ぞくっ! RPGで最弱扱いのあれ
それの見た目はほぼ水であり、一見してそれの異常さに気づける者などいない。
水に紛れてしまえば発見は困難であり、下水に潜って自由気ままに移動するそれを捕捉する術などなかった。
時折水道管を伝って家屋内に侵入し、人を喰らう。
無色透明で移動に音も立てないそれの接近に気付く者はなく、狙われた者は悲鳴をあげることもできずに生きたまま溶かされ、吸収された。
途中で絶命できれば幸運と言える。それは、獲物を極力生きたまま喰らうのだから。
獲物の味わう激痛も地獄もそれにとってはどうでもいいことだった。
人間が捌かれる魚の苦痛に配慮しないように、それもただの餌の感情になど興味を持たない。
喰らい終わったらまた下水に戻る。
都会において人が消えることは珍しいことではない。下手な痕跡さえ残さねば人が消えても誰もおかしなことだとは思わず、それの存在にも気付かない。
気付かれたところで、人間などさした脅威ではなかった。
妹が消えた。
義弘にとって妹は唯一の肉親であり、近況を報せ合うただ1人の相手だった。
その妹から連絡が途絶えた。
携帯を鳴らしても、SNSでメッセージを送っても反応がない。職場に連絡してみると無断欠勤が続いていて困っているという。
妹の性格からして無断欠勤をして他人様に迷惑をかけるような真似をするはずがない。
これは何事かあったに違いないと妹の上司に頼んで警察同伴で部屋の中を調べて貰うことにした。
本当は自分で行きたかったのだが生憎と義弘は海外にいた。しかも田舎だ。
大切な家族のことだからすぐに帰国の準備を進めても時間がかかる。
もし妹が急病かなにかで人知れず倒れていたりしたら一分一秒を争う話であり、自分が帰国するまで悠長にしていられなかった。
義弘が帰国したときには妹の部屋の捜索は済んでいた。
結果、妹は見つからなかった。
妹の上司・係長に当たる鈴木という男性は義弘の依頼を受けてからマンションの管理会社に連絡を取り、警察とも連携して妹の部屋に入ってくれた。
「変わったところはなにもありませんでした。鍵はかけられていましたがチェーンはかかっていなかったので、外から掛けたのか内から掛けたのかは分かりません。
荒らされた様子もなく、なにか事件に巻き込まれたことを思わせるようなものもなにも」
それは鈴木だけではなく、一緒に部屋に入った管理会社の人間や警察官も同じ意見だった。
急病で倒れているようなことも、誰かに襲われたようなこともなかった。
しかし、妹はいない。
義弘は安堵していいかどうか悩んだ。
変わり果てた姿で見つかるのではないかという不安は消えた。いや、先延ばしになっただけかもしれない。
妹はいないのだ。
どこへ行ったのか皆目見当も付かない。
「妹さんと仲の良い者に聞いたのですが、昼食を一緒にする約束だったのになんの連絡もなく出勤もして来なかったそうです」
鈴木は社内の人間に聞いてくれたらしい。
だが、その情報をどう解釈したものか。
友人と約束をしていたということは、自発的に消える予定はなかったと考えるべきか、それとも敢えて日常を装っていたのか。
義弘は妹の部屋に入り、荷物などを検めた。
特になにかを持ち出した様子はない。財布も携帯も、免許証の類もすべてが部屋の中に残されていた。
なんらかの事情があって姿を消すにしても、これでは移動先で生活するのも苦労するのではないか。
特に現金などは持って出てもなんら不都合はないはずだ。
義弘は妹が自発的に姿を消したことに強い疑念を抱いた。
荒らされた形跡もないし、ストーカーの相談を受けたこともないが、ひょっとしたら何者かに拉致されたのではないか。
警察に失踪届を出し、管理会社に頼んでマンションに設置されているカメラの映像を確認して貰った。
妹が無断欠勤を始めた前日の夜、妹はいつも通りにマンションに帰っていた。
けれど、それ以降はマンションのカメラは妹の姿を捉えていなかった。
「カメラは正面玄関と地下駐車場出入り口にありますが、どちらにも妹さんは映っていませんでした。しかし、玄関を通らずに外へ出ることは可能ですから、絶対に外へ出ていないとまでは言い切れません」
管理会社の担当者はどこか言い訳するようにそう言った。
マンション内にいるとは思いたくなかったのだろう。
20年ほど昔になるが、若い女性が同じマンションの住人に監禁され、殺害された事件があったことを義弘は知っていた。義弘はまだ子供だったが世間を騒がせた事件だった。
あの事件でも被害者はマンションから出た形跡が見つからなかった。
その状況と妹の事件の状況は似ていると言える。
なんの痕跡もなく、妹は消えてしまった。
洗濯機の中には洗い終わった洗濯物が入ったままだった。
汚れ物を洗濯機に入れ、スタートボタンを押せば後はお任せで脱水までやってくれる。
つまり、洗濯機を動かすまでは無事に部屋にいた。その後なにかがあって妹は消えた。洗濯機が作業を終えても妹は戻らず、洗った洗濯物はそのままになった。
極めて不自然なことだった。
これと言って事件性を示す証拠はないものの、状況がおかしいのは警察も理解していて、本格的に捜索を始めることが決まった。
それのことを思い出したのは管理会社に頼んでカメラ映像を確認して貰った後だ。
マンションの管理人が合鍵を使って店子の部屋に無断で侵入し、窃盗を働いた事件が話題になったことがある。それを聞いて妹の身を案じた義弘は屋内用監視カメラを妹に送った。
ペットの見守りやベビーモニターとしても使える代物だ。
考え過ぎだと妹には笑われたが送ったのは確かだ。
ネットで数千円で買える小型の物だがネットワーク機能もあり、モーションセンサーと録画機能も付いている。設定さえすれば外から自宅の様子を見ることもできた。
妹があのカメラをどうしたかまでは聞いていない。もし、使っているのなら一部始終を録画している可能性があった。
義弘は改めて妹の部屋を見回し、本棚に当たり前のように置いてあるそれを見つけた。
別に隠してあったわけではない。ただそれほど大きなものでもないので見過ごしていた。
携帯アプリから接続できるはずだが義弘はパスワードを知らない。
だから手っ取り早くカメラ本体から録画用メディアを抜いて、それをPCで覗いた。
多くのファイルができていた。
ファイルの作成日付を追って行く。繰り返し録画する製品であるから、余り日数が経ってしまうと前のデータは消えてしまう。
祈るような気持ちでデータの日付を確かめて行くと幸いにも妹の失踪近辺のデータはまだ残っていた。
妹が消えた日付のものを再生する。
家に入り、リビングで上着を脱ぐ妹の姿が映っていた。
そこには妹の無事な姿がある。まだ妹がどうなったか分からないのに、その過去の記録を前にして義弘は目頭が熱くなった。
妹は、少なくとも映像が録画された時点では無事だったのだ。
では、いつどうやって姿を消したのか。
バスルームの方へ向かったのが分かった。音からすると、そこでインナーや下着を洗濯機に入れてスイッチを入れたらしかった。
そこで一度録画が途切れファイルは終了する。
マニュアルによればモーションセンサーに反応があった場合に1分録画する。
誰か、或いは何かがセンサーの範囲内で動き続ければ連続録画されるし、動体がなくなれば録画は終了する。
この部屋の唯一の住人である妹がカメラの範囲外に出たために、カメラは自動で録画を停止した。
次に録画が始まるのはまたセンサーに反応があったとき、カメラの視野でなにかが動いたとき。
次のファイルを開くとさっきの録画から余り時間が経っていないと思われるリビングの映像だった。
映像データに記録された時間を見ると、さっきの映像から1時間も経っていない。
妹の姿はどこにもなかった。
洗濯機が動いている様子もない。
まだバスルームにいるのだろうか。妹はそんなに長風呂だったろうか。
……
そこで義弘は、一体なにを検知して録画が開始されたのか疑問に思った。
部屋の住人は妹だけ。兄に黙って誰かと同棲しているということもない。それは部屋に残された荷物からも分かることだ。妹の他にこの部屋に人が住んでいた気配はなかった。
リビングに妹の姿はない。
なのに録画がスタートしたのは、なにかを検知したからだ。では、それはなにか。
大きな虫でもいたのだろうか。
画面内にはそういうものは見当たらなかった。
「ん?」
映像は一度終わってしまった。
もう一度最初から見直していた義弘はフローリングの床が妙にキラキラしているのに気付いた。
元々良く磨かれた床だった。
照明を反射していた。
それが、揺らめくのだ。
陽光を反射する水面が揺れたときのように、煌めくのだ。
「水?」
部分的に拡大して見ると、どうも床に水が広がっているように見えた。
厚みはそれほどないが表面が床とは違った反射をし、それが煌めいて見えていた。
どうして水が床に広がっているのか。どこから漏れて来たのか。
マンションの部屋の中である。
水場と言えばトイレ、風呂、台所。水は、そのいずれからか漏れて来ているはずだった。
しかし、鈴木たちが部屋に入ったときに室内が濡れていたとは聞かない。そんな異常があれば当然誰かが気付いている。
リビングにまで溢れ出した水。仮に出水が止まったとして、そんなに早く、なんら痕跡も残さずに乾くものだろうか?
それに……それに、だ。
義弘は画面を食い入るように見つめ、水を観察した。
その広がり方がどうにも奇妙だった。
水漏れであるなら、水は出所を中心にして広がる。障害物があれば迂回する。基本は一方通行であり、なにもないのにカーブしたり、来た道を戻ったりするはずがない。
それなのに、画面内の水の広がり方はどうにも偏っていた。
床が変に傾いてでもいるのかもしれない。人の眼や感覚ではそれと気付かない程度に床が傾いている。ありそうなことだったが、それで偏りの説明はついたとして、一度広がった水が戻るのはどういう現象なのか。
水は壁に当たると戻った。戻ってまた別方向へ伸びる。
漏れて来た水が無作為に床に広がっているというよりも、それはまるで、
「なにかを調べている?」
そんな風に見えて仕方なかった。
ただの水がそんな行動をするはずがない。ただの水が来た道をなんの痕跡も残さず戻るはずがない。
動きの速さから考えると、水漏れは相当な勢いであると察せられるのに、それは一定量に達すると更なる増量はしていないように見えた。
床に薄く広がった水の塊が室内を移動し、なにかを調べ、そして消え去るまで10分ほど。
それが姿を消す前に部屋の照明が消えた。
妹が点けたままにしていたのに、妹不在のままスイッチが切れた。タイマーが設定してあったとは考えにくい。だとすれば、今の水が消したとでも?
映像が夜間モードに切り替わる。
カラーは失われ、画質は落ちるが暗闇でも夜間モードでの撮影が行われていた。
水は現れたときの映像を逆再生したような動きで引いて行き、後にはなんの痕跡も残さなかった。
――あれは、なんだ?
水に見えた。
水に見えたが水ではない。水であるはずがない。あれには、まるで意志があるように見えた。
意志を持ってリビングにやって来て、用が済んだから去った。
そうとしか見えなかった。
そして、その後は鈴木たちが立ち入るまで映像データはなかった。妹の最後の姿と鈴木の登場。その間にあったのは、あの水だけだ。
生き物のように振る舞う水。いや、水ではないのかもしれない。
義弘は単細胞生物を思い描いたが、単細胞生物はもっと小さいものであるし知性を感じさせるような動きはしない。
もしあれがなんらかの知性ある生物だったとして、どうして妹が消えたこのタイミングで現れたのか。
あんな生物の存在が明らかになれば、専門家たちが狂喜乱舞するかもしれず、今見ている映像データは世紀の大発見の証拠になるのかもしれなかったが、義弘にとってそれはどうでもいい話だった。
彼が気にしているのはただ一点。
妹の失踪とあれがどう関係しているのか。
嫌な、とても嫌な予感がした。いや、嫌な考えが浮かんだ。
その嫌な考えを明確化することを拒んだのは、認めたくなかったからだ。
妹があの怪物に襲われて、喰われたなどと。
皆様、1人の夜はお気を付け下さい
蛇口から、或いは排水管から、なにかが入り込んだりしてはいませんか?