底太刀打ちできず、出現そのものが一つの災厄と見なされる存在だった。

 誰かが息を呑み、そして別の将校が低く呟いた。


「……魔王復活の予兆かもしれん」


 その言葉が落ちた瞬間、燭台の炎が大きく揺らぎ、空気は一層重く沈んだ。

 まだ確証はない。だが、もし伝説の魔王が再び甦るのだとしたら……王国の存亡そのものが揺らぐことになる。

 卓を囲む将官たちは次々と意見を交わし、やがて一つの結論に至った。


「いずれにせよ、民を守ることが先決だ。ヴィヴァーチェ領からの避難民の受け入れ態勢を至急整えよ。王都と周辺都市に物資を回し、被害を最小限に抑えるのだ」


 会議の首座に座し、たったいま判断を下したのは、王国軍の高官『不死身の軍神』とも称される生ける伝説、ゴットハルト=ド=フォルジュ。

 荒々しく刈り込まれた金髪と娘に似た鋭い青の瞳、そして鎧ごしでも伝わる筋骨隆々の体格は、彼が未だ現役の戦士であることを疑わせなかった。

 それによって短い返答と頷きが飛び交い、議題はいったん区切りを迎えた。

 しかし、燭台の炎が揺らめく中で静寂が訪れた瞬間、白髪を撫でつけた男がすっと立ち上がる。眼鏡の奥に光を宿す冷徹な視線が、地図の上に落ちた。


「――閣下。避難民の件も重要ですが、見過ごせぬ動きがもうひとつあります」


「……教会、か」


 低く響く声が石壁を震わせる。


「えぇ、枢機卿の嫡子。彼を財政難にあえぐ公爵家の令嬢と婚約させ、取り込もうとしているようです」


 その名を聞き、将官たちは顔を曇らせた。

 フィアナはまだ若く、清廉さと人当たりの良さで知られていたが、裏で父の枢機卿に都合よく使われているに過ぎない。本人は政治の企みを知らず、ただ婚約を結ばれるべき縁と信じているだけなのだろう、と。


「フィアナ殿本人に悪意はなくとも、駒にされれば教会の尖兵と同じこと。そして、勇者の仲間の血を、教会の手駒に渡すわけにはいかん」


 ゴットハルトは拳を握り、机を鳴らした。


「……シュルズベリィ家。勇者の仲間の血を継ぐ家系でありながら、当主は不在で今や没落寸前。財の尽きた貴族ほど、教会にとって扱いやすい駒はない。嘆かわしいことです」


 その横で進み出る長身の男__「暴風の槍」の異名を持つ腹心、カリオス=トルナードが、槍を軽く床に突いて言葉を継ぐ。白銀に近い白髪をぴたりと撫でつけ鋭いオールバックに整えているその男、眼鏡の奥で光る瞳は常に冷静で理知的な輝きを湛えていた。

 瞳には哀れみの光も浮かんでいたが、声には一片の感情も混じらない。まるで朽ちゆく城を遠目に観察する学者のように、冷徹な分析を口にするだけだった。


「だが、だからこそ護る価値がある。あれは象徴だ。勇者とその仲間が積み上げた、我が王国の誇るべき血統を、教会の思惑に奪われてはならぬ」


 冷徹で、合理的で、それでいて揺るがぬ信念を覗かせる声音。

 カリオス=トルナード__暴風の槍は、軍神ゴットハルトに並び立つにふさわしい男だった。

 その時、会議室の扉が重く開き、若い将校が駆け込んできた。鎧の肩当てを鳴らしながら、緊張で声を張り詰めている。


「閣下、報告がございます!」


 ゴットハルトの鋭い視線を正面から受け、将校は唾を飲み込み、続けた。


「教会に潜り込ませていた我が兵が、一昨日から消息を絶ちました。腕の立つ者を選びましたが……何の痕跡もなく……」


 会議の空気が凍りついた。ざわめきかけた声もすぐに掻き消え、燭台の炎だけが静かに揺れていた。


「……何かがいるな」


 ゴットハルトの青い瞳が鋭さを増した。


「魔の潜む協会など、冗談にもならんな。しかし、だからこそ教会は強気で動けるのだろう」


 重苦しい沈黙が広がる。兵たちの表情は険しく、誰も軽口を挟もうとはしない。


「……勇者の仲間の血族。その肩書を教会に奪われれば、この国の象徴は欠ける。軍も王も、国の礎までもが腐り落ちるだろう」


 ゴットハルトは机に両手を突き、声を低くした。


「暴風よ。部隊を再編しろ。次はただの偵察ではない、教会の腹を割る。どんな犠牲を払ってもだ」


 カリオスは深く頭を垂れ、槍の石突を床に強く打ち鳴らす。


「御意に。嵐を起こし、闇を切り裂いてみせましょう」


 燭台の炎が大きく揺れ、燃え盛る怒気を沸き立たせた軍神の影を壁に映し出した。

 その夜、王国軍は静かに__しかし確実に、教会との暗闘に歩を進めていった。



 ***



 ――薄暗い石造りの回廊。

 女神像の裏手から隠し扉を通って奥深く、信徒すら立ち入ることのない閉ざされた一室に、低い声が響いていた。


「……喜ばしいことだ」


 蝋燭の炎に照らされた机を囲み、黒衣の影たちが頷く。

 彼らは教会の暗部に潜む秘密組織……十字聖痕。

 聖務を冠してはいるが、その実態は権謀術数を操り、実験の掌握を企む冷徹な執行機関だった。

 ひとりが、鉄筆で羊皮紙を叩きながら口を開く。


「学友どもに嫌がらせを受け、逃げるようにして領へ戻っていたあの娘……再び学園に姿を現したそうだ」


 別の影がくぐもった声で笑う。


「フィアナ殿の婚約者か、あれで一層、舞踏会の話題は華やかになるだろう。教会にとっても好都合だな」


「ええ、我らが目論む統合の旗印となる」


 蝋燭の揺らめきに、十字の痣を刻んだ手が浮かび上がる。


「彼女がこの場に戻ったこと……それこそ神意に他ならぬ」


 彼らの声は低く、しかし確信に満ちていた。


「では続いて報告だ。信徒に扮し聖堂に踏み入った愚か者を、捕らえた」


 ひとりが羊皮紙を机に置き、硬い声で告げる。


「身元を調べたところ、王宮騎士団で間違いない」


「やはりな」


「軍神フォルジュの犬どもは嗅覚が鋭い。こちらの動きを探るのに血眼になるのも当然だ」


 影たちが低く笑う。


「奴ら、どう使ってやろうか。処刑して見せしめにするか……あるいは」


 指先に刻まれた十字の痣を卓に叩きながら、年長の男が言う。


「ふん、連中の誇り高さは利用するに限るな」


 影たちはひそひそと笑い合い、次なる話題へ移った。


「さて……軍部への対策についてだが」


「フォルジュ将軍は未だに健在、『不死身の軍神』の名は伊達ではない。彼の指揮が続く限り、軍は教会に逆らう最後の楔となり得る」


「ならば、娘を使うか?」


 その声に下卑た笑みが伝染し、影たちは愉快そうに肩を震わせる。


「良き策かもしれんな。マリーヌ・ド=フォルジュはフィアナ殿の婚約者への執拗な嫌がらせを繰り返していることでも有名だという」


 声が落とされ、空気がさらに冷え込む。


「魔術専攻の首席候補であり、シュルズベリィ家の娘を相手に狼藉を働く将軍の娘か。……これは利用できる」


「なるほど。力に驕り、没落した令嬢をいたぶる将軍の娘……実にわかりやすい構図だ。見物人は皆そう受け取るだろう」


「そうなれば、教会は正義の名のもとに動ける」


 十字の痣を刻んだ手が、蝋燭の灯に浮かぶ。


「学園における度を超した横暴を制するため、やむなく、生徒を拘束する……建前は十分だ」


「マリーヌ・ド=フォルジュを悪役に仕立て上げ、正義の名のもとに奪い取るわけだ」


 机を囲む影たちはうなずき合い、ひそやかな声を重ねる。


「世間はきっと喝采するさ。没落した公爵家の令嬢を痛めつける将軍の娘……まさに物語で語られる『悪役令嬢』そのものだ」


 炎に照らされた顔はどれも微笑んでいた。だがその笑みの奥に潜むのは、神の名を隠れ蓑にした冷酷な算段だった。蝋燭の炎が大きく揺らぎ、石壁に映る黒衣の影をずるると増やした。


「……ところで」


 一人が声を潜める。


「シュルズベリィ家に仕えているという新しい侍女。彼女の出自について探るべきでは?」


 しばし沈黙が流れる。

 やがて年長の影が鼻で笑い、手をひらひらと振った。


「取るに足らん。没落した公爵家にまとわりつく一介の侍女など、駒にすらならぬ。……気にかける価値もない」


 別の影が口を覆いながら嗤った。


「忘れるな。学園にはあやつがおる。何も案ずることなどない」


「王宮騎士団の尖兵を捕らえたのもあやつの手柄だというではないか」


 影たちの囁きに、蝋燭の炎が不気味に揺れた。冷たい地下の空気が、さらに重く沈み込んでいく。その囁きは冷たく、しかしどこか甘美な響きを帯びていた。やがて蝋燭が一つ吹き消され、部屋に深い闇が落ちる。


「ほどなくして舞踏会の夜が来る」


「光ある未来を信じる者どもが、闇に踊らされるのを見るのは楽しみだ」



 残されたのは、十字の痣を刻んだ手を組み合わせる音だけ。


「__光を恐れよ。神は一つ、祈りなき影に赦しはない」


 その言葉だけが、雫の滴る地下室に残響し、やがて完全な闇に沈んだ。

 __十字聖痕の密議は、こうして静かに幕を下ろした。

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