妻とばくだん
玄関のドアを開けた瞬間、ぞわりとした違和感が背筋をなでた。
「ただいま…?」
返事はない。
いつもならキッチンから手を拭きながら顔を出してくれるはずの妻が、今日は姿を見せない。
胸の奥に嫌な鼓動を感じながらリビングへ足を踏み入れると、そこには座り込んだ妻の姿があった。
「お、おい、どうした…?」
ソファの脇、床にうずくまる彼女の肩をそっと揺さぶる。
視線が合うと、彼女は泣きそうな顔で僕を見た。
「ごめん…どうしよう…」
その声はか細く震えていた。
最初は、単に体調を崩しただけかと思った。
でも、彼女がゆっくり上着をめくると、そこに見慣れない金属の塊が張り付いているのが見えて、思わず息を呑んだ。
「これ…取れないの…」
細いケーブルとランプ、そして大きくデジタル数字がカウントダウンを刻んでいる。
「まさか、爆弾…?」
自分で言っておきながら、そんなバカな、と思いたかった。
「わからない…気づいたら、こんなのが身体に…」
彼女は錯乱しているようで、どうにも要領を得ない。
しかし、言葉よりも先に視界に飛び込んでくる残り時間が、僕の頭を強引に現実へ引きずり戻した。
カウントダウンはあと五十数分ほど。
正気を保つために深呼吸して、スマホを取り出し、警察へ連絡を入れることを思いついたが、何かに阻まれるように指が震えてうまく操作できない。
「落ち着け、いったん深呼吸だ」
自分にも言い聞かせるように、唇をきつく噛む。
「とりあえず、外してみよう。工具ならクローゼットにある」
そう言って工具箱を引っ張り出し、ペンチやドライバーを片手に慎重に爆弾をいじる。
しかし、ちょっとでもケーブルを引っ張るとカウントのテンポが妙に早まる気がして、心臓が冷たくなる。
一度は意を決して線を切ろうとしたが、変に刺激して爆発させるリスクが頭をよぎって手が止まった。
「警察に電話して…専門の人を呼ばないと…」
妻は震える声でそう呟く。
「わかってる…けど、もし爆弾の仕掛けが通信を感知したら…なんて考えると、どこかに妨害装置がある可能性も…」
想像が妄想を呼び、焦りと恐怖が幾重にも重なる。
とりあえず電話をかける以外の選択肢は少ないが、あと数十分の猶予しかない時限爆弾を抱えて、平常心を失わないほうが無理というものだ。
とはいえ、何もせずただ眺めているわけにもいかない。
僕は意を決してダイヤルし、警察につながるまでの数秒間を異様に長く感じた。
しかし、呼び出し音の途中で不自然なノイズが入り、呼び出しは強制的に切れてしまう。
「嘘だろ…繋がらない…」
まるで最初からそう仕組まれていたかのように、電話はあてにならなかった。
「どうする…? このままじゃ…」
妻の声は今にも消えそうだった。
冷静にならなくては、と頭で分かっていても、心は酷く慌てている。
ガムテープで固定してみたり、配線を覗き込んで仕組みを推測しようとしたり、あらゆる手を試した。
けれども、爆弾はびくともしない。
「いったい、誰がこんなことを…」
妻は涙をこぼしながら唇を噛みしめる。
「俺も分からないよ。恨まれるような覚えはないし…」
「私だってないよ…ただ普通に買い物して…気づいたら何かに襲われて…目が覚めたらこれが…」
「襲われた? まさか本当にテロに巻き込まれたとか…」
見当もつかない犯行動機に、僕は底のない闇を覗くような気分になった。
しかし、そんな考察に時間を割いている余裕はない。
改めて爆弾の表示を見やると、残り三十分を切っていた。
「もう…外す手立てはないかもしれない…」
妻のか細い声が耳を刺す。
確かに、僕らは素人だ。
下手に触って爆発を早めるくらいなら、せめて最後の瞬間まで一緒にいたい。
そんな弱気な思考が胸を支配していく。
「まだ、諦めるなって言いたいけど…」
僕は歯を食いしばり、妻の手を握る。
彼女の体は冷えきっていた。
残り二十分。
二人して思いつく限りの方法を試すが、妙に頑丈で複雑な仕掛けはやはり素人に解けるようなものではなかった。
やがて、妻が黙り込み、ぽろりと涙を落とす。
「ごめんね…こんな姿で待ってるしかできない…」
それでも、彼女を責める気にはなれない。
そもそも巻き込まれただけの被害者なのだ。
だったら、僕にできることは最後まで一緒にいることだけ。
時刻を確認し、残り一桁台になった頃、妻がポツリと口を開いた。
「ねえ、こんなときに言うのも変だけど、あなたが初めて私に告白してくれた日、覚えてる?」
少しだけ微笑むような顔で言うから、僕も条件反射で苦笑する。
「もちろん。駅前のベンチで、待ち合わせ時間に一時間も遅刻してきたよね」
「そう…そのときあなた、道に迷った理由を慌てて説明しようとして、噛みまくってた」
「いやあ、緊張してたんだよ。こんなに可愛い人に告白するんだから」
彼女は少しだけ照れた顔をする。
そうやって昔の話をすると、不思議と胸の奥にあたたかなものがよみがえる。
追い詰められているはずなのに、かすかにほっとする自分がいる。
「大学卒業のときも、私、やめようと思ってたアルバイトを結局続けたんだ。あなたが『君が笑っていられるなら、その店でもう少し頑張ってみたら』って言ってくれたから」
「そんなこと言ったっけ。あの頃はお金なかったから、二人で一食を分け合ったこともあったよね」
「うん。それでいて映画を見に行くのは欠かさなかった。夕飯はカップラーメンでも、映画だけはちゃんと見ようって」
懐かしい思い出は山ほどあるのに、言葉にしようとすると、そこに込み上げてくる切なさが大きくて戸惑う。
爆弾がカチ、カチと音を刻んでいるような感覚が頭の片隅から離れない。
残り十分。
「…まだ、諦めたくないけど、どうしてもダメなら…一緒にいたい。最後まで」
妻が僕の手をぎゅっと握り返す。
「馬鹿なこと言うな、爆弾が爆発したら…」
「わかってる…でも、一人で逝くなんて嫌だ…」
「そんなこと…俺の方こそ嫌だよ。君を置いてなんていけない」
自分たちは平凡な夫婦だった。
こういう形で別れが訪れるなんて、誰が想像できただろう。
もし爆発を止められないなら、彼女のそばで、彼女の手を握って、その最期を看取りたいと願う。
残り五分。
爆弾は相変わらず無情に時を刻んでいる。
僕は覚悟を決めて、妻の肩をそっと抱き寄せる。
「最後に…言わせてほしい。いつもありがとう。君と過ごせて、俺は幸せだった」
「私も…あなたと暮らせた毎日が、本当に大事だった。ごめんね、最後まで迷惑かけて…」
「謝らなくていいよ。ずっと大好きだ」
彼女の唇にそっとキスを落とす。
瞬間、妻がぐしゃりと泣きそうな顔になって、でも最後の力を振り絞るように微笑んだ。
「大好き…」
残り一分を切る。
目を見合わせるだけで、もう言葉はいらない。
これが最期の瞬間だと、わかりきっていた。
そして。
爆弾は容赦なく爆発した。
耳を貫く大きな轟音、視界が真っ白に染まる。
一瞬の衝撃と熱がすべてを奪っていく感覚の中で、僕は妻の手を離すまいと強く強く握り締めた。
――と思った次の瞬間、気がつくと僕は真っ暗な部屋の中に立っていた。
耳鳴りがするわけでも、熱に焼かれた痛みもない。
身体を動かすとしっかりと動く。
そして、照明がぱちぱちと点灯し、部屋の様子があらわになる。
「何だ、ここ…?」
壁を見渡すと、そこには「撮影セット」と書かれた簡易プレートが下がっている。
セットの奥から、妻がひょっこり姿を見せる。
「ごめんね、驚かせちゃった?」
まるで何ごともなかったかのようにけろりとしている。
「え、いや、ちょっと待って。爆発したよね? 俺たち死んだはずじゃ…」
事態がのみ込めず混乱する僕に、妻はこそっと笑う。
「だって、これはドッキリだもの。大掛かりな仕掛けを使う企画に応募したら通っちゃって…協力者がいろいろ仕込んでくれたの」
「企画…? なんでそんな…」
「あなた、最近あまりにも仕事漬けでしょ? それで私、夫婦の思い出が足りないよって、どうにかあなたの気持ちを動かしたかったの」
僕はあ然として言葉が出ない。
「まさか、本気で爆発させるとは思わなかったけど、それもどうやら特撮用の演出だったみたい。視界がホワイトアウトして意識が飛んだように見せる最新のVR技術なんだって」
「いやいや、ちょっと待て…」
「怒らないで。あなたが必死で私を助けようとしてくれるのが、なんだか嬉しかった…」
頭が追いつかない。
「人騒がせにも程があるって…。でも…」
腰が抜けそうになったのを何とかこらえて、妻の方へ歩み寄る。
「本当に死ぬかと思った。心臓が止まりそうだったんだぞ」
「…ごめん。でも、そのくらいの衝撃がないとあなた振り向いてくれないし」
「俺はいつだって振り向いてるし、愛してる。だけど、こんな形で確認しなくたって…」
妻は申し訳なさそうに俯いて、それでも表情から少し安堵がにじんでいた。
一方で、僕の方も怒りより先に、なぜかほっとした感情がこみ上げてくるのを感じる。
爆発は作り物だったとわかった。
それは本当に、大掛かりな茶番だったのだ。
「…もう、許すとか許さないとか、そういう次元じゃないけどさ。とりあえず生きててよかったよ」
「うん。私も、あなたの『ずっと大好きだ』を聞けてよかった」
このやり場のない気持ちをどう処理したらいいか分からないまま、僕は妻をぎゅっと抱きしめた。
強く抱きしめたその瞬間、さっきまでの死の恐怖が嘘のように遠くなる。
と同時に、妻の狂気じみた行動にも呆れ果ててしまうのだが、それでも構わないと思えた。
こうして僕らは、もう一度生きる明日へと歩き出すのだろう。
そうやって抱き合ったまま息をつくと、背後からセットスタッフらしき人の微妙な拍手が聞こえてくる。
「お疲れさまでしたー、すごく感動的でしたよー」
僕はなんとも言えない気恥ずかしさに襲われる。
人生の中で最も大げさなドッキリ。
その被害者になったわけだが、同時に自分の中の大事な気持ちを再確認する機会にもなった。
妻をどれだけ思っているかを、僕自身が一番体感したのかもしれない。
ただ、生涯で二度とごめんだ、そう強く誓いながら、しばらく動けない僕は、抱きしめた妻の温もりを感じ続けていた。